誰もが平和の時代と願った21世紀。
人類は愚かにも未だに殺しあいを続けています。

20世紀人類は2億人もの人たちが戦争で殺されました。1945(昭和20)年、敗戦の年の日本人の平均寿命は男24歳、女37歳、驚くべき数字です。
私は世界真の平和を目指し、まずは絶対非戦個人を宣言します。殺したくもないし、殺されたくもありません。戦わないし、戦ってもらいたくもありません。
そして、すべての1人ひとりのかけがえのない命が輝くよう、金光教の信仰により祈り、行動していきたいと願ってます。

「思うがままに」は、2003年8月からはじめました。 「思うがままに」中、平和に関することは「平和雑感」、野球に関することは「野球道」、紀州に関することは「紀州連合」のトピックカテゴリーに、また、過去の年月日別は、リンクカテゴリーの「一覧表」にそれぞれ整理しております。


 ここのところ、私の携帯番号やメールアドレスの変更から多大なご迷惑をおかけしていること、お詫び申し上げます。日頃からしょっちゅうやりとりをしている方には、周知が比較的早くできたと思いますが、連絡が行き届いてない方からお叱りを受けております。まだ連絡漏れの方も多数おられると思われます。

 言い訳を述べます。まずもって「スマホ」なるものが登場し、寮の学生たちのほとんどは「アイフォン」なるものを持ち始めました。「SMS」がどうのとか、「MMS」がどうのか、「ライン」はどうのとか、と通信手段がどんどん進歩します。

 そのうち息子が持ち、寮生たちからもかなりプレッシャーがかけられてきます。寮生間のコミュニケーションはアイフォンの方が断然によくなると言うのです。寮生たちに乗り遅れてはとアイフォンを持ち、ここで携帯番号とメールアドレスが変わりました。

 次に女房がアイパットなるものの購入のため、個人の固定電話をやめることを提案してきました。寮事務室に公的な固定電話と私個人の辻井家の電話が寮監室にあり、この個人の固定電話をやめ、ウィルコムの携帯電話を持てば、どこの会社の電話へかけても10分無料。さらに3台もつけてくれると言うのです。

 毎月の固定使用料金は、それはそれはウィルコムの方が3台もらっても断然安く、通話料もほとんど無料。ということで、私と妻と勝浦の私の父と3台持つことにして、個人ではこのウィルコム携帯電話を持つことにしました。これで携帯番号がもう一つ増えます。

 次にウィルコムの携帯を持つということは、アイフォンのつまり電話機能がいらなくなるということです。アイパット使用でよくなるし、ワイ・ファイの電波を使えば、月々の使用料も安くなるということでアイフォンの電話機能を中止しました。そこで今度はアイフォンの電話番号とメールアドレスが使えなくなり、これまで使っていたパソコン使用のメールに統一することとなったわけです。

 何を言っているのやら、わかる人にはわかると思いますが、わからない人は全くわからないと思います。私もこうなる前は全く理解しておらず、妻がかなりはまって勉強してくれたおかげと寮生たちが周りにいたからこそできたのであり、その点では感謝しております。

 というわけで、かなりややこしい変更になってしまい、最後のこうなりましただけをご連絡申し上げたらよかったのですが、何せ時間差があり、ややこしいことになってしまいました。事情ご賢察の上、ご容赦下さい。世の中の進歩は早すぎます。(*^_^*)

   

大雪

| コメント(0)
  雪国の方々は、何を大騒ぎしているのかと思っていることだろう。あっちもこっちも大変である。
  
  それほど首都圏は雪に弱い。ほとんどの電車は遅延をきたし、道路は立ち往生する車が続出、大渋滞。
  
  私も昨日の雪かき、今日の東京センター行き帰りは大変だった。小金井も御茶ノ水も救急車のサイレンが鳴りっぱなし。
  
  何年かに一度は必ず降るのだから、1年、2年では対策はできないだろうが、それこそ20年、30年かけてだんだんに強くしていくことが必要だったのではないか。
  
今からでも遅くない。将来を見据えて複数年度で使える予算を用意して、だんだんに整備していく発想はできないものだろうか。

とっさの行動ができました。

| コメント(0)

 昨日は義父の五十日祭、納骨祭が神戸の金光教山手教会で仕えられ、参拝した。妻は1日早く大阪入りし、娘と2人新幹線で神戸に入った。娘と私は性格や食べ物の好みが似ているが、時間に心配性なのも似ている。

 7時50分東京発の指定席をとっているのに、7時には東京駅に着く。「早いに越したことはない」と2人で言い合いながら待つ。そして定刻通り出発。ここのところバスか車だったので、改めて新幹線の速さに驚く。

 本日これから寮月例祭なのでトンボ帰り。神戸の町は阪神大震災以来なので残念であった。ただ、帰りに嬉しいことがあった。東京駅から中央線に乗ってある駅に着いたときのこと。私の右側2つ向こうの女性が席から立った瞬間手袋を落とされ、気がつかずに出口へと向かった。

 これまでの私はいつもとっさの動きができず反省ばかりであった。ところが今回は、右の方より早く瞬間的に動くことができた。ただ、追えば間に合うと思って声は出さなかった。というより出なかった。

 ところが意外と女性は出て行くのが速い。追いつかないと思ったであろう男性が「落としましたよ」と声をかけ、その後すぐに女性の方も「落としましたよ」と声を出してくれ、ホームに降りていて女性がようやく気づいて振り向いてくれた。

 そして手渡そうとした時にドアーが閉まりかけ、間一髪、間に合った。この間数十秒であるが、もし声をかけてくれなかったら渡せなかっただろう。3人の連係プレーが功を奏した。席に戻ったら、真正面に座っていた娘が「よくやった」というような笑顔を向けてくれたのが非常に嬉しかった。

 当欄2010年7月11日付「善意の連携プレー」で傘を落とした私が連係プレーで助かった経験を書いた。(http://konkokyo.main.jp/gsblog/2010/07/post-187.html

今度は私がとっさの行動がとれることができ、また廻りの方の機転もあり、ありがたいことであった。日頃の反省が1つ生かせた出来事であった。

 本日の月例祭・食事会の当番は、中国と韓国の女性3人。さっき買い出しに行ってきたが、楽しみである。それにしても中国はやはり広い。打ち合わせのとき、中国からの留学生2人は、同じ鍋料理でも入れ方や具材、やり方がほとんど違っていた。私達がイメージししている中国はほんの1部のところというのがよく理解できた。

 考えてみれば、日本でも地方によって全然違うものもあり、思い込みや偏見は極力なくしていかなければと改めて思わされた。

体罰は絶対いけない

| コメント(0)

 また、起きてはならない悲しい事件が起きてしまった。昨年12月下旬、大阪市立桜宮高校2年の男子生徒が自宅で自殺、生徒は男子バスケットボール部の主将で、同部顧問の男性教諭から自殺前日、体罰を受けていたとのこと。

 市教委による「体罰の事実は認めるが、自殺との因果関係についてはわからない」との決まり文句には本当に憤りを覚える。なぜ、はなから責任逃れのコメントを出すのだ。少しでも疑わしきがあれば、徹底的に対応するのがその役割ではないのか。
 

  「『凡そ学校に於いては、生徒に体罰(殴るあるいは縛するの類)を加うべからず』。1879(明治12)年に制定された教育令第46条だ。学校体罰の法禁の最先進国といわれるフランスより8年も早く、日本は体罰を法令で禁止していた」。(1月9日付『毎日新聞』余録より)

 それから134年、いまだに「愛があれば」という体罰を肯定するニュアンスの発言があることにも怒りを覚える。誠に情けないことだ。本当に愛があれば、体罰などしなくても十分に指導できるのだ。自殺した高校生の方は、報道通り責任感の強い子だったと思う。それゆえ主将としてその責任を果たすことのできない自分を責め、苦しみ悩んだ上での自殺だったのだろう。

  私の知人に、自身の子どもへの体罰で、その子が成人してもなお心を病み、社会生活ができていないことについて真剣に反省している人が一人ならずいる。親でさえ責任がとれないものを先生がとれるわけがないのだ。「取り返しのつかないことになる」ということを重々わかってもらいたい。体罰はいかなることがあろうともしてはいけないと思う。

  あけましておめでとうございます。昨日無事帰ってまいりました。渋滞は覚悟してましたが、朝8時半に出発して、午後10時頃つきました。

 渋滞区間は3カ所くらいなのですが、やはり伊勢自動車道から東名阪道、亀山から四日市あたりまでの渋滞は、10キロ程度とでるのですが、全く動かなくなってしまうので、2時間近くかかってしまうこともあります。

 次が新東名と分岐点手前の岡崎付近と何時も渋滞している横浜町田付近がやはり25キロ程度の渋滞でした。帰ってきても当分揺れているような感覚が続きました。中央道は笹子トンネル付近の渋滞がいわれてましたので避けましたが、結果4キロ程度の渋滞だったそうです。


  それにしても昨年末から海老名か足柄のサービスエリアに何回立ち寄ったことでしょう。11月末からの一月で、勝浦大祭、御本部参拝、義父の葬儀、東セ職員研修と今回の5回で、一度大阪からの帰りに通った中央道は、あの笹子トンネル事故の2日前でした。

 この間、悲惨な事故を何度も見ました。年末年始、事故関係者の皆さまのことを思うといつも心が痛みます。車の運転はあまり好きなほうではないので、なるべくなら乗りたくないのですが、経費のことを考えるとどうしても車を利用してしまいます。

  車の話で長々となってしまいましたが、皆さまどうぞよろしくお願い申し上げます。

皆様、よいお年を

| コメント(0)
  12月29日に妻の実家で仕えられた義父の30日祭に参拝。その後勝浦帰ってまいりました。本日勝浦教会の越年祭が、仕えられました。当ブログ更新する間もなく、帰ってきてしまいました。

  現在、Wi-Fi電波を使い、iPadで何とか更新を試みたところであります。衆議院選挙のことなど言いたいことが山ほどあったにも関わらず、時は過ぎて行きました。

  なかなかここで一言で言い表すことが難しいですが、平和な世の中を願うところは皆同じなので、何とかよい年になることを祈るばかりであります。

皆様、よいお年をお迎えください。


本質をみる

| コメント(0)

 先日のいつだったか日曜日の朝早くたまたまテレビをつけたら、NHKの「桂文珍の演芸図鑑」という番組で、ちょうど桂かい枝さんの落語をやっていた。残念ながら途中からだったが面白かった。

 かい枝さんは金光教と関係があり、首都圏の金光教主催の催し物で2度ほど生で落語を聞かせて頂き、主催者の方のご配慮でちょっとご挨拶をしたこともある。「英語落語」という新しい分野を築き、いまや中堅以上の大物となって大活躍中だ。

 その落語の後に文珍さんの座談相手として出てきたのが山本一力さんという作家。恥ずかしながら初めて知った。文珍さんと同級生とのことで、人生を重ね、苦労をされて作家になったそうだ。その方のお話がよかった。

 一力さんは若い頃、旅行会社に勤めていた。その時の上司は非常に恐かったが、その一言一言が人生の糧となり師匠となった。ある日、添乗員として旅行に行く前に「物事は何でも本質をみなければならない。添乗員の本質とは?」と聞かれたそうだ。

 一力さんはやれ「サービスがどうの、あれがどうの」と一生懸命答えたが怒られたそうだ。「本質は1つしかない」と。「旅行に行くお客さんは皆さん笑顔で出て行く。この方たち全員を笑顔で帰すのが添乗員の本質だ」と。

 思わず「なるほど」と唸った。私も日頃から物事をみていくときに、「正しい、間違っている。よい、悪い」の正邪や善悪で判断すべきではない。「本当のところはどうか」、「本物かどうか」という基準でみる大切さを言ってきた。

 この見方も山本一力さんの上司が仰った「物事の本質」をみることになると思う。最近テレビが面白くないとよく聞き、私もそう思うが、たまにはいい番組に出会い、よい言葉に出会うこともある。早速に山本一力さんの小説を読もうと思う。

東京センター職員研修会

| コメント(0)

 先日の17日には、本年原子力発電問題に取り組んできたいよいよ最期の現代社会問題研究会があった。それぞれメンバーがこれまで発言してきたことを文章にまとめたものが提出され、検討した。来年の1月中には東京センター側でとりまとめて、ご本部当局に報告書を提出する予定だ。

 それから18日、19日と東京センター来年度の計画会議とそれぞれの役割をきっちり決めるための会議が熱海で行われた。毎月積み立てて年末には結束を図るため、一泊で研修をかねて開いている。

 その中で私に関わることとして、来年31回としてさらに平和集会を展開していくために、その企画会議の持ち方や方法論についていくつか提案した。そこで出てきたことで、平和について「1人ひとりがどれだけそこに熱意があるか」が大事だとの指摘が出た。

 しかしこの平和の問題は、それでは「熱意がなければ何もしなくてもいい」というわけにはいかない。社会存在としての教団の責務を果たすために設置された東京センターの存在理由にも大きく関わる。避けては通れないのだ。

 そうした議論をしていたところ、若手の職員から「先輩の先生方が情熱をもって取り組んでいるのはわかるが、後輩にその範を示し、もっと教えてもらいたい」との要望が出された。それではと、来年早々私が平和への取り組みについて話すことになった。

 平和へのベクトルが逆方向へ流れはじめている。世界真の平和へ向けていよいよ立ち処を明確にし、その方向性を指し示していかなければと念願している。

 今年はS先生とY先生と3人でS車で参拝した。S先生は9日の祭典後に同期会があるので2泊3日の行程。「世界平和を祈るつどい」の準備のため、前日8日の午後3時にはご霊地に着いていなければならない。最初は夜中の3時か4時頃出ようと考えたいたが、結局10時出発となり、休憩して寝ながらゆっくり行こうとなった。

 新宿で待ち合わせをして、10時予定通り出発。結局朝8時頃には着き、G教会控所で仮眠させて頂いた。が、ほとんど寝られなかった。お昼頃になって「つちや」で昼食。ご本部人事課等用事を済ませて、財務部等まわっていたら、外は吹雪になっている。

 いまから掲示板を運んだりしなければならないのにと気分が完全に萎えてしまった。しかし、15時にはおさまり準備開始。いつもの年よりかなり寒い。修徳殿での会場準備や外に張り出す全教の平和活動記録写真の掲示板作りをした。

 当日当つどいの直前に同じ場所で行われる信奉者集会の準備の御用してきた学院生5人のうち、女性1人をのぞいて後の男性4人は何と全て東京学生寮の出身。担当の本部教庁の女性の先生に「手伝ってもらっていい」とダメ元で頼んだら、何と快く引き受けてくれた。さすが中日ファン。(*^_^*)

 大勢での作業ははかどり、予定より30分以上早く準備がすんだ。本当に寒い中を助かった。感謝、感謝である。

 午後6時からは、学生会OB会役員会が土佐屋で開かれた。9名の参加であったが、今回は現役学生会をどう支援していくかについて話し合い、ご本部の学生会担当の先生が2人参加された。

 何と先ほどの女性中日ファンの先生がその1人。OB会としてできうることは、いろんな既存の枠やしがらみなどを越えて積極的に支援していくことになった。私は母の実家にお世話らなるため定刻で帰ったが、光風館に止まる先生方が何と翌1時頃まで盛り上がったとのこと。年の割にみな元気である。  

 祭典当日の12時から「世界平和を祈るつどい」が開催され、何と今年は200人の参加を得た。昨年の倍以上か。「原子力発電問題を信心でどうとらえるか」というテーマをもって望んだが、なかなかの評判であった。詳細はまた落ち着いて報告したい。

 布教功労者報徳祭に参拝。修徳殿片付け後、本日帰る先生方がまだ時間があるので神露に。超寒い中を熱燗を少し頂くが、全くもって酔わない。早々に引き上げ、私は親戚でもう一泊させてもらい、翌日朝10時に出発、昨日無事帰寮した。

義父中島秀夫逝く

| コメント(0)

 12月2日寮講演会、願い以上の万事のご都合お繰り合わせをいただき、無事開催御礼。その4日前の11月28日午後7時1分、義父の中島秀夫がこの世の生を終えた。84歳であった。

 義父は、若い頃の大病でそれから腎臓一つで生きてきた。何度か大きな病になるも、その都度おかげをいただいてきた。が、昨年脳出血で倒れた。手術をするにも腎臓が一つであることと、この時は他のいろんな原因も重なり、手術は相当の危険を伴うとのことであった。

 手術するかどうかの決断を迫られ、わずかでも助かる道があるのならと踏み切り、ここでも大変なおかげを蒙り、その後1年ほどは元気に生活をしてきた。しかし、10月くらいから酷使し続けた腎臓がいよいよ悲鳴をあげ、だんだんにクレアチニン数値が上昇し、2から5へと跳ね上がってきた。普通なら腎不全で透析である。

 すでに透析しても数値は戻らず、もって年内とのこと。治療不可能なので入院もさせてもらえない。近くの主治医の指示を受けながら、後は在宅で看取るという状態となってきた。11月23日勝浦教会の大祭で今年は長男が勝浦におり、娘も大学生となったことから久しぶりに女房も帰る予定にしていた。

 しかし、やはり在宅での介護は大変で、義母も夜もろくろく寝られない状況となり、体調を崩してしまった。そこで16日頃であったと思うが、女房が実家に戻った。大祭は1人で帰ることとなったが無事に終え、次は12月2日の講演会はどうかという状況になった。

 その大祭の頃から明らかに衰弱が進み、クレアチニン数値も8.5となる。もうほとんど食べられない状態となってきた。25日頃からは水分もとれないとのこと。主治医の先生によると昏睡状態になっても2、3日は生を受けているとのことで、そうなれば一旦東京に帰ってくるとまで言ってくれていた。

 万事にいい加減な父娘を残して、寮や家のことも心配なのであろう。この時期は寮前庭の桜の木の葉が毎日大量に落ちてくる。この落ち葉掃きが大変。1人では軽く1時間以上かかってしまう。その落ち葉掃きを私が大祭に帰っている間に娘が1人でしたとのこと。一応正面入り口ゲートの外側だけは『あまり溜まるようだったらしてね』とお願いはしていた。 

 ところが何と3時間かけて掃除をしてくれた。万事にいい加減ではあるが、私と同じB型人間、やる時はやり、それも完璧にやらなければ気が済まない。娘はなぜか食べ物の好みや習性等々私にそっくり。

 私が東京センター行っている間にもう一回落ち葉掃きをしてくれ、この時ばかりは雪が降るか、気温が30度以上にあがるのではと本当にびっくりした。予想に反してよくやってくれているので嬉しい。が、やはりこの2人なので部屋はすぐにぐちゃぐちゃになる。それでも仲良く何とかやっている。

 さて、そうとしても、2日当日に支障が出てくる可能性もだんだんに高くなってきた。そこで、27日の日に寮長と役員に万が一前日、当日と2人がいない場合を想定して事細かに打ち合わせをした。講演会前に行われる月例祭の祭主が藤原務正先生だから、まあ何とかなるだろうと。

 28日はどうしても東京センターへ出なくてはならず、その夜は「金光財団」関係者の懇親会がある。私の都合で一回流してしまったので出席した。そういうときに何かあるのではと思っていたが、案の定その最中に亡くなったとの電話があった。

 その日中に義父のお参りしている山手教会長との打ち合わせで、30日終祭、1日告別式と決まり、翌29日9時30分に葬儀社との打ち合わせで正式に決まることになった。これで私は当日だけはいることができる。

 29日朝から月例祭のための御神殿の調撰や最終的な準備品の購入など進めようとしていた。8時頃に女房から、山手の先生から今日終祭、30日告別式でも大丈夫と連絡があったと。2日講演会があることを知り、配慮してくれたらしい。 

 その方がもちろん有り難く、後は葬儀場と火葬場の都合となった。そこからすでに仕事に出たであろう勝浦の息子に連絡。今日の可能性もあると。娘にはすぐに大阪に行ける準備を指示。私の方はどちらかに決まらなければ準備のやり方が変わるのでオロオロ。

 ようやく10時に連絡があり、今日夜7時終祭と決定。大阪まで車で7時間、休憩、渋滞を考えると11時には出なければならない。後1時間、そこから今度は一泊で大阪に帰る準備に変更。とりあえずは最低必要な礼服等を用意する。そのような時に女房から黒のハンドバックとかいろいろ持ってきてほしいと電話がかかる。

 ここでイライラして慌てたらいけない。女房はそれどころではない、と言い聞かせ、なぜか「つった暖簾にもたれかかる心」とのみ教えが頭に浮かび、落ち着く。娘も神業と言いながら準備を済ませ、11時過ぎに出発。息子も急遽仕事を休むことができ、無事終祭、告別式とおかげを蒙った。

 30日葬後霊祭に参拝後、帰京。今大変になっている中央道を通って夜中の2時30分頃到着。寮の講演会には前々から息子が出席予定だったので、運転を代わってもらい助かった。娘も1日土曜日1限の授業に出ることができた。

 1日の懇親会おでんの材料等の買い出しも、車がないので自転車で行ってもらうことになっていた。ところが何と天気予報が外れての大雨。息子に車を出してもらい事なきを得る。このようにまさに願い以上の数々の万事のご都合お繰り合わせをいただき、おかげを蒙らせていただいた。感謝、感謝である。 

 以上のようなことで、半月ほど女房がいなくて、寮生たちには様々に迷惑をおかけしていることと思う。誠に申し訳ないことではあるが、事情ご賢察の上、ご容赦を。

 私の方も実は東京センター主催の現代社会問題研究会で、現在原発問題をテーマに取り組んでいるが、12月17日の会議までにレポートを書かなければならない。資料は最低限集めてきてはいるが、それを読む暇がなく、かなり焦ってきている。そのようなことでなかなかブログが更新できない毎日を過ごしている。また、ボチボチ義父のことや講演会の報告をさせていただきたい。しばらくはご容赦を。

ウェブページ

Powered by Movable Type 4.27-ja

2017年2月

      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        

最近のコメント

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カウンター

累計:
本日:
昨日: