自立的自由人

                                    

凡愚第4号巻頭論説 1997年冬季号

 明治43年、金光教東京寮創立時の『綱領』の結論部分に「軽佻浮薄なる何者にも己が第一義とする所を従へざるは、其今月今日の覚悟とする所なり」とある。私が学生当時、「己が第一義」というのは自己中心的な考えにつながり、おかしいのではないかとの議論があった。
 
 そこで、自分が第一義とする、例えば「実意」に従うといった解釈をすべきであるということで落ち着いたような気がする。しかし、「己が第一義」は素直に「自分自身が第一義」であるとも読めるし、いずれにせよ自分自身が決めるという点で自分個人ということが尊重されているのは間違いない。
 
 この一見、自己中心的に見えるあり方が、実は自分を大切にすると同時に、すべての人間一人一人の尊厳を大切にするあり方につながっていく。その一人一人の人間は、自立した自由な姿であり、それを自発的に受け止めた「金光教人」を、金光大神の信心に基づく「自立的自由人」であると言っている。あくまでも、金光大神の信心の根本である、「すべての人間一人一人」が大切にされていくのを第一の価値におくのだ。
 
 「自立的自由人」は、自分、自我というものを大切にしていく方向から出発する。ふつう我々は、自分をできるだけ制限して、人のため、社会のためになっていく生き方がよい生き方と教えられる。特に、信仰は、「自分」「私」を無くして、「人」「神」のために生きることの大切さを教える。確かにその方向は大事である。しかし、歴史を振り返ったとき、あるいは現在においても、その方向は、往々にしてそうはならないという陥穽におちる。
 
 例えば、戦前の日本、国家絶対主義体制の下で、「滅私奉公」が叫ぼれ、個々人のところでは、自我を制限し、清く正しく美しく生きた。しかし、日本国家という集団は暴走し、多くの人々が意味もなく犠牲になった。また、最近ではソビエト連邦の崩壊だ。個々人のところでは、「平等という」一つの価値が徹底され、人々はそれに従って生きた。しかし、国家全体では、平等とは正反対の貧富の格差が生じ、内部から崩壊した。
 
 現在においても、例えば学校社会である。個性尊重よりも「和」の精神に重きを置き、学校は管理を徹底し、親は人並みの普通の子どもであることを強いる。試験の点数でしか人間の優劣を決めてくれない中で、子どもたちはその反動で同質化を求め、同調しないものは排除する。大人社会においても、この「和」の精神で間違う。自我を極力抑えて、「みんなと一緒」や「みんな仲良く」という方向が「みんな同じ」という考えにつながり、違うものが進入したときは排除し、または他を同化させようとする差別の構造を生み出す。
 
 また、人間が「神」の権威を利用して、個々人の自我を制限し、支配、従属という関係が生まれ暴走するといった集団が未だに次々と現れる。
 
 そもそも人間は「自分が一番かわいい」だ。人間をはじめすべての生き物は、天地金乃神様からそれぞれに違ういのちを頂き、そのいのちを違ういのちから守ろうする。そうでないと生きていけないのである。従って、人間が生きようとする時に「自分が一番かわいい」と思い、行動するのは普遍的真理である。
 
 しかし、人間は一人で生きているのではない。この「自分が一番かわいい」と思う「私の我」は、同じように自分がかわいいと思っている「人の我」を認めなければならない。なぜならば、認めなければ「私の我」が侵害されるからである。ゆえに「自立的自由人」は、自我を大切にするところから出発し、他者への配慮へと展開する。人間が互いに尊重していこうという方向へ向かう。でなければ、自立も自由もないのである。
 
 その文脈で、「自立」と「自由」の意味合いだ。ふつう、「自立」の反対概念は「依存」とされる。が、「自立」と「依存」は矛盾しないと考える。繰り返すが、人間は一人で生きているのではない。親や人、天地のお世話になり、はじめて生きていけるのである。「依存」あるがゆえに感謝という気持ちが生まれ、真に自立の方向へ向かう。
 
 逆に現在では、「人の迷惑にならないように、自分で責任をもって」と教えられてきた結果、他の世話になるということが下手である。自分で何でもできることが「自立」と勘違いして社会性をなくし、「孤立」してしまうということが起きている。
 
 また「自由」の反対板念は、「拘束」や「束縛」など色々あるが一言で「不自由」とする。自由とは、何事にもとらわれないこと。その意味で「不自由」はないことになる。しかし、「自由」は「自由」というものだけにとらわれる。つまり、人の尊厳を侵害しないという一点だけにはとらわれるのである。でなければ、私自身への侵害も認めることになり、そもそも「自由」という概念が成り立たなくなるのだ。
 
 ゆえに、「自立」と「自由」は、「依存」や「不自由」も含み込んだもの。自立的自由人は、自分で自分が「自立」できないと腹入れすることから出発することで、真に「自立」していき、自分で自分が「自由」にならないことがあると押さえたところから、自由を求めていくところに真の「自由」を獲得する。
 

○.

 最後に本号特集テーマ「共同体」にふれる。我々は、同じ信仰を持つものとして教会を作り、教団を作って共同体を形成している。その共同体は、これまで述べてきた文脈においての共同体であるべきだ。ふつう共同体は、共同であるがゆえに必ず個人の価値が全体の価値につながり、共同体独自の強固な価値を形成した。その価値は、内に向かっては必ず構成員を抑圧し、外に向かっては服従を促し、抵抗するものは必ず排除する。     
 
 この共同体の本質をしっかりと踏まえ、そうならないように、我々共同体の構成要素である教団等を、常に相対化してみていく必要がある。具体的には、統合や秩序に向かう論理(規則等)は最小限に押さえ、構成する一人一人の最大限の自由を確保していくことである。
 
 我々が指向する共同体がもつ独自の価値とは、すべての人間一人一人のために、多様な価値を互いに認めあうという価値だ。そこは当然外に開かれた共同体であり、他との様々な共同体とも共生を願うものである。ただ一点認められないのは、独自の価値を絶対化し、内を抑圧、外を排除し、共生を望まない勢力だ。前に述べた「大日本帝国」、「ソビエト連邦」は崩壊した。この方向は必ず世界を崩壊させる。
 
 わが神様は、ある特別の選ばれた人だけを助けるのではなく、すべての人間一人一人の助かりを願われた。「人間あっての神」と我々人間のカを認め、神様自らが自分の存在を相対化し、さらに人と人とが互いに助け合うことによって「神を助けてくれい」とまで信頼して下さる神様である。
 
 「神人あいよかけよ」の世界とは、「すべての人間一人一人」が尊重される世界であり、金光教人である自立的自由人は、すべての人間一人一人がよりよく生きることができるように、自分を大切に、人を大切に、すべてを大切にしていく生き方を日々実践し、世界真の平和に向けて、日々あいよかけよの世界を実現していくものである。
                                               
                                               了