憲法「改正」と本教の対応ーなぜ憲法「改正」か

憲法「改正」と本教の対応                         

                    金光教勝浦教会在籍教師 辻井篤生

なぜ憲法「改正」か
 こんにち、衆参両院の憲法調査会報告や自民党新憲法試案要綱が次々と出されたが、条文化にはほど遠い段階にはある。しかし、着々と改憲に向けてことをすすめている。その論議の中心である憲法9条改正の論点は、@軍隊の保持A集団的自衛権の行使B国際協力における海外の武力行使の3点を容認するかどうかである。
 改憲を志向している人々の最大の動機は、日本国憲法と安全保障政策の間に矛盾があることであろう。
まず平和の理念として9条に、@一切の戦争と武力行使の放棄
              A戦力の不保持
              B交戦権の否認をうたっているにもかかわらず、自衛隊という武力を持っていること。それよりまして問題なのは、この平和の理念をうたいながら、他方で他国の軍隊に駐留させて、戦争をやってもらうという形になっていること。
 つまり、どうしてもアメリカに助けてもらわなければならないとこれは日本国民の多くの人が思っている点である。
 ただ「今のアメリカは、いのちをかけてまで日本を守る強い動機はもはやない。アメリカの無条件の善意をあてにした一方的な依存関係にある。多くの日本人はそのことに対する負い目を感じている」との指摘もあり、特に強く改憲を主張している方々は、「自尊心を著しく傷つけている」ようだ。まずはそれを解消したいのである。
 そして「改正」の最大の理由が、
 アメリカの世界戦略、すなわち「アジア太平洋地域の軍事的な安全保障を日本に分担させる」ことに応じることと、一方わが国の理由としては、「政治的に不安定なアジア・太平洋地域への日本企業の展開が、企業活動の自由や安全、権益の擁護のために国家による政治的、軍事的バックアップの要請」をもたらしたことにある。
 こうして日米指導者の思惑の合致と先の日本人の心情が合わさった形で憲法改正へと向かっているのである。

新憲法起草委員会の要綱には
 このように見ると、このたび出された自民党の新憲法起草委員会の要綱には、「自衛軍を保持する。自衛軍は国際の平和に寄与」と明確に軍隊と位置づけている理由がわかる。この軍隊への格上げの意味は、自衛隊を軍隊と呼ばない所以の海外に軍隊を出せない「専守防衛」を捨て、軍の海外展開をはかるための1点にある。集団的自衛権や国際平和の寄与という名の海外での武力行使容認も一連のものである。軍をもたないと言いながら持っている矛盾を解決するために、自衛隊の存在を明記した方が歯止めになるという段階をすでに遙かにこえているのだ。

本格的参戦への道
 それは、もし2001年当初に憲法が改正されていたらどうなっていたかを想像すればわかりやすい。このたびのイラク戦争は当初の理由からかけ離れ、アメリカの自衛のための「対テロ戦争」ということになっている。同盟国であるわが日本はイラク・サマワへ国際貢献のための自衛隊派遣というようなお茶を濁したやり方ではなく、堂々と参戦し、日本人にも多くの犠牲者がでたであろう。当然その前のアフガニスタン攻撃も参加したであろう。戦争のそのほとんどは、「自衛」の名において始まっている。「対テロ戦争」という終わりなき戦争へと足を踏み入れてしまうことは必定である。
 もちろん改憲論者たちは日本人の戦死者や戦争犠牲者が出るのはすでに織り込み済みである。ゆえにこぞって靖国神社に参拝し備えている。が、これを国民に対してストレートにいうと、とても改正は無理となるので、北朝鮮脅威論や国際貢献論、一国平和主義批判を展開しているのである。

北朝鮮脅威論 
 北朝鮮がまるですぐにでもミサイルを撃ち込んでくるかのようにいう。国際協力もまるで軍事力かお金の貢献しかないような言い方しかしない。これでは、私たち国民も相手が悪いのだから心配だ、あるいは紛争しているのが悪いのであって軍事力による貢献も仕方ないと思ってしまう。
 こうして多くの国民が先の負い目の心情も手伝って、現実的な方策は軍事力を容認する憲法改正しかないと思いこんでしまう。しかし、その方がよほど危険であることは先に述べた。そうではない、平和憲法を生かす形での、つまり憲法を固定して安保体制や安全保障政策を変えていく道があり、その方が特に東アジア地域での平和にもつながり、やがて世界を平和へとリードしていく道となる。

本教の対応
 世界真の平和を願う本教は、「武力による問題解決はいかなる理由があろうとも容認できるものでない」ことを表明している。先に見てきたように「専守防衛」を遙かにこえた軍事力展開をねらった憲法改正は到底許されないであろう。戦争へと踏み込む可能性のある憲法改正を阻止するために積極的な発言や行動が必要である。
 本教はこれまで、1人ひとりの思想・信条の自由を守るために政治的な発言は極力さけてきた。しかし、ことこのたびの憲法改正の問題は、いち本教教団存立の問題だけではなく、日本国や人類の生存にかかわる問題であり、積極的に社会存在としての教団の役割を果たす必要がある。
 特に本教は政治色が強くなればなるほど拒否反応も大きい。それは信仰の本筋を離れ、現実の問題に引きずられ、右往左往することを危惧してとのことと思う。確かにそのあり方は政治にいいように利用されるだけで終わる。この信仰と政治の問題を考えるときに学問と政治関係が参考になろう。つまり、政治的なものに完全に距離をおく歴史学でいう「価値中立」や一般の学問でいわれる「価値自由」では平和問題には対応できず、病気の根絶や暴力の根絶を最高の価値・理念としている医学や平和学でいわれるところの「価値指向」的に対応しなければならない。

私たち金光教信奉者の方向性
 その方向性は、私たち金光大神の信心の立場から発せられる内容や社会的信仰実践をもって、時の政治に生かされ、政策変更を促すような働きかけをしていくことにある。決してある政党を支持するようなあり方ではない。
 さらに言えば、国民国家を基本とした資本主義や社会主義といわれる政治や経済の枠組みが、グローバリーゼーションの影響から変化を余儀なくされている中で、本教の提言が、これまでの枠組みをこえた「新しい政治」のあり方に示唆を与えていくことも出来るであろう。
 例えば、私たちが普通にイメージしている自集団への利益誘導やイデオロギーや主義・主張の実現を目的とする対立する政治観から、多様な価値観を持っている人が、それでもお互いを認め合って共存し、社会生活の便宜やコストを分かちあっていく枠組みをつくることを目的とした政治や、多様な選択肢が用意された協同、共生社会の実現を目的とする新たな政治への展開に資する可能性もある。
 私たちの平和憲法を尊重する立場もその方向性にあるのである。

 

               

『金光教非戦・平和NET』2005.5.15 1頁