教祖金光大神様のみ教え

                                    
 
天地金乃神のご神体は天地である。宮社に鎮まり納まっておられるのではない。真一新の心に神がおられて、おかげになる。
 


神は人間を救い助けてやろうと思っておられ、このほかに何もないのであるから、人の身の上にけっして無駄事はされない。信心しているがよい。みな末のおかげになる。     
                 


天(あめ)が下の者はみな、神の氏子である。天が下に他人はない。



人間を軽く見るな。軽く見たらおかげはない。



人の身が大事か、わが身が大事か。人もわが身もみな人である。



人が人を助けるのが人間である。人間は、子供がころんでいるのを見て、すぐに起こしてやり、また水に落ちているのを見て、すぐに引き上げてやることができる。人間は、万物の霊鳥であるから、自分の思うように働き、人を助けることでできるのは、ありがたいことではないか。
牛馬その他の動物は、わが子が水に落ちていても引き上げることはできない。人間が見ると、助けてやれる。牛馬や犬猫の痛い時に人間が介抱して助けてやることは、だれでもあろう。人間は病気苦難の時、神や人に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのが人間であると心得て信心をせよ。



わが身はわが自由にならないものである。



人のことをそしる者がある。神道はどう、仏教はこうなどと、そしったりする。自分の産んだ子供の中で、1人は僧絽になり、1人は神父になり、1人は神主になり、また、役人になり職になり、商人になりというようになった時、親は、その子供の中でだれがそしられて、うれしいとも思うだろうか。他人をそしるのは、神の心にかなわない。釈迦もキリストもどの宗祖も、みな神のいとし子である。



人を殺さないと言っても、心で殺すのが重大な罪である。人を鉄砲でうったり、刀で切ったりしなければ、私は人を殺してはいないと言うが、それは目に見える。目に見えない心で人を殺すことが多い。それが神の心にかなわないことになる。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれの仕置きにあうが、心で殺すのは神がおとがめになる。



たとえ人にたたかれても、けっして人をたたいてはいけない。人に難儀をさせるな。よい心にならせてもらえばありがたいと思い、すれ違った人でも拝んであげよ。できるだけ人を助けるようにせよ。



信心する人は、人に頭をたたかれても、私の頭は痛みませんが、あなたの手は痛みませんか、という心になり、また、頭から小便をかけられても、ぬくい雨が降ってきたと思えばよい。



心は広く持っておれ。世界は広く考えておれ。世界はわが心にある。



金光とは、金(きん)光るということである。金は金乃神の金、光は天つ日の光である。天つ日の光があれば明るい。世界中に天地金乃神の光を光らせて、おかげを受けさせるということである。

金光教教典抄から1部抜粋