人権を考える

                                    

TOKYOセンター通信 NO.76 2002.1 4頁

 
教義に関する懇談会
 「人権を考える」
 
去る11月29日、「教義に関する懇談会」を開催した。今回は1997〜98年の「現代社会問題調査研究会」のメンバーであった辻井篤生東京センター嘱託の発題をもとに懇談をした。

【発題要旨】
○人権は普遍理念か
 人権とは「すべての人間が人間であることによって当然に享有すべきだと考えられている基本的な権利。基本的人権は、近代社会に取り入れられて、実定法上の権利として認められているが、その根底には人間は生まれながらに国家権力によって侵しえない本質的な権利を有しているとの自然権思想がある」『社会学事典』(有斐閣)とされている。しかし、この人権が自明の理であり、人類の普遍理念とされていることが歴史的に国内外に様々な問題を引き起こしている。その中で特に今日的に問題となっている状況をみたい。
 
 国内では、いわゆる「人権のインフレーション」と呼ばれる何でもかんでも人権の問題にする風潮がある。例えば、東京センターの平和セミナーでここ数年取り組んできた「いじめ」や「幼児虐待」、「夫婦間暴力」などの問題だ。本来なら親の愛や他者への思いやりなどの価値が、家庭や地域社会、教育現場での人間関係の中で育まれ、そうした努力によって問題を抑止したり、解決へと導いていた。しかし、家庭や学校、地域社会の現場で問題を解決していく当事者能力が低下し、それが人権の問題となる。結果、人間の生活を過度に「権利」中心に発想し、あらゆる価値実現や紛争解決を法的制度に委ねてしまうことになる。

 そこでは自己主張的、対決的、強制的色彩を過剰に帯びた非常に住みにくい社会になってくる。これは今日に特有の権利対権利の相克や自動車事故などで、法的責任追及にこだわるばかりに「先に謝ってはいけない」と教えられることにみられるであろう。もうひとつは「自明の理」と押さえたことによって、人権といち早く唱えた方が正義となり、それ以上の論議の余地を奪い取ってしまう風潮である。例えばナイフを学校へ持ってきた生徒に対して先生が注意し取り上げようとすると、それは「人権侵害」だと言い返されて何も言えなくなったといったことに象徴的に現れている。

 次に広く世界に目を向ける。近代ヨーロッパで発生した人権の思想は、市場経済という資本主義のグローバル化にともなって世界に波及していった。当然そこでは人権は普遍の理念とされた。しかし今日欧米を中心にしたグローバリズムは、地球規模での市場経済化を押し進め、それは強者と弱者の格差を拡大する経済侵略であり、また、人権という名の文化侵略であるとの批判が彰淋として沸き起こってきた。人権も西洋文明から生まれたひとつの相対的思想であるという批判から、普遍主義対文化相対主義の対立も続いてきた。そのグローバリズムに対する極端な反発が今回の同時多発テロであろう。この深刻な対立は、これまで言われてきた人権の考え方をそのまま普遍なものとして広げていく発想では解決できない。また「文明の衝突」と言われている、ある一方の文明が勝利するということはありえないであろう。

 以上のことから人権は、自明の理であり普遍なものという考え方ではなく、また、その時代、その個別の社会、文化、それぞれの国々の実状を無視して実現できるものではなく、つまりは時々の状況によって変容しうる、流動的であやふやな特質を有するものであり、人権もまた他のすべての法律や慣習、伝統、宗教、文化と同じように変容するものだとの認識がまずは大切である。その変容はいうまでもなく、ある文化文明がある文化文明を一方的に変容させるものでなく、互いに共存、交流する中で互いに尊重しつつ、その上で自らが変容していくあり方である。

○信仰と人権
 では、本教としてはどう考えていけばよいか。信仰と人権と言った場合に、人権と信仰とをストレートに切り結ぶことができないという感覚がある。昭和40年代の『政治社会問題等に関する研究会』の記録には、信仰は権利放棄であって、人権の権利主張とはそぐわないという見方がある。また今日の本教では、人間「個人」に重点をおく「自己決定権」が重視される人権の人間観と、本教における天地と自己、神と自己、自己と他者が共に生かしあうという関係における人間観とが根本的に違うという意見もある。しかし、「教団一一新」や「信心・一心」により信仰の社会性が問われ、また、新教典の刊行によっていわゆる内向きな信仰からの脱皮もはかってきている。そして今後、人権という槻念は平和や環境と共に非常に重要なキーワードとなることはまちがいなく、人権と信仰は違うからといって看過できる問題ではない。

 そこで本教信仰の役割は、人権で願われる大切なところを根拠づけていく方向性を指し示し、「独自性と普遍性」の矛盾を乗り越え、そしてあらゆる文化文明が互いに認めつつ共生・共存できる世界を実現していく一助となっていくことであろう。

○「人間の生活の大切さ」
 そこでまず、人権を「人間の生活の大切さ」と呼ぶことを提案する。その方が人権本来の「人間らしい暮らしがしたい」という願いを表現しているし、人類共通の普遍的価値と言えるのではないか。そしてその下にそれぞれの国、それぞれの文化や経済状況に応じて法律、宗教、倫理、教育等を駆使してその価値を実現していけばいいのではないか。その時に人間というものを改めて考える必要がある。人権の歴史において、その当初は人権の根拠をいわゆる人間を越えた天や神や超越者においていたが、その後まずそれをを否定し、次に宗教、国家、歴史を敵視した。そして歴史や習慣や文化や人間にまつわる様々なものをはぎ取って、丸裸の個人を人間と呼ぶようになった。これは確かに虐げられた人間の解放を促してきたが、今日行き過ぎた個人主義が「人間らしく生きること」を阻んでいるのではないか。「与えられた人間の権利」ということをないがしろにしたつけが今日の深刻な難儀につながっている。

○神様に許されての人権
 教祖は「今の世は知恵の世、人間がさかしいばかりで、わが身の徳を失っている。天地の道がつぶれている」と警告された。
人間が人間だけで、つまり世俗の価値や論理だけで物事を進め、解決していこうとしていることに根本的な間違いがある。ゆえに「何事もお断りを申して」という、つまり、私ども人間が何かことを進めようとするときに、それは許されて出来ていくという認識が大事ではないか。「神は親子であるから氏子のことは許してやるが、天理が許さぬ時はどうする」、「天理が許さぬ時は、神もしかたないぞ」とある。人権はもとより、人間そのものの存在、人間の全てのあり方は、「与えられてある」というよりもう一歩つっこんで「許されてある」との認識が本教信仰の根本から言えるのではないか。この「許されてある」との考えは、今日人権の考え方のひとつの根拠となっている他者を侵害しない限り自由は保障されるという「他者被害の原理」をさらに徹底することができるであろう。もちろん許される先の神を利用した他者への抑圧は、それこそ許されないことは当然である。

○「あいよかけよ」の原理の徹底
 そして「人間の生活の大切さ」を世界的に実現していくときに、あるひとつの価値や正義を打ち立ててそれを普遍化させていく他を認めないあり方は、その敵対する外部に向かっては攻撃、排除し、内部に向かっては必ず抑圧し、人間の生活を破壊する。その方向でなくて、ある独自性と普遍性の矛盾を乗り越えていく考え方として「あいよかけよ」がまさに重要なキーワードになるであろう。

 あいよかけよは、天地万物一切が「あってある」(人間にとっては「許されてある」)との存在原理であり、人間万物がそれぞれ「あってある」との関係で成り立つ関係原理であり、そして「共に助かり、共に立ち行くために行動していく」実践原理をもつ。このあいよかけよが、神と神、文明と文明、文化と文化、国と国、民族と民族とのあいよかけよとなっていき、いずれは国や民族を越えた地球社会として様々な文明、文化が共存する平和文化として花開くときが来るのではないか。あらゆる文明、文化、共同体、宗教が社会の中でその相違性を尊重し、認め合い、多様な社会を形成していく。この21世紀社会建設のためには金光教の考え方がもっともふさわしい。

 今後はある個人やあるグループ、ある文化、ある文明だけが勝利する、栄えるということはあり得ないと考える。なぜ今共生と言えば、それは共滅しかないからだ。ここでいう滅亡はいわゆる選民思想をもつ終末論とは違い、社会的・心理的側面も含めた生存環境が悪化し、人間が人間として存在していくことが不可能になった社会である。

○今後の教団・信奉者
 教団のこれからとしては、「人間の生活の大切さ」を阻むものに対しての批判、主張をしていくとともに構造的な差別状況を実践的に解決していく社会活動の一層の推進が願われる。そして金光教としての立ち所は、その根元として神と人との間、聖と俗の間に立つこと、つまりは取次の働きをなすその場に立つこと。そこからあらゆる「関係の問」に立ち、常に「くぼい所」に身を置くという自覚が要請されるであろう。個々の信奉者のこれからとしては、教祖の教えはもとより、例えば和泉乙三先生の「自利利他の二徳」や高橋正雄先生の「良し悪しは関係にある」という信心、あるいは高橋一郎先生の「ある物みな美しく、起こることすべてよし」との先覚の信心の掘り起こしなど、あいよかけよに向けての具体的な信心実践が期待される。

 最後に現在世界の人権状況を一言で言い切るならば、その重要な概念である「自由」が欲望充足のための自由放任に、「平等」という価値がみんな同じという他を認めない全体主義に、「友愛」が自らの価値の押しつけでしかない形に変質してしまっている状況である。それが様々な構造的な難儀を生み出しているのではと思う。全ての1人ひとりが大切にされるあり方、「人間の生活の大切さ」の実現は、これも一言で言えば人権の目指す利益の公平な分担が行き届かない現実の中で、これからも存在するであろう社会の負の部分をどう分かち合っていけるかにかかっている。丸裸にされて立ち往生している人間を本来の人間として復活させ、現代社会の隅に追いやられている宗教を復興し、特にあいよかけよの原理をもつ金光教が、世界人類からその活躍を期待され、要請されているのである。
                   
                                               了
                                    

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