自由と規則

                                    

東京寮瓦版第15号 寮監閑話 2001.7.1

 
ある時、ある寮生らが当寮の「事務手続き」や「常識の範囲」外での唯一の規則といえる寮則第10条第2項「寮室に本人以外の者を宿泊きせないこと」との条文に異議を唱えてきました。
 
 日く「金光教を理解してもらうために、大学でできた信奉者以外の友達を連れてきて話をしたい。1つの布教になるのではないか」
 
 答えて「昼間すればいい」
 
 日く 「一宿一飯の恩義ではないが、やはり、夜を徹して話すことによって深い友達になれるし、そこで初めて金光教も理解される」
 
 答えて「しかし、例えば盗難などの問題がおきたとき、その外部の人間が疑われることになる」 日く「先生はいつも『自立的由由人』たれという。これでは我々に自由はない。我々を信用していないのではないか」と……。
 
 そう、この自由の意味であります。自由は、ある個人やある特定の人たちのためだけでなく、全ての1人ひとりに保障されなければなりません。そのために、ある自由はある自由のために、ある程度の制約を受けるとこはやむを得ません。もちろん、その制限は極力抑えなければなりません。その時に1人ひとりの責任、自立(律)が問われてきます。字数の関係で自立の方はさておき、すなわち、自由は自由にのみ制限されるものであります。
 
 具体的にいいますと、本寮存在意義の最も重要なものは、寮の〔願い・精神〕にある通り「勉学にいそしみ、道を求めるにふさわい場」の提供であります。そこに外部の人間が入ってきて、夜中に交流するとどうしても話し声が漏れ、静かに勉強する自由を侵害してしまいます。友達との交流の方は、せめて夜11時までとする規制は不可欠でありましょう。つまり、規則は全ての1人ひとりの自由を最大限保障するためにのみ必要なものなのです。
 
 さらに、我々金光教人としては、根元的に信仰的に問うてみる必要があります。教祖金光大神様が教えるように「わが身はわが自由にならないもの(教典抄『天地は語る』50節)」であります。「潮の満ち干(教典抄13節)」、「四季の変わりは人やカでは自由にならない(教典抄25節)」のであります。そこをまずしっかりと認識する必要があります。
 
 今日、クローン人間や代理出産などの生命操作の問題や、温暖化与などの環境問題にみられるように、「自由・人権」とという名の人間の欲望が際限なく拡がっています。このような人間の、自由に何でもできるという傲慢なあり方は、必ず天地、地球を破壊し、人間そのものの存在を危うくするでしょう。
 
 人間は、「根元的には自由はない」とう認識から出発し、生かされて生きているという天地の道理に沿い、天地の大道を歩むことによって、既成の通念・慣習・常識から解放され、「真の自由」が獲得できるのではないでしょうか。東京寮寮生共々に、世界人類のためにこの天地の大道を、日々の生活を通して指し示していきましょう。
                 

トップ自己紹介金光教の信仰み教え思うがままに新聞・冊子等掲載記事平和雑感野球道紀州連合掲示板