殺されたくないし、殺したくもない

                                    

東京寮瓦版第18号 寮監閑話 2003.2.10

 戦争について寮生7、8人と話しているときのことである。もし日本に徴兵制度が復活したら行くかとの問いに、「絶対いやだ」という1人以外は、いとも簡単に「行くJと答えた。何故?との重ねての質問に「国家のために行くのは当然だ」という人から「犯罪者になりたくない」や「仕方ない」、「なんとなく」など温度差はあるにせよ非常に驚いた。現在の若者のあり方を嘆き、教育基本法改正で愛国心の涵養などと叫んでいるが、全く心配いらないではないか。
 
 しかし、本当にそれでいいのと逆に心配になる。戦争というものの実体をほとんどイメージできていないのではと思った。戦争体験がないので無理もないが、それでもあまりの想像力欠如か思考拝止か深く考えたことがないようなのだ。だから今の徴兵のない平和ない日本のありがたさもあまり感じてない。国家のために行くのは当然という人はともかく、ほとんどが仕方ないと考えている中で「良心的兵役拒否」なる権利があることも知らない。

 そして、有事法制も何の疑問もなく必要と答えるが、それがどういう内容の法律かは「備えあれば愁いなし」程度の理解しかない。一緒に住んでいる韓国や中国からの留学生の人たちに比べてどうしても幼く見えてしまう。ただ表現だけが苦手で腹の中ではしっかりした考えがあると信じたいが、政治に対する無関心さはこのたぴのエリック・石渡氏の講演にもあるように危険な兆候だ。危機を必要以上に煽る好戦的アジテーションに流されてしまい、一気に戦争へと突き進んでしまいかねない。

 世界の現実は、残念ながら無法な暴力に対して立ち上がる義務としての戦争は認められるる傾向にある。しかし戦争はいうまでもなく人を殺すことであり、人が殺されることである。その多くは国民のために備えてくれているはずの自国軍隊に殺されるのもまた世界の歴史的事実だ。20世紀、国家によって殺された人は約2億人を数え、そのうち自国の軍隊によって直接、間接に殺された人の方が圧倒的に多いそうである。日本の自自衛隊は大丈夫だと信じたい。が、ほんの60年ほど前、日本軍は「滅私」を徹底的に教育されたにもかわらず悲惨であった。例えば、沖縄の波平部落などの壕にいた地元住民が日本兵によって追い出され、多数の死傷者を出した。あの「ひめゆり学徒隊」は、全く武器を持たされていないのに「ひめゆり部隊」と移され、国民を守らなければならない兵隊を逆に守って、そして219人もの女子学生が死んだのである。その沖縄は本土決戦のための時間稼ぎとして捨て石にされた。先日沖縄遺骨収集奉仕に参加し、自然壕の中で作業をしながら、兵隊に命ぜられ追い出された県民や赤ん坊を殺さざるを得なかった母親、一家で集団自決した家族の気持ちを思うと何ともいたたまれない。時の指導者、軍人に激しい怒りを感じた。戦争はいかなる理由があれしてはならないし、させてはならない。敵だろうが味方だろうが殺されたくないし、殺したくもないのである。

 最近日本では、武力によらない平和を求める声に対して、それは現実を直視しない空理空論、無責任だとか、平和憲法からの議論を時代遅れの神学論争と批判する。しかし、本当の現実は、そこに軍があるから武力があるから兵器があるから危ないのだ。「普通の国家たれ」と勇ましいことを言っているが、その主張こそが時代遅れの考えだと言える世の中に是非していきたい。空理空論に魂を注入したいと私は思う。

 現実は厳しい。だからこそ、金光大神様の信心をを頂く我々一人ひとりがどういう生き方をするのか、そしてどういう死に方をするのか、是非真剣に考えていただきたい。

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