自由・自立と共生

                                    

東京寮瓦版第16号 寮監閑話 2002.4.10

 真に自立した自由な生き方というものは、共生なくしてはあり得ない.それも身内や仲間、自分にとって都合のいい人や事柄とだけ共生していくという態度では得られないのだ。
 
 自身の自由ために我を押し通せば、結局は他の我のために自身が侵害され、自由は極端に制限される.昨今重要視される「自己決定原理」は、何事も自分で考え、自分で決めることを第一義としているが、もう一つの重要な要素である自分で責任をとるということを忘れている。
 
 無責任人間が増えると、社会の秩序が保てないから法律を厳しくしようとする。公共の福祉や犯罪防止のための少年法の改正から通信傍受法、団体規制法や、さらに人権を損ねかねない法律案が次々と国会に提出されている。その法律を作る代議士の先生方がいけしゃあしゃあとうそをつき、責任をとろうとしないのであるからどうしようもない。個人の自由は制限され、ますます住みにくい社会になる。自身の自由自立のためには、他のためにしっかりと責任を感じ、共に生きていくという姿勢がまずは大事だ。自分自身でどうしても責任をとれない問題もある。
 
 それから共生というと、それはほんわかとした甘いもので、この厳しい世の中にそんな「きれいごと」は言ってられないという声をよく聞く。確かに経済至上主義の世の中で競争に負ければ、そのまま落ちてしまうという不安はあるだろう。しかし、市場経済というと激しく競争をして互いに蹴落としあう世界を思い浮かべるが、決してそうではない。人々の互いの信用や信頼があってはじめて市場が成り立つのだ。その根本のところを忘れているから、経済全体が落ち込むと、すべて個人に責任を転嫁する意味で使われる「自己責任」という言葉が踊り、リストラという名の首切りが横行する。経済が悪いときこそ、すベての人の自由や自立のために共に助け合い、共に生きていくことが必要なのだ。
 
 そしてここでいう共生とは、先に述べた自分にとって都合のいい人や事柄だけとの関係ではない。むしろ自分にとって都合の悪いものと共生していくある意味で非常に厳しいものだ。人間は、とかく自分に敵対するものは徹底的に排除しようとする。例えば、人類最大の敵といわれるガン細胞やウイルスを抹殺しようとしてきた。しかし、未だにガン細胞は根絶できず、強力なウイルスが次々と登場する。一方的に悪と決めつけ、排除しようとしたのが間違いだった。
 
 本当は地球上に生きている生き物はすべてに意味があり、すべてがつながり合い、与え、与えられて生きているのが「天地の道理」だ。これは人間関係や国と国との関係などすべてにいえる。ところが世界では、未だに人間同士でいがみ合い、殺し合いを続けている。道理からはずれたあり方は、結局共滅しかないのだ。
 
 金光教祖は、「神様は、人間を救い助けてやろうと思っておられ、このほかには何もないのであるから、人の身の上にけっして無駄事はされない。信心しているがよい。みな末のおかげになる」とみ教え下さった。地球に存在するものはすべてに意味があり、決して無駄なことはない。真の自立的自由人とは、共生なくして自由も自立もないという「あいよかけよ」精神を常に根元にもつ「人」である

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