なぜ殺してはいけないか

                                    

東京寮瓦版第17号 寮監閑話 2002.7.10

 
前号瓦版16号「自由・自立と共生」と題した寮監閑話で早速に寮生から質問があった。
日く「地球に存在するものはすべてに意味があり、決して無駄なことはないと書いてますが、ナチスドイツやオウム真理教も意味があり、ヒットラーや麻原彰光の存在も認めるんですか。殺人も意味あることですか?」

 もちろん、全く関わりもない多くの人々がむやみに殺されてしまったのであるから、関係者の無念の悲しみを思うと許される行為ではない。ただ、法の裁きを受け断罪すれば、それで終わってしまい、忘れてしまう風潮や社会から徹底的に排除していくあり方には問題があると思う。

 オウム事件後も少年犯罪を中心に次々とそれこそ意味なき殺人が行われてきた。その都度社会では、それはなぜ生じたか、どうしたら防げるかといった原因と対策ばかり議論される。教育評論家・心理学者・犯罪学者たちが分析し原因を特定させる。その原因は個人の資質、家族の問題、住居環境など、1つであったり複数であったりするわけだが、結局のところは原因を特定し、問題を特殊化することによって、社会のその他大勢が「うちとは関係ない」ととりあえず安心を得るために発せられているだけではないか。物事の本質を見ようとせず、特にテレビは「悪に対する怒り」をぶつけ、「他人の迷惑」とか「他人の痛み」とか「生命の尊厳」などの言葉を表面的に使うだけだ。だから、若者に「人を殺してなぜいけないのですか?」という質問に全く答えられなかったという事態になる。それも学校の先生が、だ。このように起こってきた事柄を「意味ある」こととして問おうとしてこなかったことが、我々には理解しがたい「意味なき」殺人を起こさせるのではないか。

 人を殺すことは悪であるが、絶対悪とは言い切れない。かつて首狩り族は、キリスト教が布教する前は敵の首を多く獲得することが善であった。そして現在でも法律上「緊急避難」と「正当防衛」として認められ、国際法上戦争という人殺しも認められている。

 しかし、私たち金光教人はこうした世間のものさし、世間の価値だけを絶対としない、神様の眼、神様のものさしをもっている。すなわち、すべての人間一人ひとりは、神様の子どもであって、天地のいのちを頂いて、そして全体がつながり合って生かされている存在である。人、一人のいのちはずっと過去から延々とつないで来たいのちであり、また、これから生まれて来るであろう未来につながっているいのちである。と同時に人間個々のいのちは全体のいのちとつながってのいのちであるという天地の道理だ。

 だから、すべては個が崩れると全体が崩れる関係にあるのだ。そこには多くの人々の悲しみ、苦しみ、どうしようもない難儀が待っている。そこを天地金乃神様も一緒に苦しんでくだされ、「どうぞ、助かってくれい」と天地の道理をお示しになり、警告を発してくださっている。ゆえに殺人は、、道理に反し、神様への無礼となるから絶対にしてはならない。

 戦後50年の1995年に関東教区青年教師会の1員として「平和の決意」を表明したことに引き続いて、この場を借りて、「絶対非戦個人」を宣言しておきたい。

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