読心終刊に寄せて

                                    

読心55号1996.12.10 26頁 とくしんコラム

                              辻井篤生(和歌山県・勝浦教会)
 「先生、いよいよ読信が廃刊になるそうです。創刊当時の先生方はどう思ってるんでしょうね」 「ここまで長く続くとは考えてなかった、と思うよ」 日頃からクールな先生だが、途中数年間編集に携わった私としてはやはり淋しい気がする。
一九七五 (昭和五十) 年の創刊号「創刊によせて」を見ると、『読信』 は、教師のための文書通信、教師同士の連帯の小誌であり、踏み出してから布教文書的なものにしていくとある。
 私どももこの点についてよく議論し、教師だけでなく信奉者全体、さらにその背後の人までもにらんだ雑誌への展開を願っていた。そして、一九八八 (昭和六十三)年第三八号の時にとりあえずリニュアール (世間で言うほどかっこのいいものではないが)をはかった。この時、創刊当時の先生から 「表紙の題字のロゴまで変えるとは何事か、伝統ある雑誌は変えていない」 (いいわけがましくいうと変えているのもたくさんある)。また、「石声」、
「古典を読む」「そでがき」等の中止についてもおしかりを受けた。逆に「よく変えた」という激励の手紙も頂き、当時の担当次長と慰め合ったことを思い出す。
 この時の考え方は、教団の願いを周知するといった啓蒙的なやや堅い面が若干強かったので、それに加えてここからは、信奉者個々人が実際の生活の現場で抱える問題を出し合い、さらには社会の問題を、我々の問題とすることによって、金光大神の信心の思考と行動を明らかにし、そしてその内容を社会に発信したいというものであった。少しでも創刊当時から願われた布教文書的なものに近づけていきたかったからである。 
 二十一世紀を目前にした今日、過去の 『読信』 をつらつらと読み返すと、一つの歴史的使命を果たしてきたのだと思う。このたび、いよいよ総合情報誌的な文書の刊行を目指していると開く。多くの先人の願いを受け、ここからの展開を期待したい。

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