誰もが平和の時代と願った21世紀。
人類は愚かにも未だに殺しあいを続けています。

20世紀人類は2億人もの人たちが戦争で殺されました。1945(昭和20)年、敗戦の年の日本人の平均寿命は男24歳、女37歳、驚くべき数字です。
私は世界真の平和を目指し、まずは絶対非戦個人を宣言します。殺したくもないし、殺されたくもありません。戦わないし、戦ってもらいたくもありません。
そして、すべての1人ひとりのかけがえのない命が輝くよう、金光教の信仰により祈り、行動していきたいと願ってます。

「思うがままに」は、2003年8月からはじめました。 「思うがままに」中、平和に関することは「平和雑感」、野球に関することは「野球道」、紀州に関することは「紀州連合」のトピックカテゴリーに、また、過去の年月日別は、リンクカテゴリーの「一覧表」にそれぞれ整理しております。


3月31日閉寮、4月21日帰勝。

 金光教東京学生寮が3月31日をもって閉寮した。4月20日まで残務整理で残っていたが、想像以上に淋しい最期であった。共同玄関が開く音、話し声と必ず何らかの音がしていた。4月以降、物音一つしない。音がすると何事かとビクッとする始末。

 寮の後片付け、物の処分、引っ越し等で完全に腰を痛めてしまい、未だに痛みが続く。しかし、一番ショックだったのは、まさに今から引っ越しと業者の方と打ち合わせを始めた時に携帯が鳴り、地元で仲がよく、帰ったら色々と地元のことを聞こうとしていた方が急死されたのこと。「落ち着いて聞いてほしい」と。落ち着いて聞いてはいられなかった。

 帰ってすぐにご葬儀参拝。法人変更登記諸手続、転入諸手続、月例霊祭、大祭奉仕、参拝、講話講師の準備等御用は次々に控えている。平穏だった教会も参拝詐欺電話、本物の代参参拝の電話と色々と動き始める。万事ご都合お繰り合わせを頂き、平穏無事のうちに御用成就を願っている。

東京学生寮最期の月例祭執行

 金光教報や金光新聞で既報の通り、本年の3月で閉寮いたします。来月のお祭りは、閉寮奉告祭として仕えられますので、月例祭としては今回が最期となりました。祭主・教話は運営委員、大宮教会の松本佳子先生で、以下の教話がありました。その後のお茶会では久々の日付越えで盛り上がりました。

教話
 ただいまは、2月の月例祭をともどもにお仕えさせていただき、ありがたいことでございました。
大宮教会で御用させてただいています松本佳子と申します。よろしくお願いいたします。
 昨年から少しずつ色々な催しが復活して、最近ではコロナ以前のような賑わいが戻ってきましたね。
 しかし、今年の元日に起きた能登半島地震では多くの方々がお亡くなりになり、被災地では一年で一番寒い時期に家には戻れず、水も食料もトイレも足りないという過酷な状況に置かれている方が多くいらっしゃいます。
 また中学生の集団避難ということで、親御さんも避難を余儀なくされたご本人たちも大変不安な日々を送られていることと思います。
 世界に目を向ければ、ロシアによるウクライナ侵攻も、イスラエルのガザ地区での戦闘も、まだまだ終わりが見えない状況です。
 こういう中にあって、私たちに一体何ができるのか、大変もどかしい思いがするわけですが、年頭の金光教ラジオ放送で、教主金光様がこういうことをおっしゃられました。

 『天地の中で生かされ生きている者として、「共に生きる」「共に助かる」という考え方を大切に、特に、戦争、飢餓や貧困、病気などに苦しむ人々に思いをはせ、国の内外の人と人とが、お互いに神の子として、国籍、人種、言語、宗教などの違いを超えて、共に生き、共に助かって、世界に真の平和と繁栄がもたらされることを願わずにはいられません』

 「共に生き、共に助かる」ということは平和の根本ですね。
 助け合う気持ちというのは、誰しもが持っている心だと思いますが、逆にちょっとしたことでいざこざが起きてしまうこともあります。

 今から4年前、コロナの直前のころのことですが、あるとき、私の夫と夫の母と私の3人で出かけました。お昼になっておソバ屋さんに行きました。
車で行ったんですが、そこは人気のあるおソバ屋さんで、あいにく駐車場は満車で停められませんでした。
私たちの前にも車が一台停まっていて、駐車場が空くのを待っている様子でした。
「どうしようか、他にも駐車場があるなかな」と話していたら、私たちの後ろにもう一台車が来ました。
「もう一台来たよ」なんて話していたら、一番後から来た車の助手席の人がサッと車から降りて、走ってお店の中に入って行きました。
そしたら、私たちの前にいた車の中の人も急いで後を追いかけるようにして、お店に入って行きました。
その後、少し離れたところにもうひとつ駐車場があることがわかり、夫はそちらに車を回し、夫の母と私はお店の前で車を降りて中に入りました。
そしたら、案の定、1番最後に来た車の人が1番前に並んでいて、2番目には最初に来ていた車の人、私たちは1番最後になってしまいました。
 私はそのとき、「ずるいことをする人がいるなぁ」と不快に思っていたのですが、車を停めて入ってきた夫と夫の母を見ると、全然我関せず、別になんとも思っていない様子なんですね。
それで、「あぁ、そうか。別に急いでいるわけでもないし、お昼が食べられればいいんだから順番なんてどうでもいいか。信心する人はさすが泰然自若としているなぁ。」と思いました。
 私たちは、日常の生活の中で、何かしら選択をしながら生活をしています。
簡単なところで言えば、今日はお買い物に行くのに自転車で行こうか、車で行こうか、それとも歩いて行こうか。また、ちょっと時間が空いたときに、お掃除をしようか、それともゆっくり寝ていようか。とかね。
それは、それぞれの生活のペースで選んでやっていけばいいわけですけど、選択するときの自分の心の持ち方によって、現れてくる行動もかわってきますね。
金光教の教祖様は「人にはできるだけのことをしてあげ、人に物をあげたくてしかたがないという心を持ち、自分だけよいことをしたいという心を持つな」
と教えてくださっています。
これは、大西秀さんという当時13歳くらいの女の子におっしゃったみ教えです。
今で言えば中学生くらいの女の子です。とてもわかりやすいお言葉で教えてくださっていますね。
 「自分だけよいことをしたいという心を持たない」というのは、信心の基本の基であり、「共に生き、共に助かる」ということです。
先ほどのおソバ屋さんでのできごとを、つい先日、夫に覚えているか聞きました。
そしたら夫も覚えていました。どうして覚えているかと言うと、お店の人が注文を取りに来たときに最初に駆けだした人が「こっちが先!こっちが先!」と大声で叫んでいたからだそうです。
そのことは私は気づかなかったんですけど、その話を聞いて、やはりその人は「我れ先に」駆けだしていたんだな、ということがわかりました。
 幸い、その時はお客さんの回転も早かったので、そんなに待たずに席に案内されて、トラブルにならずにすみましたけど、こういうことは身の回りでよくありますね。
車のあおり運転やSNSでの誹謗中傷、モラハラとかパワハラとか、最近ではハラハラということもあるそうですね。それぞれ大きな問題になっています。
四代金光様は「他は厳しく眺め 自分は大目に見る かなしからずや こころの甘さ」と詠んでおられます。日常生活の中で、自分の心の使い方「周りの人のことを思う」ということを考える習慣があれば、そういうことにはならないんじゃないかなと思います。
金光教では、「神心」という言い方をします。
教祖様の時代のことですが、ある方が冬の寒い日に教祖様のところに参拝されました。その途中で、とても気の毒なおじいさんに会いました。その方はおじいさんの様子を見て「あまりのことに着ていた物を脱いであげた」というんです。きっとそのおじいさんは、寒空の下で薄い着物で凍えていたんでしょうね。それで思わずご自分が着ていた着物を脱いで、おじいさんに差し上げたということです。
それから教祖様のところに参拝されました。そしたら教祖様から
「今日は、結構なおかげを受けたなぁ。不幸せな者を見て、真にかわいいという心(このかわいいというのは、今で言うプリティのかわいいではなくて、かわいそう、気の毒だなということです)からわが身を忘れて人を助ける。そのかわいいと思う心が神心である。その神心におかげがいただける。それが信心である。」
とおっしゃいました。
気の毒な状況にある人を見て「かわいそうだな、気の毒だな」と思うのは、誰でもそういう心があります。それが神様の心であり、その心を行動に現すことが信心であるということです。

 ただ、その神心に従って行動しようとするときに、「いやいや、そんなことしなくても」とか「自分がしなくてもだれかがするだろう」と神心をとめようとする心が出てくることもあります。それを「我情我欲」と言います。自分の感情や欲が優先されて「自分さえ良ければいい」という、「神心」とは反対の心ですね。
アニメや漫画でも、天使の自分と悪魔の自分が心の中で葛藤している、せめぎあうような場面がありますけれど、その時にもうひとり、そのせめぎあいを見ている第3の自分がいます。それは相撲で言えば行司さんですね。
その行司の自分がどっちに軍配をあげるか、神心の方か、我情我欲の方にあげるかで、その先に現れてくる行動も変わってきます。みんなが我情我欲で行動してしまえば、もうその先には争いしかないですね。
迷わず神心のままに行動できるときはいいですが、心の中にせめぎ合いが起きたとき、神心に軍配をあげることができるようになるには、どうすればいいでしょうか。

 ひとつは、自分が今まで受けてきた恩を忘れない、ということです。
この世に生まれ、ここまで成長させていただき、ご飯が食べられ、勉強ができ、今ここにこうして月例祭に参拝できているというのは、大変な神様のお恵みをいただいての今であるということ。
そして、両親を始め、教会の先生や学校の先生、兄弟や友達など、「自分の周りのたくさんの人たちにお世話になっての今である」ということです。
そのことに謙虚に、感謝の心を持つことです。 
それから、もうひとつ大事なことは、神様の教えを聴くことです。
金光教は、「話を聞いて助かる道」と言われています。
 神様の教えを聴いて、自分自身が今、神心と我情我欲、どっちの心に傾いているかな、ということを見つめられるように、そして、神心で周りの人たちと「共に生き、共に助かる」ことができるようになっていくことが大事だなと思います。
 それは、一朝一夕にできることではなくて、練習が必要です。だから、神様の教えを聴くことが大切になんです。

 この金光教東京学生寮は、残念ながら3月で閉寮になります。こうして祭典に参拝して教祖様のみ教えを聴く機会が少なくなってしまう方もいらっしゃると思います。
 それは本当に残念なことだなぁと思いますが、教会は全国各地にございます。
 今後、選択に迷うようなことがあったとき、その時にはぜひ最寄り最寄りの教会にお参りしていただけたらと思います。
金光教では「お取次」と言って、自分の気持ちや困っていることなどを神様に取り次いでもらって、そして神様の教えを聞かせてくださる、そういう場所があります。
高い所にあるものを取るときに届かない場合はどうしますか。踏み台を使いますね。踏み台を持ってくれば、高いところでも楽に届くようになります。
その踏み台が、教会にお参りしていただく「お取次」です。
自分の心でも、自分ではどうしようもないときがあると思います。困ったことがあったとき、選択に迷ったとき、教会にお参りして、ぜひお話をきいてください。
 
 かく言う私自身も、今でも迷うことはよくあります。
実は、私は週に2日ほど歯医者でお仕事をさせていただいているんですが、院長とスタッフの意見が合わないということがよくあるんです。
 ほとんどの場合、院長の言うことが通ります。経営者なので当たり前なんですが。そうするとスタッフがストレスをためてしまうんです。
 なので、いつも教会長にお取次をいただきながら、スタッフの心が助かるように、ひとりひとりの気持ちを聞くようにしています。時には一緒に院長への怒りが沸くこともあるんですが、その度に、教会長に聞いてもらうようにしています。
 そうやって、神様にお願いしながらスタッフの気持ちを聞いていると、事柄は変わらないのに、みんないつのまにか笑顔でお仕事ができるようになっています。
 「共に生き、共に助かる」世界が自分の周りから実現していくことを、願ってやみません。
どうぞ皆さんおひとりおひとりが、今後、社会の中で「共に生き、共に助かる」お役に立たれますことを祈念しております。

カテゴリーに追加

いつも、パソコンでお世話になってるO先生のご尽力を賜りまして、御本部ご大祭教話、金光新聞の広報誌「神さまありがとう」、学生会道シリーズ 別冊②③の記事を追加いたしました。

よろしくお願い申し上げます。辻井篤生

「金光大神の平和観」を求めて

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心の丈夫、大丈夫?

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神様が求められるものーこの私に

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認め合い、足し合って共に生きる

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激動、そして今後も

 2023年の年が明けて、早4月、ここのところ更新できず誠に相済まないことです。昨年は公私ともに激動の年でした。
非常に人の死を意識しました。昨年前半、ロシアがウクライナに攻め入りました。未だに「なぜロシアが?」と、信じられません。今も尚、毎日犠牲者が出ていることに心が痛みます。年の後半は、本部教庁時代同じ布教部の先輩が、そして東京学生寮の同級生、そして父と立て続けに亡くなりました。

 11月3日に父が亡くなり、そのため今年の年始まで東京と勝浦を行ったり来たり、いろんな手続きに追われ、あっという間に今年に入り、そして今日を迎えておりますが、これはまだここでは言えないのですが、私にとって最大級の激動が待っています。そんなこんなで、まぁそれまでもあまり更新はできていなかったのですが、今年に入って全くできませんでした。

 現実に起きてくることへの対応や心の持ちように精一杯で、落ち着いてものを考えるということがほとんどできず、月日だけがあっという間に過ぎてさってしまっているという感じです。今後もこのような状態が続きそうです。申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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