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金光学園高校野球部、よく頑張った。

 金光学園高校野球部、よく頑張った。夢を見させてくれた。あの金光学園がまさかこんなに早く決勝まで行けるとは思わなかった。相手は関西。まあ、さすがに甲子園は?、とネットの速報をチェックしていた。

 で、2点とられてやはりと思っていたら、後輩から山陽新聞記事のメールが届き、関西高校もノーシードから勝ち上がったと知った。え、もしかしたらと思った矢先に逆転、追加点。これは甲子園に行けると確信した。

 娘と妻もパソコンの前まで来てじっと動かない画面を見つめる。零点の表示に歓声をあげる。後は9回裏が問題。勝浦からも電話があって、松永に行ったわが妹も「9回裏が危ない」と言っていると。

 娘はもう甲子園に行くと言っている。私はちょうど甲子園大会中は気仙沼に入っている。飛行機で仙台から行けないことはないなあと思いながら、もうドキドキ。わが息子も野球をやっていたので、選手の親御さんはもう今大変なことになっていると想像するとさらに胸が騒ぐ。

 その9回表の表示がなかなか出ない。これは点が入っているかもと期待したが零点。その裏がやってきた。今度は結構早く妻子が悲鳴をあげた。「キャー同点じゃ!追いつかれた」。そして11回万事休す。しかし、ここまでよくやったと思う。

 私、28日からのご本部の会議でご霊地に27日から入る。予約をキャンセルしてマスカット球場に馳せ参じようかと一瞬考えたが、今日どうしてもはずせない用があり断念。本当に見たかった試合であった。

 そのようなことで、明日からご本部へ出張しますので、またしばらく更新お休みします。 

子猫を迎えに来た親猫

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気仙沼ボランティア報告② (6/10~6/19) 終

 さて6月18日は、私としてはいよいよボランティア最終日、今日も気仙沼市災害ボランティアセンターに出向いた。山口のSさん、成城教会のIさん、金光町のMさん、今日から新しく金光大阪高校のA先生、大崎教会のIさん夫妻、日本橋教会のIさんと私の8人だ。

 ボランティアセンターでは8人のグループということで、ニーズとピッタリの人数で即決。気仙沼市本郷にある大きな民家のお庭に溜まった泥かき作業である。お家の中は昨日まで他のボランティアの方たちによって泥かき、たたみ出しが終わっている。広いお家なので相当のご苦労であったとのこと。お庭の方は、見た目には表面は白く普通のお土に見えるのだが、スコップを入れてみると庭全体に泥や廃材が広く覆っていた。

P6181254.jpg ただひたすらかき集め、土嚢袋に入れるというなかなか根気のいる作業である。曇ってはいたが気温は高い。この民家のご主人も一人黙々と外の側溝に溜まった泥を掻き出している。そろそろお昼の休憩かというときに、昨日の例の外国の方と女性一人が合流した。

P6181247.jpg ちょうどきりがよくお昼休憩となり、思い切って「アメリカ?」と聞いてみた。「イエス、シアトル」と答えてくれて、瞬間思わず両者が「イチロー!!」と。「イチローは、日本では愛知県出身で、小さい頃は中日ドラゴンズのファン。日本のプロ野球、中日知ってる?」と聞くと、「おー、ドラゴンズ知ってます」と。

P6181256.jpg 流暢な日本語。それもそのはずで一緒に来ている女性は奥様だそう。結婚して3年、何とはるばる九州の熊本から3日かけて車で来たとのこと。いやいやなかなか出来るものではない。午後からも同じ作業を続行し、3時には何とか一通りの作業が終了した。

 夜には、金光教地震等災害ボランティア支援機構車で寮生3人と大崎教会等から2人が加わり、翌19日日曜日の機構便で帰る4人と運転手ボランティア2人の歓送迎会を開いていただいた。それも何と気仙沼教会奥様の手作りで、教会長先生に焼いてもらった餃子パーティ。寮生Sさんの父上も加わり、楽しいひとときとなった。

 この間に出会った被災者の方たちやボランティアの人たちとは、たった数日の出会いではあったが一生の友人を得たと言っても過言ではない。被災者の皆様にも喜んでいただき、お世話になって初めてお世話が出来る喜びを感じることができた。まさに共に助かる「あいよかけよで立ち行く」働き、神様の働きが時々刻々と生まれた10日間の気仙沼であった。 

 昨日の夜から息子と寮生のK君が再びボランティアに入り、月末から8月にかけてさらに寮生4人がそれぞれできる範囲で5日から10日程度入り、8月3日からは妻の栄里が参加し、私は7日月例祭後、1か月程度また参加したいと願っている。

 関係各位の皆様、本当にありがとうございました。深く感謝申し上げます。(終わり)

気仙沼ボランティア報告② (6/10~6/19) 10

 6月17日は、山口のSさん、神奈川のYさん、東京のIさんと私の4人で気仙沼市災害ボランティアセンターに向かった。午前9時、センターのスタッフさんが、「10人、○○地区の泥かき!!」と声がかかりました。

 私たちグルーブ一番のベテランSさんは当然のごとく手を挙げられ、それぞれ自分の名前を書いている付箋をスタッフさんに渡し、そのグルーブに編入された。私は「今日もきついな」と覚悟を決めたと思ったら、センターのスタッフさんが、「すみません、すでに4人は決まってました。4人降りてくれませんか」と。

 さすがに誰も即答の返事がない。センターのスタッフさんが私に近づいてきて、私の顔を見ながら、「ここの作業は相当きついですよ」と。その瞬間、私はぱっとスタッフさんの持っていたファンシーケースに貼られた付箋をとった。「きつい」という言葉に思わず反応してしまったのだ。

 面白いことに、私が付箋を引き取った瞬間、横浜のYさんが立て続けにとり、何を思ったか、すぐ左隣にいた外国人の方も付箋をとった。私たちはちょうど4人だったので、センタースタッフさんにとっては、ダブりが解消されたのでよかったと思う。この外国の方は全く関係なく知らない方だったのだが、何と不思議なもので次の日は一緒になるのだ。

 それはさておき、いろんな組み合わせでのグループが決まっていくなかで、私たちは、唐桑体育館での遺留品の整理のボランティアに決まった。ここには自衛隊の皆さまが、廃棄することができない思いでの品々を毎日運び込んでくる。位牌、写真、文集、持ち主が特定できそうな品々を仕分けし、整理しているところである。

P6171241.jpg 私たちは、早速に泥がついた写真を洗浄し、その後乾燥機にかけて乾かし、それを再アルバム化して収集された地区ごとに分類していく。20人程度が手分けして進めたため、結構はかどったと思ったが、何と写真だけでも万単位で集まっているとのこと。

P6171232.jpg 写真に写っている子供の誕生、入学、卒業、結婚式、それも相当古い白黒のものから、つい最近のものまで、その人たちが大丈夫だったかと思うと泥を流す手にどうしても力が入ってしまう。もちろん力を入れたらはがれてしまうので慎重にも慎重を期さなければならない。

P6171242.jpg 体育館全体に並べられた品々が、無事に持ち主に届くのであろうか。だんだんに必死の祈りをこめながらの作業となる。生活の再建を思うと今はそれところではないかもしれない。しかし、被災者の方々が探しに訪れ、自分の思い出の写真を見つけると涙を流して喜ばれると聞いた。こつこつと地味な作業だが、大切なボランティアだとつくづく思わされた。(つづく)

※ご無礼、お詫び

 昨日開催された第29回東京平和集会に使用するため、パソコンをずっと貸し出していたため、更新が大幅にできず、失礼いたしました。

 昨日は、東京教会イーストホールで東日本大震災復興支援集会として開催し、猛暑の中290人の参加がありました。ありがとうございました。今日は先日亡くなられました膳師豊さんのお別れの会が同じ場所でこれから開かれます。

 そのようなことで、今しばらくお待ちください。

 

気仙沼ボランティア報告② (6/10~6/19) 9

 
15日は、南三陸町、野蒜、松島と被災地を見て回ったことについて、間違って先に書いた。16日は、山口県のSさん、兵庫県のAさん、金光町の女性のMさんと私の4人でボランティアセンターに行った。

 私は気仙沼でのボラセンは初めて。朝8時30分嶋田先生運転のS車でボラセンへ。初めて参加の受付で氏名等を申告。ガムテープ名札とゼッケン、飲料水を頂いた。だいたい70人くらい集まっていた。

P6161217.jpg 9時から朝礼でスタッフから注意事項を聞き、引き続き割り振りが始まる。スタッフから「屈強若者10人前へ」と声がかかると手を挙げて前に出る人があっという間に10人。続いて5人で瓦礫と土砂運びとのこと。もう2ヶ月活動しているSさんはベテランですぐに1人連れてこられ、私たちもすぐに決まった。

 資材テントでスコップ、一輪車などを調達、救護班から薬が入っているダンボールをもらい、そして配車係の車で現場まで送迎をして頂いた。かつて新潟中越地震の時にも小地谷市ボランティアセンターで活動したことがあるが、その時よりもはるかに組織化されている。

P6161218.jpg まず、ボラセンのスタッフが、振り分け班、資材班、救護班、配車送迎班に分かれている。新潟時は、配車車はなく、資材もすべては揃ってなかったし、救護班はなかった。さらに救護班はすべての活動場所に午前、午後と巡回してくれていた。だいぶ進んでいると思った。

P6161223.jpg 現場は気仙沼市南郷の民家。室内の泥かきはすでに済んでいたが、そのお宅の裏庭の元からあった土砂に津波で流された瓦礫が混ざり混んでおり、それをスコップで土嚢袋に詰め、一輪車で表に運び出す作業であった。

 
P6161210.jpg 私たちに合流してくれた方は地元のOさんで、この方のお家の一階も津波でやられたそうですが、こうやってボランティアに参加されていて頭が下がりました。何と76歳とのことですが、私よりよほど戦力になっていた。

P6161209.jpg 私にとっては作業はきついものであった。天然の干物状になった魚が出てきたり、時には臭いも大変でした。1時間程して東京からの屈強若者が二人応援にきてくれ、助かった。もう3か月近く現場で作業しているSさん、Aさん、女性のMさんの動きも素晴らしいものであった。

 何と、隣がジャス喫茶で、外まで音楽がなっており、私の好きなロックンロールを流してくれたおかげで、最初は到底一日では無理と思っていた作業が無事に作業は終了した。集めた土嚢も山のようになった。(つづく)

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気仙沼ボランティア報告② (6/10~6/19) 8

 Aさん宅は12日から14日までで、だいたい片付いた。2階は倉庫にしていたそうで、食器などの立派なものが次々と出てきた。ご主人から持っていってもいいと何度も言われたが、この時点では東京センターから寮まで電車で帰らなければならないと思っていたので、断念。ただ、金杯の立派なお皿を1つおみやげにいただき、わが家の神棚に飾っている。

IMG_0149.JPG そして休憩時間にはご主人から地震当初のことなど色々とお話を聞いた。地震当初は、瓦礫の山で道が塞がれ、いまでは5分程度で行くことができる避難所にも30分以上かかっていたという。

 「あまりにも一遍にやられてしまったため、当初は何をしていいか、心も荒み、何のやる気も出なかった。しかし、周囲がボランティアたちの助けもあって、だんだんにきれいになっていくのを見て、少しずつではあるが、何とかしなければという気持ちになってきた。

 その時に掲げられていた、金光教会掲示板の『何とかなる』という言葉に励まされ、救われた。金光さんには、本当に感謝している」と仰っていただいた。こうして少しでもお役に立て、私もありがたい気持ちで一杯であった。

教会掲示板.jpg その夜の紫会館避難所には、金光教下谷教会の教会長先生と若先生二人が、今朝築地で上がったマグロ、鯛、鰤を差し入れ、被災者の皆さまとともにいただいた。本場の気仙沼の方がうなるほどの美味しさ。

 その懇親の場にAさんも参加されており、そのAさんを見て、「服装がさわやかになり、顔つきも一変、穏やかになった」と口々に仰っていた。本当に楽しいひとときとなった。(つづく)

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気仙沼ボランティア報告② (6/10~6/19) 7 

13日午後から14日も引き続いてAさん宅の片付けを行った。嶋田先生も加わり大活躍。二階は物置になっていたようだが畳もめくれ上がり、そのうちの1つは1階に落ちてきそうになっている。作業は危ないと思われたが、何とか2階の物を運び出した。

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海水にやられているので、非常に重たく、苦労した。畳は何とも藁化してしまっている。根気よく運び出し、母屋のあった敷地一面に並ぶほどの物が出てきた。

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P6141142.jpg そして最後4つの衣装ケースを出そうとすると重くて動かない模様。中に海水が溜まっており、開けた瞬間、もう腐ったような硫黄の臭いが強烈で、部屋の中にいることができず、「待避」と言いながらみんな外に避難した。

P6131111.jpg これをそのまま出すのは無理と判断し、ご主人と相談して海水を下に流した。一階に流れ落ちましたが、その臭いが四方にひろがり、外にいても強烈に臭ってくる。ご主人もこんなのははじめてと仰っていた。

P6131118.jpg この臭いを伝えられないのが残念だが、もう一つ炊事場の奥の一番上に炊飯器が見えるが、これもここにあったのではなく、津波で流されて収まったもの。よせばいいのに、ふたを開けてしまった。ただ、写真のようにこれが三ヶ月前のものかと思えない。これまたよせばいいのに顔を近づけてしまい、思わずのけぞってしまった。(つづく)

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