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なんと完投負け(T_T)

 昨日は横浜対中日戦を見に行った。息子が高校の時のチームメイトのお父さんのご配慮での横浜スタジアムバックネット裏のいい席で見せていただいた。勤め先の関係で券が入るらしく、昨年に引き続いて2回目。そして何とも2連敗。

 昨年はすでに上位に離されており、またその試合も点差を広げられての敗戦でショックも少なかったが、昨日は絶対に勝たなければならない試合を、横浜より倍の10本もヒットを放ちながら完投負け。投手が完投にして負ける試合はそうそうない。

 試合は17時開始であったが、打撃練習を見ようと、まだまだ日差しが容赦なく照りつけている15時に球場に入った。暑い。ちょうどブランコの打撃練習中。監督に似たはげた人がいると思ったら、なんと落合監督。つきっきりでの打撃指導。いい当たりもあるが、続かない。

 相手投手は大家。こちらは中田。普通にいけば勝てると思ったが、一抹の不安が残っていた。的中。隣は熱狂的な横浜ファンのおじいさんが気合いを入れてみている。私は完全に気合い負け。相手が「勝って下さい、勝って下さい」と見えないミスを連発するのに、こちらは見えるミスでお返し。勝てる試合を落としてしまった。

 これで優勝するのはおこがましい。この時期最下位チームには、もう横綱相撲で勝たなければならない。前頭7枚目くらいの勝負をしていたら全くだめである。と、そんなことをつらつら思いながらの帰路は長い、長い。関内から武蔵小金井まで、勝てばあっという間の約2時間だが、負けたら数倍にも感じる。ただ、ただ暑かっただけの出来事だったが、まだまだ何とか・・・・。

公開シンポジウム『よりよい未来へ』-いま、求められる教育とは-開催される

 昨日は、四谷区民ホールにおいて、金光教東京センター・金光教東京都教会連合会主催の公開シンポジウム『よりよい未来へ』-いま、求められる教育とは-が開催された。参加者は約100人。

 内容は、金光学園校長の佐藤元信先生の基調講演『見えないもの見る』、近代史に造詣の深い作家保阪正康氏の『先達の足跡に学ぶ知恵-歴史を語り継ぐ精神-』、上原泰男東京災害ボランティアネットワーク事務局長の『被災者支援の現場から-いのちと暮らしの支えあいを共に学ぶ-』、元金光大阪高校宗教教育科教師の近藤和明金光教小坂教会長の『心を育てる 神心を現す』、との3氏の発題の後、保阪氏コーディネーターにより、以上4氏によるパネルディスカッションがあった。

 私は受付と外の会場係だったため、しっかりと聞くことができず残念であったが、時々中に入って聞いた感想として、それぞれ立場の違う方から非常に興味深い発題がなされ、それを「いのち」と「教育」というテーマに絞り込んで、保阪氏が自分自身の意見を述べつつ、なおかつ他の3名のバネラーの方の意見を引き出しながら、焦点がぼやけることなく討議が進んでいったことに感心した。

 全体で4時間30分という長短場のシンポジウムであったが、参加者数名の方から、「非常によかった」とのお言葉を頂いた。また、ある宗教ジャーナリストの方が受付をしていた私に「このテーマはやはり4時間必要であり、非常によい意見が多く出され刺激を受けた」と仰っていただいた。

 反省点も種々あると思われるが、とりあえずご報告まで。

 

「みのり」に参加

 昨日、「みのり」に参加した。夏期の参加は初めて。普通なら26日ともなると秋の気配が漂っている頃だ。ところが昨日は猛暑。熱中症が怖く心配であったが、いつもと違い平日の木曜日、作業量の割に人が少ないことが予想されるので、参加させていただいた。

 参加していたある女性の方が、「熱中症は自分でも気がつかないうちに、かなり重症になっていることがあるから注意しなければ」と仰っていた。ところが、農家の方やご近所の方は、ほとんど休憩なしに黙々と作業をされている。そして、早くてきれい。

 作業内容は、サツマイモの蔓をより分けて、その中に生えている草を抜くもの。畑の中を入っていくが、しゃがんだり、立ったりしなければうまくできず、相当にしんどい。すっと立ったときにマジでクラッとくる。

 何とも私が一番休憩が長く、何度もとってしまった。おまけに遅くてがさつな作業。お茶も短時間で多く飲んでしまい、おなかがチャポンチャポン。日頃の不摂生がたたる。それでも何とかご用にはなったかと思う。

 これまで大いに実った作物を頂くばかりであったが、これは天地のお恵み、日頃の大変つらいお手入れがあってのおかげだと、改めて思わされた作業であった。次は、11月の収穫祭。里芋共々できばえが楽しみである。

「よけいなものは手放す」

 「よけいなものは手放す」。昨日とは正反対のことを言うようだが、少し前にやっていた「曲げられない女」というドラマの主人公菅野美穂さんの台詞を思い出した。いい言葉だと思わずメモっておいた。

 「人って1回失ってみないと、本当に大切なものが分からない。生きるってもしかしたら、よけいなものを捨てて本当に必要なものを大切にすることなのかもしれない」

 それから私がカラオケでよく唄う松田聖子の「制服」の歌詞も思い出した。

 「失う時 初めて まぶしかった時を知るの♪♪♪」

 「当たり前のことが当たり前でないこと」、「当たり前」が輝いて見えるという経験は、失う時に初めて味わうことができる感動ではないかと思う。

 失うことは辛く、苦しいものだが、あらかじめよけいなものはできるだけ手放し、当たり前が当たり前でないと常々思っていれば、辛く、苦しいこと、悩むことも早く乗り越えられるのでは。そして人生の本当の大切なところを早く知ることができ、充実した人生が送れると思う。

もらえる物はとりあえずもらう

 ご本部布教部時代、ある方が「これもう使わないからあげる」と言われたが、遠慮して丁重に断ったことがあった。結構高価なものだったと記憶している。

 それを見ていたある年輩の先生が近寄ってきて、「辻井君、もらえるものはとりあえずもらっておいて、しかる後にどうするか考えればいいんだよ」と。

 なるほど、仰るとおりと思った。しかし、内心それでは物はたまる一方で、捨てるということはなかなかできないしとも思っていた。

 そしてあるとき閃いた。といってももう相当後ではあるが、先生の真意に気がついた。先生は物について仰ったが、これは物だけではなく、人の話もそうだと。

 「人の話はよく聞いて、一応それを腹に入れて、そのなかから善いものと悪いものとをえらぶがよい。初めから聞かないで拒んではいけない。また聞くのはよいが惑ってもいけない」という文章に出会ったからだ。

 なるほど物だけでなく、何でもとりあえずは受けていく。私は初めから聞く耳を持たないことはないが、いろんな相談事を受けるときに、ついつい聞くということがおろそかになり、我慢できずに説教になってしまうことがよくあった。

 これでは、結局その方にとって何の解決にもならず、真の助かりもない。まずは腹入れする。物ももらう。この精神が大事だとあれから30年近く経って改めて思う。

母の5年祭の思う

 「母の5年祭で勝浦に帰っていた」と言うと、みんな一応に、「え、もう5年も経ったの?」と返ってきた。「時が経つのは早い」という言葉をなるべく使わないようにしてきたが、本当にあっという間の5年だった。

 今でも明確に覚えているのは、その年の9月に国際センター主催の「教義に関する会議」に出席中、父親からの電話で「膵臓がんでもって3か月」と聞かされた。それから11月23日の勝浦教会の大祭まで母は激痛を我慢して家にいた。私は離れているのでよくわからなかったが、相当ひどかったらしい。

 大祭を終えて、さすがにどうしようもなく入院した。何とか正月まで待ってほしい、孫の顔も見てほしいと願った。しかし、東京に帰るときにこれで見納めかと思うとすぐに帰ることができず、「じゃあ、正月くるね」と別れながら何度か引っ返した。お薬でややもうろうとしていた母は、何度か引っ返してきたことを意識していたかどうか、合掌した姿で「ありがとね」と言った。それが私との最後の言葉となった。

 この欄で何度も触れたり、教話で話させていただいたが、万事にご都合お繰り合わせを頂いたと思う。病院嫌いであった母が、数年前からは糖尿で病院に通っていた。それなのになぜわからなかったのか。痩せてきたときになぜ気がついてあげられなかったか、と悔やんだ。

 しかし、膵臓がんは完治は難しく、手術をしてもなかなか普通の状態に戻ることができず、苦しむと聞いた。もし、発見が早かったとしても手術で体を傷つけ、闘病生活も長引いたことだろう。それを思うとこれでよかったのだと思う。

 私は金光学園に入学したため、母と中学の時から離れている。だから、生きていたときよりも亡くなってからの方が不思議と身近に感じている。私がいつもチャチャを入れにいってからかったりすると、「やっちもない」と言われた。少し弱気のことを言うと、「なにくそでいけ」と励まされた。まだまだこの声は実際に聞こえてくる。5年経ってもまだ母は生きている。

大戦後65年の夏に思う

 大戦後65年を迎えた今年の夏は、テレビや新聞で「戦争と平和」をテーマにした特集番組や記事が多かった。今夏は勝浦に帰省したため、ハードディスクにほとんど録画した。これからボチボチ見ていきたい。

 その大戦後65年の特徴として、今まで沈黙してきた体験者たちが、意を決してその体験談を話し始めたことだ。あちこちのテレビや新聞が報道していた。ではなぜ語らなかったのか。それは語れなかったということなのだ。一言で言えば、「負い目」である。 

 戦陣訓により「生きて虜囚の辱めを受けず」と徹底的に教え込まれ、「悠久の大義に生きろ」、つまり、死を強要された。それは兵士だけでなく、一般の国民までその精神が徹底された。多くの人が国のために死んだのに、自分だけがオメオメと生きておっていいのか。その罪悪感から「自分には話す資格もない」と押し黙ったのだ。

 数年前、東京センターの「平和セミナー」で、多摩地方の戦績を回り、その後、関口さんと服部さんに寮の集会室で戦争体験を語ってもらった。服部さんは、終戦当時理科系の大学生で応召を免れた。昭和20年がちょうど20歳で、すぐ上の世代や同級生たちの多くが死に、そしてB29に体当たりして死んでいくのを目の前で見ていた。

 私は戦争の不条理さの一つとして、「戦争は若い方から死んでいく」ということを伝えたくて、服部さんに「是非そこのところを強調して当時の様子を聞かせてほしい」とお願いしたことがある。しかし、その服部さんでさえ、「自分はたまたま理科系だったことで生き残ったのであり、そのことをあまり話したくないし、人からも指摘されたことがある」と仰った。

 この時に、私は初めて戦争体験者の皆様の本当の苦しみを知ったような気がした。そして語ることがどれだけ勇気のいることであり、そして語られた言葉は何事にも代え難い貴重なものであるということを初めて腹入れができた。大戦後50年の時には、まだそこまでの認識はなかった。

 そして今、なぜもっとちゃんと亡くなられる前に聞いておかなかったのだと悔やんでも悔やみきれない方がいる。それは芝教会前教会長大場正範先生だ。ご葬儀の時の友人の弔電で初めて先生の真実を知り、それがすでに『生きる』というご本に少し触れられていたこと。平和集会の行進に必ず参加してくれていたこと。その当時にこちらの認識がもっと深まっておれば、よい質問もできたであろうにとつくづく反省している。

 だからこそ、語られる貴重な体験を真剣に聞き取り、人類の体験として次の世代に伝えるべく努力しなければならないと改めて思わされている。娘から「お父さんって、本当に戦争が好きだね」と冷やかされようと「また始まったか」と言われようとも、この後もずっと戦後であり続けるよう触れ続けていきたい。 

 キスを釣りに行って、鯨が釣れた?

昨日17日朝、勝浦から無事帰寮した。行きも帰りも夜中に走ったため、渋滞は免れた。妹一家6人も一足先に勝浦に来ていた。滞在中、母の5年祭、木の伐採、池の清掃等々、暑い中、なかなか大変であった。

その間、妹のご主人が釣りが好きなことから、息子は2回、私は東京の帰る日の早朝1回だけ付いていった。朝5時、教会からは北側になる「那智の浜」の勝浦よりの砂浜でのキス釣り。第1日目は大型のキスを含め6匹ほど釣れており、塩焼きは美味だった。1日遅れで勝浦に着いた息子が勢い込んで第2日目に参加、フグだけとさっぱりであった。

さて、3日目。すでに二人の方が釣っていた。朝散歩のギャラリーも多く、甚平姿の私も結構通に見えるらしい。しかし、さっぱり当たりも来ず、餌さえとられない。30分ほど経った頃か、地元の人らしき男性の方が、那智方面から走ってくる。

「鯨が浅瀬に打ち上げられ、ケガをしている。助けてやりたいので手を貸してほしい」とのこと。私たち3人と前に来ていた2人の5人で那智方面へ向かう。だんだんに多くの人が集まってきている。

一番年輩そうな方が助けようと海に入っていき、それにつられて数人が海へと入っていく。私も携帯で写真を撮りながら近づく。暴れている鯨に下手に近づくと危ない。鯨の腹は血でピンク色に染まっている。

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数人の方が一生懸命頭を沖へ向けて誘導し、ようやく深みまで進み、泳ぎだした。これで大丈夫とまた勝浦方面に戻り、キス釣りを続けたが、今度は目の前十㍍くらいのところまで姿を見せ、那智方面と勝浦方面の間を行ったり、来たり、完全に方向を見失ってしまったようだ。パトカーもやってきたが、見ているだけ。
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さすがに鯨に目の前を泳がれるとキスなんかはどこかに逃げてしまったのだろう、結局最後まで当たりもなし、餌もとられないという完全ぼうずであった。鯨が無事沖合に出て行くことできるようお願いしながら帰ってきた。キスはさっぱりだったが鯨を助けるという、そうそう体験できることではないことを体
験することができた。これはこれで有意義であった。

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