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東京学生寮9月の月例祭・食事会 終

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 神様のものさしを持つために、逆から考えたり、複眼思考や思い込み、先入観を払うことなど述べてきたが、一つ言い忘れたこととして、あるものをないかのように生きることと、そしてその逆でないものをあるかのように生きることである。

 私は1959(昭和34)年、金光教立教100年生まれ。新人類のはしりだとか、高度経済成長の申し子世代とか大学紛争が終焉を迎え、右傾化の始まり世代とか色々と言われるが、すでに小さい頃から物には不自由しなかった。

 あることが当たり前で、ひもじい思いやさもしい思いもしたことがない。まして今の若者世代の子たちが、当たり前のことが実は当たり前ではないことになかなか気付くのは難しい。だからといってすでにあるものを棄てることはできない。

 そこであるものをないかのように、持っているものを持たないかのように生きる。つまり失って初めてそのありがたみがわかるのだが、失う前に例えばもし電気がなかったらとか、大切な人がいなくなったとかの場合にどうするかということを常に想像していく。

 するとそのありがたみが本当に実感できるはずだ。となるとちまちましたことにあまり拘ることがなくなり、心に余裕ができる。

 そして次に今度はないものをあるかのように、見えないものを見えるかのように生きる。神様や御霊様は目には見えない。

 知人に二、三人、御霊様が見える特殊な能力を持っている人もいるけれども、見えないとしても、存在すると感じて生きていく。

 するとそこにも感謝の心が必ずわき起こってくるはずだ。以上、神様のものさしを持つにはどうすればいいかについて聞いて頂いた。

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 次に食事会。二人のOGも来てくれ、中国からの留学生男女お二人による中華のスペアスペアリブ、卵とトマトの炒め物、辻井主事からマロニー中華サラダと水餃子入りスープが振る舞われた。今回のスペアリブも初めての味で超美味であった。

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 続いて、今月の誕生月のU君とIさんがお祝いされ、何と今年も私たちの9月11日の結婚記念日をお祝い下り、かわいいケーキとドレッシングを頂いた。本当にうれしい限りである。(涙)おわり

寮9月月例祭・食事会 3

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3 使命を生きる。ご神願成就 世界真の平和 全ての1人ひとりの助かりの実現

 先に述べた自分から出発すると私は何のために生きているのか、果たして私の人生に意味があるのかという問いを生む。確かに大事なことではあるが、私という存在はすでに意味が与えられ、その使命に生きることが宿命付けられていると考える。

 ただ、もう一つさらに「人間のものさし」ではかる一般とは違うところは、あなたのため、人のため、会社のためといった何々の「ために」という言葉は使わない方がいいということである。

 何々のためには不遜である。いったん表現してしまえば必ずやそこには恩着せがましさが生じる。人のためといいながら結局は自分のため、自分の利益しか考えていない謙虚さという名の傲慢でしかないのだ。こういう人は皆さんの周りにもいるのでは。

 どなただったが、必要なのは「ために」ではなく、「気遣い」の心と教えて頂いた。自他の心身を気遣うこと。気遣いや心遣いのほかに「思いやり」や「心配り」もそうだと思う。心にただ思うことだけではなくて、「遣い」、「やり」、「配り」があってこそ形になる。その行動こそが私たちに与えられた使命となるのだ。

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 理屈ばかりになったが一つだけ具体例を。自分にだけ「なぜ?」という難儀な出来事でもそこには必ず神様のメッセージがあるということについて、私の息子が高校野球で甲子園を目指してがんばっていたが、1年生の夏と2年生の夏、ノックを受けての守備練習中、何と2回もイレギュラーしたボールが鼻に当たり、骨折手術を受けた。

 手術といっても二本の火鉢のような金属を鼻に入れて、医師が手でぐりぐりしながら矯正していく。もう痛いといったらこんなに痛いことはないほどだったという。それも2回も。 

 ノックしていたのは同じ遊撃手で一つ先輩の福田周平君。ソフトバンクに高校ドラフト1位で入団した子だ。同じショートなのでかなり日頃から練習をつけてくれていた。

 一回目の時は、監督が「1年生の時でよかった。これが2年生なら大変だった」と。その後に控える夏の合宿に参加できないということは、レギュラー捕りがかなり難しいということになるのだ。

 それが2年生でも同じことになり、息子も私も相当落ち込んでしまった。完治には2ヶ月くらいかかり当然合宿には間に合わない。あるときハッと、リトル時代どこかのチームの子が仮面をかぶってやっていたことを思い出したがその仮面はかなり高い。

 どうしようかと悩んでいたときにまたハッと思い浮かび、キャッチャーミットをかぶって練習すればいいのだと。そして合宿に参加した。

 実際にそのように練習したが危なっかしくて監督からNGを出され、それからは黙々と走るばかり。合宿後は監督から「二度も当たれば怖くてもう野球はできないだろう」と言われ、だんだんとレギュラーを外されるようになった。私もきついことを言って息子を泣かせてしまったこともあった。

 それでも淡々と練習を続ける息子。実は後日金光新聞の『信心真話』の原稿に書くために一杯飲みに行って息子を取材し、このときの心境を聞いた。

 この時はかなり落ち込んだが、練習しているうちに吹っ切れたという。これまではレギュラーを外されないようにと汲々として野球をしていたが、これからは楽しもうと。好きな野球ができるだけでも本当にありがたいと思えるようになったという。

 で、実際そういう心境になると野球が楽しくなってきたそうだ。ある神奈川県の強豪校との練習試合でかなりいい守備を連発し、相手チームの保護者の方からもお褒めのお言葉を頂いたほど活躍した。

 そこから一変、全くエラーもしなくなり、一塁への送球もビシッと決まりだした。そこからはだんだんにレギュラーとして試合に臨むようになり、最後の夏も甲子園までは届かなかったが、2番遊撃手の大活躍した。

 そうなのだ。実は鼻の骨折が心を変え、体を変えた。実は肩をかなり痛めており、痛いと一言でも言うとレギュラーを外されるからだましだましやっていた。その肩を鼻の骨折によって休ませることができた。

 二度の骨折でも全く後遺症もなく、また肩の調子もよくなり、さらには野球が怖くなるどころか楽しくて仕方なくなるまで大みかげを蒙ったのである。

 人間のものさしだけを使っていれば、そのまま沈んでいたかもしれない。知らず知らずのうちにお道の信心を聞いていたおかげで、「野球ができるだけでもありがたい」という神様のものさしではかる心境を得ることができた。そしてそこには息子に対する神様からのメッセージが確実にあったのだ。  

 是非皆様も卒寮するまでに「神様のものさし」を持つことができるように、しっかりと信心、勉学にいそしんでほしい。寮の願いは「世界、人類の貢献しうる人材の育成」である。少しでもよりより世界、社会になるようその使命を自覚して日々取り組んで頂きたい。(つづく)

寮9月月例祭・食事会 2

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2 「超越」 物事の程度・基準・範囲などをはるかに超えること
二つ目に何事も「超越」という概念を意識して物事をとらえていくとこと。

①何事もあるがままに受け止める。起こるがままに。ありのままに。物事に無駄ごとはない。
 「何事もあるがままに」と口では簡単に言えるがなかなか難しい。人生自分に都合の悪いことは必ず襲ってくる。例えば病気、災難、試験に落ちること、またこれといって具体的には降りかかってこないとしても、理由なき空虚感、焦燥感、将来への不安は誰しもが抱えている。

 このいわゆる難儀の中に神様からのメッセージが必ずあると考える。そこには自分を成長させてくれる材料があり、それは一つの試練であり、必ず意味がある必然的偶然ととらえていく。

 ただ、大きな難儀が襲い、本当に辛い思いをしている渦中にある時は、そんな余裕はないこともよく理解できる。しかし、だからこそ今どんな境遇にあうとも、どんな人生にも意味があり、あなたが、またあなたを必要としている誰かがおり、祈りがあり、願いがある。それをあなたに発見されるよう待っている。あなたもそのためにできることがある。だからどんなに苦況にあっても投げ出す必要はない。

 前に時間意識について触れたが、宇宙ができて137億年、地球ができて50億年、人類誕生4万年の流れが自分に来ているという意識。先祖代々のいのちを今に頂いて、さらに未来に続いている命を生きている。皆さん1人ひとりが今という歴史一の時間を生きているのだ。

 辛い境遇にあったとしても、時間が経てば「あれもおかげあった、これもおかげであった」という境地に必ず達することができる。ゆえに今の今は色々あるとしても、人生最高の時を生きているという意識である。

 もう一つ今の今ここにいる場所の意識、「空間意識」である。宇宙の中では点にもならない自分の居場所ではある。しかし、逆にいえば宇宙の全勢力・エネルギーが結晶している場所であるともいえる。自分自身が今いる場所が世界一の場であると考えていく。自分自身が行くところに神様が生まれ、神いますところ必ずや幸が生まれるととらえる。
 
 適切な時に適切な場所にいて適切なことをしている。最高の時に最高の場所にいて最高のことをしている。何事も「あること全て美しく、起こること全てよし」としていくことである。

②「逆も真なり」「複眼思考」
 これは一般でもよく言われていることであり、皆さんに何度も話してきているので簡単に触れるが、こう考えることによって、思い込み、固定観念を外すことができる。当たり前と考えていることは決して当たり前ではないととらえていく。自明と思われることでも決して自明ではない。

 気仙沼の仮設住宅で、ある被災者の方が発した「地震の前の暮らしは、夢のような生活でした」との一言は本当にハッとさせられ、一生忘れられない宝の言葉となった。すでに奇跡は起きているのだ。九州日田教会堀尾保治先生の「奇跡の毎日を生き、奇跡の場所におらせて頂いてる」とのお言葉そのものである。

 先に述べた人間のものさしの特徴である二分法や二者択一の排除の論理ではなく、対立する概念を超えていく。例えば「難はみかげ」、「無用の用」、「無知の知」といったように全てを肯定していく思考である。 

③手段と目的を入れ替える。
 これも何度も話してきたが、例えば歩いて学校に行く場合、学校が目的で歩くことが手段である。これをひっくり返して考える。歩くために学校があると。すると歩くことも運動や散歩という目的となり、つまりは手段が消えて全て目的となる。全てが目的となると手段も目的という概念もなくなる。「無的の信心」に通ずる。全てに無駄ごとはなく、全てを受け入れていくということである。

 超越とは、まずは自分の有限性、無力を自覚すること。そして自分を根源から支えてくれている根源的な生命との根源的な出会いをしていくことである。「疑いを離れて広き真の大道を開き見よ、わが身は神徳の中に生かされてあり」なのだ。(つづく)

寮9月月例祭・食事会 1

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 9月6日午後7時から寮集会室において、9月の月例祭・教話を不肖私が仕えさせていただき、引き続いて楽しい食事会を持った。

 教話は「神様のものさし、人間のものさし」と題して行ったが、今回食事会の当番の中国からの留学生2人が、「作り置きすると美味しくないので是非直前につくりたい」との申し出あり、ではできたら合図してもらうことにして教話を始めたところいつもより長い話になったので何回かに分けて報告したい。

 まず「人間のものさし」は、目盛りがあり、目に見える世界である。そこでは有用価値が重んじられ、二分法、二尺択一の考え方をとる。

 もちろんこの「人間のものさし」は必要であり、「1+1=2」との取り決めがあるからこそ世界が成り立ち、社会は存在する。

 しかし、現代人の多くが間違えているのは、この世界は目で見える世界だけで成り立っているのではないということである。その目に見えない世界を見るために「神様のものさし」が必要になるのだ。

 「神様のものさし」とは、目盛りがなく、目に見えない世界である。そこでは存在価値が重んじられ、全ての物事をあるがままに受け止める考え方をとる。

 この「神様のものさし」が持てるコツとして3つの考え方を伝授したい。

1 自分自身の存在根拠 立ち所を知ること。
 「人間のものさし」ではかる世界は、例えば、幸せになるためには「政治、経済、福祉、科学」、健康になるためには「医療、介護」、生きがいを得るためには「芸術 教養文化 スポーツ」、よりよく生きるためには「倫理、道徳」、安心、安全のためには「法律 治安 警察」等々がその役割を果たしている。

 こうした世俗のカテゴリーは、全て自分から始まる。自分が今あることはすでに自明のこととして、自分にとって何が必要かという自分にとっての損得勘定や利害関係で考え、自分はどこから来たかという存在原理は問わない。

 ゆえに、自分の存在が非常に重い病気や災難を受けてぐらついたとき、自分を見失ってしまうこともある。いったん見失ってしまえば、経済、福祉、医療をもってしてもなかなか立ち直ることは難しい。

 「神様のものさし」からはかると、自分から始まるのではなくて、自分は一体どこから来たか、自分の存在の根拠はどこにあるかと問う。私たちには必ず父があり母がいる。その父にも母にも父がいて母がいた。

 先祖代々受け継がれてきた命、その命を生んだ地球、宇宙の誕生までさかのぼれば137億年というものすごい悠久の時間を経ての今の自分がいるというふうに考える。後ほど述べる時間のとらえた方にかかわるが、私たちは永遠の今の一瞬一瞬を生きているということである。(つづく)

デモは合法的非暴力行動手段の一つ

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 自民党の高市早苗氏が政調会長時「ヘイトスピーチ」の規制策を国会周辺のデモにまで法的措置をとると発言し、内外からの強い批判にさらされすぐに撤回した。当然である。

 国家権力はよほど気をつけなければ恣意的な支配が強化され、または腐敗し、時に暴走する。警察、軍隊という物理的な強制力を持っているがゆえに一般国民が異議を唱えることはかなり難しい。

 がゆえに、その国家権力による不正や人権侵害などを糾す手段として、合法的に認められているのが非暴力行動の一つであるデモだ。それをヘイトスピーチと同列に扱うという行為は、物事を全く知らない不見識そのものではないか。 

 その高市氏が総務大臣として入閣し、権力を握った。権力を持つ政治家が一番国家権力の恐ろしさを知っておかなければならないと思う。

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 昨日開催された「解釈で憲法9条を壊すな実行委員会」主催のデモに参加したが、デモのさせ方自体に、あのイラク戦争反対デモの頃よりかなり厳しくなっているのを肌で感じる。また、行政施設での憲法や原発にかかわる集会受け入れ拒否や自粛ムードはかなり怪しい雰囲気になっているように感じる。

 ものを壊すことはよくないことだが、戦争への道だけは壊さなければならない。いつか来た道を二度と通ることのないように。