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寮9月月例祭・食事会 1

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 9月6日午後7時から寮集会室において、9月の月例祭・教話を不肖私が仕えさせていただき、引き続いて楽しい食事会を持った。

 教話は「神様のものさし、人間のものさし」と題して行ったが、今回食事会の当番の中国からの留学生2人が、「作り置きすると美味しくないので是非直前につくりたい」との申し出あり、ではできたら合図してもらうことにして教話を始めたところいつもより長い話になったので何回かに分けて報告したい。

 まず「人間のものさし」は、目盛りがあり、目に見える世界である。そこでは有用価値が重んじられ、二分法、二尺択一の考え方をとる。

 もちろんこの「人間のものさし」は必要であり、「1+1=2」との取り決めがあるからこそ世界が成り立ち、社会は存在する。

 しかし、現代人の多くが間違えているのは、この世界は目で見える世界だけで成り立っているのではないということである。その目に見えない世界を見るために「神様のものさし」が必要になるのだ。

 「神様のものさし」とは、目盛りがなく、目に見えない世界である。そこでは存在価値が重んじられ、全ての物事をあるがままに受け止める考え方をとる。

 この「神様のものさし」が持てるコツとして3つの考え方を伝授したい。

1 自分自身の存在根拠 立ち所を知ること。
 「人間のものさし」ではかる世界は、例えば、幸せになるためには「政治、経済、福祉、科学」、健康になるためには「医療、介護」、生きがいを得るためには「芸術 教養文化 スポーツ」、よりよく生きるためには「倫理、道徳」、安心、安全のためには「法律 治安 警察」等々がその役割を果たしている。

 こうした世俗のカテゴリーは、全て自分から始まる。自分が今あることはすでに自明のこととして、自分にとって何が必要かという自分にとっての損得勘定や利害関係で考え、自分はどこから来たかという存在原理は問わない。

 ゆえに、自分の存在が非常に重い病気や災難を受けてぐらついたとき、自分を見失ってしまうこともある。いったん見失ってしまえば、経済、福祉、医療をもってしてもなかなか立ち直ることは難しい。

 「神様のものさし」からはかると、自分から始まるのではなくて、自分は一体どこから来たか、自分の存在の根拠はどこにあるかと問う。私たちには必ず父があり母がいる。その父にも母にも父がいて母がいた。

 先祖代々受け継がれてきた命、その命を生んだ地球、宇宙の誕生までさかのぼれば137億年というものすごい悠久の時間を経ての今の自分がいるというふうに考える。後ほど述べる時間のとらえた方にかかわるが、私たちは永遠の今の一瞬一瞬を生きているということである。(つづく)

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