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沖縄の苦しみ見据え平和を

 先日の沖縄遺骨収集奉仕体験を踏まえて東京新聞に投稿、本日付けに掲載していただきましたので紹介します。

<A href=””http://konkokyo.main.jp/tsujii/08okinawatokyosinbun.htm””target=_blank>2月28日付『東京新聞』</a>

沖縄の苦しみ見据え平和を            学生寮寮監 辻井篤生 49 (東京都小金井市)

先日、沖縄県糸満市摩文仁周辺で行われた、三十五回を数える金光教沖縄遺骨収集に参加した。戦後六十三年を経て、なお全身遺骨三柱や子どもの頭骨、多くの遺品が発見された。驚きである。  その沖縄。先の大戦では本土防衛の「捨て石」とされ、軍民合わせて二十数万人が犠牲になった。戦後は私有地の多くを基地用地として強制的に取り上げられ、その基地にいや応なく依存しなければならない経済体制に組み込まれた。  駐屯する米軍の事故の恐怖におびえ、米兵による犯罪は今もなお後を絶たない。沖縄は、二重、三重にも苦しみを背負わされている。  世界は軍事力による秩序構築、その体制維持のために絶えず犠牲者を生み出している。その苦難の縮図が沖縄なのだ。その沖縄を見ずして、世界真の平和はない。

第35回 沖縄遺骨収集奉仕参加 完 2008年2月

 さて、私たちのグループは、本番土日の前日金曜日の朝6時50分羽田発と帰りは月曜日の午後7時30分那覇発の飛行機が取れ、前日と後日に沖縄を観光できた。そもそも沖縄が初めての方が多いことから王道の平和ツアーを組んだ。

 金曜日、10時頃那覇空港着。ただレンタカーを借りるのにやはり時間がかかり、11時頃那覇市を発ち、一路沖縄戦激戦地となった南、糸満市へと向かう。まずはひめゆりの塔に参拝し、ひめゆり祈念館に入る。私はもう何度も入っているが、あの女学生たちの顔写真、何度見ても胸を打たれる。

 次に平和記念公園にある平和資料館に入りたかったが、午後5時から那覇教会での打ち合わせがあるとのことで、「平和の礎」と明日作業するであろう場所を少し見てもらおうと記念公園周辺を散策した。時間が経つのは早い。第1日はこれで終了。

 平和資料館はぜひ見てもらいたいところから、本番第2日の日曜日、作業が一段落して慰霊祈願祭までの時間に初めての方には行ってもらった。それから作業終了後の夜、「あんつく」というお店で有志による打ち上げがあった。国際通りからやや離れたところにあり、観光客ではまずわからないところ。ここの沖縄料理がまた抜群。30人以上の参加者が集まり、交流を深めた。

 月曜日、一昨年行こうとして時間がなく引き返した嘉手納米軍基地を見学。この日は休みだったのか飛行機が一機も飛ばず、三沢基地に行った時とまるで様子が違い静かであった。次に首里城、そしてぜひ行きたくて行けなかった念願の「対馬丸記念館」に行くことができた。その後「海軍壕」に行き、時間切れとなった。もう少し時間があれば、南風原陸軍病院跡や記念館にも足を運びたかったが、そこは断念した。

 途中、昼食を取った公設市場や那覇空港で他の地区から来た道の仲間とよく出会う。これがまたいい。那覇教会長林先生は、東京組、関西組、九州組等が帰る頃に空港に現れ、みんなを送ってくれるている。本当に頭が下がる思いがする。先生の笑顔、そしてお道や教外から参加してくださる一般の方たちを含めた仲間たちの笑顔が忘れられず、また来年もぜひ参加したいという気持ちで一杯になる。

 別れの言葉が「それでは来年また!!」である。ぜひ来年も参加し、来年もまた新しい若い人たちに参加していだきたく願っている。  ぜひ、皆様も一度はご参加下さい。ご案内申し上げます。(おわり)

第35回 沖縄遺骨収集奉仕参加 5 2008年2月

 2日の昼食は浜辺に降りて頂いた。美しくおだやかな海。青い小さな魚も見える。この場所で63年前に地獄があったとは想像できないが、少し下をよく見て歩くと、機関銃の弾丸が落ちていたり、岩に突き刺さっていたりする。

 午後からはそこから上に展開していったが、その後は発見できなかった。しかし、他の班では何と完全ご遺骨3柱を発見したとのこと。写真は名古屋から一般参加のKYさんからわざわざ送っていただいたもので、KYさんも初めての体験で感動したとのことであった。

 大戦後63年も経て尚、このように発見される。一体どのような気持ちで亡くなっていったのだろうか。6月の沖縄は梅雨時期で暑く、壕の中はそれはそれはいるだけで地獄であったと思う。それも米軍に追い詰められ、ぎりぎりの緊張感の中で亡くなっていった。

 暑かったろう、臭かったたろう、痛かったろう、淋しかったろう、お腹が空いていただろうと思いを寄せても、尚想像を絶する辛さだったろうと思う。人類は愚かにもいまだに相争っている。犠牲になられた御霊様に何とも弁解のしようもない。お詫びするのみである。二度と繰り返さないように。(つづく)

第35回 沖縄遺骨収集奉仕参加 4 2008年2月

 第1日その場で昼食となった。沖縄としては寒い最高気温14度。日向にいると暑く、日陰に行くと寒い。ちょうど体の半分に日が当たるような場所を探しお弁当。コンピに弁当ではあるが、ゴーヤー弁当。これがまた美味しい。

 休憩後もただひたすら土を掘る。そのうち大腿骨があがった付近で作業していた初参加隊が上ってきた。初めて見る人骨に興奮気味。人間の大腿骨は想像以上に大きいのでびっくりしたことと思う。残念ながら本隊は穴を掘るだけで第1日を終えた。

 第2日も同じ場所での作業。昨日と同じように40分ほどかけて現場に着き、今日こそはとみんなで天地書附を奉唱。御祈念を終えたところに連絡が入り、入り口付近で子供の頭骨発見(写真左)とのこと。わが1班だけがまたすぐに引っ返すこととなった。

 歩くだけで疲れながら頭骨発見付近に戻ってくる。驚くことに「平和の礎」横の公園から入ったもうすぐのところ。ここは金光教だけではなく、他の団体も何回も何回も探したであろう場所。その地表見えるところにあったそうだ。見落としていたのだ。

 その後すぐ、少し離れたところではあるが、大人の口蓋骨と頸椎の先の部分(写真右)が発見された。このとき私はまた少し違う場所で指と思われる骨片を発見した。ジャグルへの入り口すぐのところ、また道もはっきりしているところにまだこれだけ出てくることに本当に驚いたようなことであった。その後、全員で「祖先賛詞」奉唱、「天地書附」奉体で御祈念をさせていただいた。(つづく)

第35回 沖縄遺骨収集奉仕参加 3 2008年2月

 断崖に根を下ろしていた太い木が何かの拍子に倒れ、根っこがむき出しになっている。やはり、その木を退けようということになり、機動班にのこぎりとロープを本部から持ってくるようお願いする。

 片道30分ほどかかるところを行ったり来たり。機動班も大変。大きな根っこにロープを結わえつけ、引っ張るが木の本体の方が他の草木や土の中に埋まり、びくともしない。今度は直径20センチ以上ある木をのこぎりで切る作戦。その後5、6人でロープを引っ張りようやく取り除いた。

 しかし、作業はこれで終わりではなくここからが始まり。またスコップと鍬でただひたすら土を掘る作業。今回はこうして最初飛ばしすぎため、後々まで体が痛く往生した。60代、70代の方々がばりばり働いている中、40代最後の年とはいえ、弱音は吐けない。しかし、ついつい「疲れた!」という言葉が出てしまう。

 すると機動班からご遺骨発見の情報が入った。私たち1班、6班は全員同じ場所ではなく、ベテラン数人の方と機動班の方々は縦横無尽に動き回り、地表すれすれに残っているご遺骨や新たな自然壕、またご遺骨がありそうな場所を探索してくれている。

 その方たちが、ちょうど私たちが作業している真下の海岸線ぎりぎりのところで大腿骨2本を発見した。これは先日紹介した琉球新報に写真が掲載されている。その場所に他のご遺骨があるかもしれないとのことで、今回初めて参加された方々が行くこととなった。4、5人と思っていたら、結構大人数が降りていき、初めての参加者が多いことに驚いたようなことである。(つづく)

第35回 沖縄遺骨収集奉仕参加 2 2008年2月

 このたびそもそも沖縄が初めての方が4人。せっかく来たのであるから、戦跡や記念館等王道をまわっていただきたく、平和ツアーを組んだ。そのことはまた後日。今年はまず前日の17時に金光教那覇教会に集合、林先生からくわしい説明があった。那覇教会ご信者さんの手作り料理で歓待され、ただでさえ大変なところを恐縮この上ない。

 いよいよ第1日目。朝8時頃、沖縄平和記念公園内に設けられた沖縄遺骨収集本部テントに参加者が三々五々集まってくる。総勢90名が6個班と機動班、お清め班に分かれる。私たちは1班に配属された。

 そして、わが1班は6班の沖縄班と合同で「摩文仁の丘」海側岸壁のジャングルへと向かった。〈写真左〉は平和の礎(いしじ)から西方面を見ているが、私たちはそこからちょうど逆側の東側に向かって入っていった。

 岩質の専門用語はわからないが、岩盤の上を進む。断崖から崩れ落ちてきた石がごろごろと転がっている。動くがどうか慎重に確かめ、つまずかないように歩く。道なき、道を進むため、普通なら10分程度で行けるところを3、40分歩いて行く。

 私たちは平和記念公園、国立戦没者墓苑内にある愛知県「愛国知祖之塔」の海側断崖の下に回り込み、腰を落ち着けての土掘り作業に没頭した。(写真右)ではすでにゴミの姿はないが、土の上に大量のゴミが捨てられており、その上を雑草、木々が覆い茂っている。

 まずは、伐採作業で木々を取り除き、次にゴミを下へ下へと交わしていく。もう4、50年前の見たこともないような瓶や缶も多く捨てられている。もちろん各年代、新しいつい最近のゴミをある。

 次に土面が現れたら、それをスコップや鍬で掘り起こし、60年前の地表までと掘る。といってもどこまで掘れば60年前かはわからないし、土が硬くてとてもとても50センチ程度掘るのが精一杯であった。(つづく)

第35回 沖縄遺骨収集奉仕参加 1 2008年2月

 2008年沖縄遺骨収集奉仕活動、このたびも3泊4日の行程ケガ過ちなく無事、御礼。東京からのわがグループは女性2人を含む総勢6人、うち4人が初参加であった。今回は「SEIJYO観光」の紹介でさらに安いツアーにもかかわらず、後述するがホテル・レンタカーにも恵まれ、ありがたいことであった。
 
 天候も那覇教会長林先生をして「奇跡」と言わせたほど、ずっと雨や曇りが続いていたお天気、当日見事に晴れ渡るおかげを蒙った。そして今年もアメリカの方を含む総勢90が参加。ここでもリンクさせていただいている中澤修平氏のホームページを見て参加された女性の方2人。

 さらに地元マスコミの方の個人的な参加等々、教外者の方も20人以上。大戦後60数年を過ぎてもなおこの活動に新しい方々、また一般の方々の参加を得ていること、誠にありがたいかぎりである。

 今回の活動模様は、<A href=””http://konkokyo.main.jp/tsujii/2008ryukyushinbun.htm””target=_blank>2月17日付『琉球新報』</a>、<A href=””http://konkokyo.main.jp/tsujii/2008okinawataimusu.htm””target=_blank>2月18日付『沖縄タイムス』</a>に書かれているが、完全ご遺骨3柱、大腿骨2本、数多くのご遺骨、遺品が収集された。今回も体験記をしばらく連載したい。