最後の第43回沖縄遺骨収集に参加

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 去る2月20日、21日と糸満市摩文仁で第43回沖縄遺骨収集が開催され、今回金光教としての遺骨収集がいよいよ最後となるところから、全国各地から160人強の参加があった。東京からの私のグループとしてもACTや学生会、寮生、最高齢は77歳の信奉者も加わり、これまで最高の15人が参加した。

 私の初めての参加は、思えば今から13年前の2003年、センター主催の3年にわたり取り組んだ「平和協議会」反省会で、メンバーであった林那覇教会長のご令嬢寺本公子氏に、「辻井先生は色々と言うけれども結局『机上の空論』よ!」というきついお言葉に、一週間後に迫っていた沖縄遺骨収集に那覇教会に宿泊のお世話になって、急遽参加したことに始まった。

 そういえば私の考えを常に発信するために一般新聞への投稿や、国会への行動、この『つっさんの心の旅』のブログを作成することもここで約束させられたのだった。

 初めて参加した前日の夜、林先生から沖縄戦や遺骨収集のこれまでのことをたっぷりと聞かせて頂いた。そして迎えた当日、あるガマの上で1人になったとき、前の日に沖縄では御霊様が黒アゲハ蝶に宿って戻ってくると聞いていたその黒アゲハ蝶が一匹現れ、ご遺骨のおいてある白布の上と私の目の前数メートルの間を三度もまわって飛んできた。

 軍刀や手榴弾と共に化粧品や鏡が出てきたこのガマの中で亡くなられた方々は、その時何を思い、何を考えていたのだろうか。そして今もし私たちに語りかけるとしたら何が言いたいだろうかと考えていた。その時に現れた黒アゲハ蝶、これは何か私に言いたいのだと。そしてその御霊様から「もう人と人が殺し合うのはやめてくれ」と、その声なき声を確かに聞いた思いがした。その一月後にイラク戦争が勃発した。

 二日目、摩文仁の丘から崖下を歩いていると、立木にスーパーの白いビニール袋がぶらさがっている。中を見ると何と真っ白な頭骨が。わーと驚いた声に先頭で捜索し、このビニール袋を木にかけた元自衛隊員の島袋さんが戻ってきてくれた。「これはどこから見つかったんですか」と問うと、崖の上の方を指さして、「あそこに引っかかっていたんだよ」と。

 私はもう何ともいえない衝撃を受けた。え、引っかかってた? 60年も? 台風も何度も来ただろうに。どれだけの風雨にさらされてきたか。俄に信じがたくしばらく悄然としていた。この2つの経験で沖縄遺骨収集が今日までの私のひとつのライフワークとなり、ほぼ毎年参加してきた。

 途中からは、これは私1人の参加では勿体ないと積極的に若者たちに呼びかけ、参加した人がまた衝撃を受けて他に伝え、ありがたいことに年々参加者が増えてくれた。その間、何度も黒アゲハ蝶のお導きによりご遺骨を発見。ここ数年わが1班(関東組)は完全一体に近いご遺骨を発見させて頂いた。

 いよいよ最後となった今回も、その二日目のいよいよ最後の午後2時過ぎ、3時からの慰霊祭に間に合うようにと集合をかけたあとに、わが班の優秀な女性陣が発見、完全一体に近いご遺骨が収集された。わが女性陣たちは小さい体で小回りがきき、どんな小さい穴でも入っていって本当に根気よく探してくれる。

 何とこの方たちは、その数十分前にいるはずのない女性の声を聞いている(1班は各班の一番最先端のエリアを担当しており、時間的にもまわりに他の班の方は絶対にいない状況)。いよいよ最後の最後、見つけてほしいと御霊様が呼んだのではないかと思う。最後の最後に見つけることができ、この御霊様も喜んでおられると確信する。

 十数年の活動であったが、前日、後日の二日間、戦跡等をめぐり戦争の悲惨さと平和の大切さを学んだ。沖縄戦最初の激戦地嘉数高台公園から普天間基地、嘉手納基地、対馬丸記念館、ひめゆり平和祈念資料館、白梅の塔、白梅学徒看護隊自決の壕、第24師団歩兵32連隊終焉の地、糸数アブチラガマ、沖縄陸軍病院20号壕、南風原文化センター、旧海軍司令部壕など、これでもかという程の箇所をまわった。
 
 この沖縄遺骨収集参加の意義は次の3つに集約できる。そしてこの間参加してくれた若者たちは本当に貴重な体験、経験を積ませて頂き、お育て頂いた。

 林先生はじめ那覇教会ご信徒の方々、事前捜索から準備まで携わって頂いた中澤修平さんはじめ教外者の皆様、関係者の皆様の並々ならぬご苦労の上に43回も続いてきたと拝察申し上げる。深く、深く感謝申し上げたい。誠にありがとうございました。

沖縄遺骨収集参加の意義
1 本や映像、話を聞いて知るだけではなく、実際の現場に立って体感し、できるだけ本質に迫る。
2 犠牲になられた方々がその瞬間何を思われていたか、もし今私たちに語りかけてくれるとすれば、何を語られるか、その声なき声、魂の叫びを聞かせていただく。
3 そこから教訓を引き出し、周囲や次世代に伝えていく。

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第42回沖縄遺骨収集に参加 3

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16時から、金光教那覇教会長林雅信先生ご祭主のもと、沖縄戦没者慰霊祭が仕えられ、各代表が玉串を奉奠した。

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学生会の皆さんも各地から参加してくれました。

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今年も第二日の朝、富盛の大獅子に行きました。かつて米海兵隊がここから追い込んで行ったことを思うと今の平和のありがたさが身に染みます。

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最終日の夜は今年も那覇教会Hさんの名司会で懇親会。皆さんそれぞれ感じたことを披露しました。

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今年もわがグループは第一日と第四日には平和学習戦跡めぐりを行った。初参加者が大勢だったため全く昨年と同じ行程を車4台でまわったが、レンタカーのナビが古いものであったため、かなり迷ってしまった。昨年は完璧、しかし油断は禁物であった。
で、まずは普天間基地を見下ろせる、沖縄戦最初の激戦地の嘉数高地に。今も残るトーチカ。

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次に対馬丸記念館と慰霊碑に。現在の子どもたちが1人が1人に、当時犠牲になった子たちの気持ちになってメッセージを書いて壁一面の対馬丸の絵に貼っていた。何人かのメッセージを読むだけで涙が溢れてきた。

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次にひめゆりの塔の隣にある陸軍病院第三外科壕で拝礼。ここはいつ来ても異様な雰囲気である。そのすぐ近くにある林先生が慰霊祭を使えたことがある赤心の塔。そこから車で10分のところにある白梅学徒隊慰霊塔に参拝。すぐ近くに第32連隊終焉の場所、ここで軍旗を燃やしたとの碑が建っていた。

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 次に南城市にある糸数アブラチガマ南風原町にある南風原沖縄陸軍病院跡、20号壕を見学。映画『ひめゆりの塔』で詳細に描かれた場所だ。当時の学徒隊が水を運んだ飯あげの道を歩く。南風原文化センター資料館見学。豊見城旧海軍司令部壕に建つ慰霊塔に参拝。全日程を終えた。 

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 唯一観光的な光景、奥武島の海を満喫。近くの名物もずく料理を堪能。ツバメ食堂など沖縄料理を美味しく頂いた。

 かなりの強行日程の中、若干アクシデントもあったが、皆さんよくお役に立つことができ、充実した4日間となった。大感謝。

第42回沖縄遺骨収集に参加 2

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昨日書いた軍服のボタン。

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 第二日も昨日と同じ範囲の捜索。先発隊の皆様が、進路全てに目印としてロープを張ってくれているので間違わずに安心して進める。

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 途中の分岐点で全機動のNさんが進路について詳しく説明をしてくれる。私たちはここからさらに西側ライン海側に回り込む。進路ロープの最後の分岐点あたりに弁当を置き、1班の拠点とした。1班Cグループは、昨日の完全御一体が出た場所のすぐ近くに見つかったご遺骨を引き続き収集し、またその周辺を捜索してもらった。

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 ABグループは、拠点からさらに海側に進む。私のAグループは途中自然の洞窟を集中的に捜索、取りこぼしの骨片を数点収集した。お昼は拠点付近に集まりお弁当を広げる。どうも背中がむずむずする。

 実は昨日お弁当を食べていたその下からご遺骨を発見、Cグループが引き続き今日も収集して頂いている。

 何か感じるものがあり、午後からわがAグループは、そのお弁当を食べた真後ろの崖下を伐採捜索。B班の方には、そこから反対海側に少し降りたところの大岩を指定し、集中的にその付近を捜索してもらった。あまり動き回らない作戦だ。

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  1時間がんばったが全く出てくる気配もない。娘とHちゃんはしりとりをはじめる始末。娘に「掘ったところに寝てみて、逃げ回っていた方たちの気持ちになってみろ」と気合いを入れる。時計を見ると3時をまわった。第二日は4時から慰霊祭が仕えられる関係で早く終わらなければならない。

 もう一踏ん張りと掘り始めたら、木片が出てきた。娘たちがご遺骨かもと言うが、木だろうと。すると娘がもう一つ大きな大腿骨らしきものを掘り出した。その時点でもまだ確信が持てない。一応置いておこうと言っていたちょうどその時、何と第1回目から参加しているIさんが偶然にも現れた。

 聞いてみるとすかさず「ご遺骨だ」と。きゃーという感じである。慌ててみんなで一生懸命掘り始める。3班の方たちも応援に来た。昨年も肩胛骨を馬の骨と間違えそうになった。二年連続、面目ない。私の頼りなさにIさんを差し向けて頂いたに違いない。

 驚くことにBグループに指示していたところから、まさに同時刻頃にご遺骨が見つかり、続々と出てきているとのこと。毎年のことであるが、最終日のそろそろ終わらなければと時間が迫ったときに見つかるのだ。今年は特に御霊様が呼んでいるとしかいいようのないくらい。ABC3グループに分けた、その3カ所全てでご遺骨を発見。それも相当数の御骨を収集させて頂いた。

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第42回沖縄遺骨収集に参加 1

 大戦後70年となる第42回金光教沖縄遺骨収集にわがグループは、東京学生寮から6人、青年教師、ACT会員、また女子高校生の参加も得て、総勢12人が参加した。内初参加者が5人、久々の参加が2人いたところから、まず最初に那覇教会に参拝、その後の戦跡めぐりなど昨年と全く同じ行程となった。

 ただ、本年の日程が中国の旧正月と重なり、また円安の影響もあってか、中国、台湾からの観光客が押し寄せているとのことで宿が取れず、1月月末までホテルが決まらず、かなりやきもきした一月となった。

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 遺骨収集第一日、今年は大戦後70年という節の年もあってか、130人近くの参加者が集った。そのうち40人近くが一般から参加とのこと。ありがたいことである。そのようなことでいつもは10人前後のわが一班も何と今年は20人の班構成となった。

 班長である私一人ではどうにも把握できがたい。一昨年だったか、午後から終了時間いっぱい迷子になった方もいた。そこで、ここのところ毎回参加してくれているB氏を副班長に任命。一般からの参加で起動班のベテランKさんの3人をトップに班内をABCの3グループに分けさせて頂いた。

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 わが一班は、先に事前調査で入って頂いたN さんたちが発見したご遺骨の収集に向かった。本部から密林の中を歩いて約40分で現場に到着。端から仰天させられた。平らな岩の上に大腿骨や骨片がむき出しになっていたのだ。おそらくここに倒れたまま亡くなったのであろう。

 足から反対方向の頭の付近には頭骨は見当たらない。しかし、岩下にあるとの確信し、大石、小石を取り除き下の土を掘って頂くと、作業を始めて30分くらいで頭骨が発見され、その周囲から続々と各箇所のご遺骨が収集されていった。

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 遺骨収集担当の公園管理者の方も見えられ、崖上からの飛び降りや海から打ち上げられた可能性を調べる。数年前に私が第二発見者として遭遇した自死者遺体のように、その可能性もなきにしもあらずからである。

 その場所から上を見上げると4、5メートルある巨岩がそそり立っている。しかし、どうがんばっても登ることはできない。下の海岸線からもかなり上の方に位置し、流れ着くとことも考えられない。

 約1時間ほど経た頃か、緑のボタンが発見された。ベテランのNさんによると陸軍の軍服のボタンは緑色だとのこと。これでこのご遺骨は軍人さんで間違いないとのことであった。ということは、この摩文仁の海岸線の断崖下は他の団体も含めてもう何度も何度も入っているところであり、それにもかかわらず発見されたということは、まだ誰も歩いていなかった場所ということである。もし通ったら絶対に見逃さないであろう。

 何ともこの場所で亡くなられてから70年もの間、雨風に晒されていたということになる。何ともどう表現していいやら、何の言葉も見つからない。ただただ、御霊様の立ち行きを祈るばかりであった。(つづく)

第41回 沖縄遺骨収集に参加 終

 これも必ず立ち寄るところが「富森の大獅子」だ。摩文仁まで後数キロと追い込んできたアメリカ海兵隊の写真が残っている。どのような気持ちで追い込んでいるかを想像してもらうために同じポーズをとってもらったが、恥ずかしがって失敗。

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 さて、今年の平和学習ツアーは質量とも大変充実した内容となり、特に初参加者の方は心身共にきつかったと思う。ただ、夜は沖縄料理や国際通りの散策で沖縄の夜を満喫した。

 昨年第一日は、国際通りの本通りから少し離れたところにある食堂花笠2号店だったが、ここは閉まるのが早い。そこで今年は24時間あいている三笠食堂に入った。ほとんどのお客さんが地元の方。沖縄の家庭料理が美味。

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 宿泊しているホテルは国際通り沿いにある「ホテル国際プラザ」。そこから歩いて10分ほど。東京は大雪だが全く想像もできないほどの陽気だ。明日からが本番ということで、第一日目の夜はコンビニでオリオンビール、泡盛を調達、ホテルで少し乾杯した。

 二日目の夜は、もうこれは毎年恒例の国際通りのど真ん中にある第一牧志公設市場2階にある「ツバメ食堂」。台湾料理系沖縄料理でもうここは超美味。ベテランの遺骨収集参加者で知らない人はいない。年一回しか行かないが、ママさんが覚えていてくれて必ず一品、二品サービスしてくれる。是非皆様も一度。

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 ゴーヤーチャンプル、麩チャンプル、グルクンの揚げ物、海ぶどうなど沖縄定番料理はもちろん、中華風カニ炒め、イカスミそーめん、豆腐よう、そしてヤギの刺身、豚の耳である「ミミガー」ともう一度食べたら忘れられない料理の連続。

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 豆腐ようやヤギ刺しなど苦手といっていた人も、「まあ、ここのを一回食べてみて」と無理矢理食べさせたら、「これいけるかも」とそのおいしさに感動していた。イカスミお姉さんもはまったようである。

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 第三日の夜も恒例となっている林先生ご子息のお店「ヘルシーダイニング キュアハート」での懇親会。韓国からの留学生Tさんも感想を述べた。その後国際通りへ繰り出し、お土産店を散策。あっという間に時間が過ぎていく。

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 だいぶ遅くなって、3年前に息子が来たときに行ったステーキ屋さんに行きたいとのことで行ったがすでにラストオーダー後。そのほか数件回ったがすでに閉店。そこでホテルのすぐ横にある焼き肉店に滑り込みセーフ。もう夜も遅く豪快にとはいかなかったが、ここでのそーめんチャンプルや島豆腐も美味しかった。そしてホテルに帰って仕上げの泡盛で乾杯。沖縄最後の夜を楽しんだ。

 その焼き肉店の壁の絵画にハルト君のご先祖様が描かれていたのには驚いた。不思議な出会いである。(^^;)

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 最終日の那覇空港は東京からの飛行機が飛ばなかったせいかガラガラ。最後のオリオンビールを飲み干し沖縄とお別れ。帰寮するとかまくらができていたのにはビックリであった。

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 その大雪のために第二日から参加予定だったA君が参加できず残念であった。ただ、まだ大学1年生、「来年こそは参加したい」と言ってくれている。またすでに学生会の人や青年教師の方で行きたいと仰ってくれている人がおり、ありがたいことである。

 名鉄観光下請け業者「辻井沖縄ツーリスト」が添乗員付きで全行程手配、案内させて頂きますので、参加されたい方はご連絡下さい。(*^_^*)(おわり) 

第41回 沖縄遺骨収集に参加 6

 そして最後に豊見城(とみぐすく)にある旧海軍司令部壕を見学。ここも自然壕と違って綺麗に整備されていることに驚く。当時は450mあったといわれている。カマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固め、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地で、4000人の兵士が収容されていた。

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 この海軍司令部壕といえば、大田実沖縄根拠地隊司令官が海軍次官に送った最後の電文が有名である。当時沖縄県民のことをほとんど顧みなかった政府、大本営のあり方の中で、「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電した。大田氏は沖縄県知事であった島田叡氏とは「肝胆相照らす」仲であったという。この電文で県民の苦労の姿を県知事に代わって伝えている。

 そして、第32軍司令官牛島満中将が最後に「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と命令したあり方とよく比較される。鉄血勤皇隊や女子看護学徒隊(ひめゆり学徒隊等)らに突然「爾後各個の判断において行動すべし」との内容の解散命令を出し、その多くが戦死または行方不明となったからである。

 県民を慮った大田中将と「悠久の大義に生きろ」つまり「死ね」と命令し、勝手に自決した牛島中将では、当然牛島中将の言動に厳しい見方をしている人が多い。私も一時そう思っていた。県民のことを少しでも考えていればこれほど犠牲者がでなかったであろうと。

 しかし、あの映画『硫黄島からの手紙』で栗林忠通中将が島民の安全を考えて戦闘前に疎開させる配慮を行ったということを知ってハッと気がついたことがある。この時期硫黄島や沖縄に赴任するということはもう百パーセント死ぬということである。島田県知事の前の知事が本土出張を理由に逃げたという話のように軍隊でも実際には上手くすり抜けて生き残った輩もいたという。

 そのような中で「必死」の現場へと赴任する人は、いわゆる徳者ではなかったか。実際牛島中将は陸軍教育畑を歴任した教育者であったし、自身は、政府・軍統帥部の無謀さと戦争の将来に強い懸念を示していたり、日中戦争を早く終結させ、北方の脅威であるソ連の脅威に対し万全の備えを講ずるべきというのが持論で、陸軍内では平和主義者だったと言われている。

 逆にフィリピン戦線において、陸軍初の特別攻撃隊を出撃させたT中将は「決して諸子だけを行かせはせぬ。このTも最後の1機で突っ込む決心である」と訓示していたにもかかわらず、「戦力再建のための後退」といって少ない戦闘機を護衛に付け、何と芸者を乗せて台湾に逃げ、ちゃっかり戦後まで生き延びているのだ。史上最悪の作戦を遂行して大失敗したM中将も生き残っている。
 
 もちろん牛島中将を擁護しているのではない。私たちとしてこれをどう教訓とできるか。つまり現在でも勇ましく威勢のいいことばかり言っている政治家は、いざという時にその責任を本当に果たすのであろうかと疑うのである。甚だ怪しく、信用できない。私たちはそこのところをよくよく見極め、リーダーを選ばなければ、またぞろ最悪の結末へと導かれてしまうのだ。
 
 沖縄遺骨収集からあらぬ方向へといってしまったが、海軍壕を訪れるたびにそのことを強く思うのである。(つづく)

第41回 沖縄遺骨収集に参加 5

 次にこれも昨年同様、沖縄本島南部の南城市糸数にあるアブラチガマといわれる自然洞穴を見学した。全長は270メートル。はじめは日本軍がガマの中に通路や小屋、ポンプ井戸をつくるなど陣地壕として整備した。

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 その後、沖縄陸軍病院の分室が開設され、ひめゆり学徒隊16名を含む病院スタッフが入り、連日運ばれてくる傷病兵の治療・看護をしたそうだ。多いときには地元住民を含め千人以上避難していたそうだ。

 昨年のガイドさんの話も衝撃を受けたが、今年のガイドさんのお話も強烈であった。入り口からやや入ったところに井戸があるのだが、そこからさらに奥の高いところに寝ていた人が約20メートル下のこの井戸に吹き飛ばされ、幸い水があったので生き延びたというお話は想像を絶する凄まじさである。是非現場で実感して頂きたい。

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 そして広いといっても電気も何もない洞窟。いや、周りが見えないからこそまだぎりぎり精神が壊れなかったかという証言もあるそうだ。この世の地獄。途中何度か懐中電灯を消し、当時の状況を想像して黙祷するが涙が止まらなかった。

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 地上に出てきて、ガイドさんにその感想をお話ししたら、当時の体験者の方にお話を聞いて日々勉強しているとのこと。また、「最近の世の中の動きを考えると若者たちにこうして本当の戦争を伝えることは大切で、貴重な機会を得て幸いです」とお礼を申し上げると、そのガイドさんのおじいさんに当たる方がまだご存命で、その方が「現在の状況や雰囲気が、当時の戦争前の状況とよく似ている」と語っているそうだ。

 時間がなくて具体的にどういうことか聞けなかったことを悔やんでいるが、まさか戦争が起こるとは思っていない若手たちはかなり衝撃を受けたようだ。

 続いて、昨年は寄ることができなかった島尻郡南風原(はえばる)町にある沖縄陸軍病院壕跡にいく。数年前に整備された20号壕と呼ばれる壕を見学、その後南風原文化センター内にある展示室を見学した。先のアブラチガマの自然壕と違って人工の壕群。1号から何号まであったのか、総延長2キロもあったそうで、これをツルハシ一本の人海戦術で掘ったという。

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 その後近くにある平和の鐘をつかせてもらい、その両脇には憲法9条碑と予備軍医として陸軍病院に従軍した長田紀春氏の詠まれた歌碑がある。確か映画『ひめゆりの塔』で沖縄陸軍病院か、南部に撤退したのち、後藤久美子氏が取り残された南風原の陸軍病院壕で手術をしているシーンに写っていたように思う。

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 20号壕の見学料をお支払いすると入場券がわりに栞がもらえる。そこに長田氏の歌が書かれている。

「切り落とせし兵の脚をば埋めにゆく 女子学生ら唇噛(くらか)み駆ける」

「腹わたの出(い)でし深傷(ふかきず)手もて押さえ、歩み来し兵倒れ動かず」

これが、本当の戦争である。(つづく)

第41回 沖縄遺骨収集体験記 4

 さて、沖縄4日目となる最終日は、第1日と同様、恒例となった平和学習のための戦跡巡り。今年もまた沖縄入りの前に勉強会を開いてきた。

 今回はいつも見ている上山征二郎監督映画『ひめゆりの塔』とTBSで昨年放送された「終戦 特別企画 報道ドラマ『生きろ ~戦場に残した伝言~』」という当時沖縄県知事であった島田叡氏の活躍と苦悩を描いた二本を鑑賞した。両方とも2時間強の大作、二日に分けて見てきた。

 そこで遺骨収集二日目の慰霊祭の前に、本部テントから少し歩いたところに島田叡氏の慰霊碑があるとのことで参拝させて頂いた。島田叡氏については、私の過去の沖縄遺骨収集体験記に何度か書いてきているのでまた見て頂きたい。

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 さて第4日、今年は韓国からの留学生Tさんが参加している。前日の懇親会の時に林先生から是非摩文仁の平和祈念公園内にある韓国人慰霊碑にお参りするように勧められ、まずは韓国人慰霊碑に参拝した。朝鮮の方々もこの沖縄で多く犠牲になっている。

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 次にひめゆりの塔と祈念資料館を見学。ひめゆり学徒隊とは、1944年12月に沖縄県で日本軍が中心となって行った看護訓練によって作られた女子学徒隊のうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成された部隊で、教師・生徒240名が動員され、内136名が戦死した。

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 次に昨年同様白梅学徒隊の慰霊碑に参拝。白梅学徒隊とは、沖縄戦、従軍看護婦として活躍して犠牲になった女子学徒隊のうち、沖縄県立第二高等女学校の4年生たちによって編成された部隊で、46名中、22名が戦死した。

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 この慰霊碑に参拝後、今年はまだ出会ってなかった黒アゲハ蝶が忽然と現れ、私たちの前を飛んでいき、赤い花の上を舞っていた。初参加の1年生H君がちょっとちょっかいをかけたら、御霊様が宿っていると思っている先輩の女性が「何してんの」と叱り飛ばした。ひめゆりの塔のようにはなかなか人が訪れない場所。御霊様が喜んで出てきてくれたのではと思う。(つづく)

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