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第41回 沖縄遺骨収集に参加 6

 そして最後に豊見城(とみぐすく)にある旧海軍司令部壕を見学。ここも自然壕と違って綺麗に整備されていることに驚く。当時は450mあったといわれている。カマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固め、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地で、4000人の兵士が収容されていた。

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 この海軍司令部壕といえば、大田実沖縄根拠地隊司令官が海軍次官に送った最後の電文が有名である。当時沖縄県民のことをほとんど顧みなかった政府、大本営のあり方の中で、「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電した。大田氏は沖縄県知事であった島田叡氏とは「肝胆相照らす」仲であったという。この電文で県民の苦労の姿を県知事に代わって伝えている。

 そして、第32軍司令官牛島満中将が最後に「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と命令したあり方とよく比較される。鉄血勤皇隊や女子看護学徒隊(ひめゆり学徒隊等)らに突然「爾後各個の判断において行動すべし」との内容の解散命令を出し、その多くが戦死または行方不明となったからである。

 県民を慮った大田中将と「悠久の大義に生きろ」つまり「死ね」と命令し、勝手に自決した牛島中将では、当然牛島中将の言動に厳しい見方をしている人が多い。私も一時そう思っていた。県民のことを少しでも考えていればこれほど犠牲者がでなかったであろうと。

 しかし、あの映画『硫黄島からの手紙』で栗林忠通中将が島民の安全を考えて戦闘前に疎開させる配慮を行ったということを知ってハッと気がついたことがある。この時期硫黄島や沖縄に赴任するということはもう百パーセント死ぬということである。島田県知事の前の知事が本土出張を理由に逃げたという話のように軍隊でも実際には上手くすり抜けて生き残った輩もいたという。

 そのような中で「必死」の現場へと赴任する人は、いわゆる徳者ではなかったか。実際牛島中将は陸軍教育畑を歴任した教育者であったし、自身は、政府・軍統帥部の無謀さと戦争の将来に強い懸念を示していたり、日中戦争を早く終結させ、北方の脅威であるソ連の脅威に対し万全の備えを講ずるべきというのが持論で、陸軍内では平和主義者だったと言われている。

 逆にフィリピン戦線において、陸軍初の特別攻撃隊を出撃させたT中将は「決して諸子だけを行かせはせぬ。このTも最後の1機で突っ込む決心である」と訓示していたにもかかわらず、「戦力再建のための後退」といって少ない戦闘機を護衛に付け、何と芸者を乗せて台湾に逃げ、ちゃっかり戦後まで生き延びているのだ。史上最悪の作戦を遂行して大失敗したM中将も生き残っている。
 
 もちろん牛島中将を擁護しているのではない。私たちとしてこれをどう教訓とできるか。つまり現在でも勇ましく威勢のいいことばかり言っている政治家は、いざという時にその責任を本当に果たすのであろうかと疑うのである。甚だ怪しく、信用できない。私たちはそこのところをよくよく見極め、リーダーを選ばなければ、またぞろ最悪の結末へと導かれてしまうのだ。
 
 沖縄遺骨収集からあらぬ方向へといってしまったが、海軍壕を訪れるたびにそのことを強く思うのである。(つづく)

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