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「ブランコ様、あぁブランコ様、ブランコ様」

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 また、イライラ、イライラ、ストレスの溜まるシーズンを迎えてしまった。(*^_^*) クールなF先生や女房から「勝とうが負けようが別に何の関係もないのにようわからん」とよく言われる。

 自分でもなぜここまで入れ込むのか。勝つと負けるのでは、次の試合があるまでの生活の調子が全然違うのだ。昨日は、「ブランコ様、あーブランコ様、ブランコ様」であった。小金井公園に行ってブランコに乗って何もかも忘れたい気分である。

 悪い予感はしていた。一緒に中日からベイスターズに移ったソト、ソーサ、ブランコの助っ人3人の表情がいいのだ。中日関係者は3人とも故障もちだから活躍しないと分析していた。しかし、そうは甘くないと。そして的中してしまった。よりにもよって開幕からそれも吉見で負けた。(-_-)

 ただ、中日に入った助っ人もよさそうである。残念ながらまだ映像は見ていない。これから所用で出かけねばならず、BS中継を録画で初めて見るのを楽しみにしている。だいぶ戦力ダウンしているのは否めない。その分、智辯和歌山の岡田投手など若手の踏ん張りに期待している。ガンバレ、ドラゴンズ!!(^_^)v。

第40回沖縄遺骨収集奉仕に参加 終

 

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 さて、次に恒例のひめゆりの塔。これは映画『ひめゆりの塔』をみんなで鑑賞してきているのではずせない。写真は沖縄陸軍病院第三外科壕跡。

 

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 ひめゆり資料館は内容が濃いのでみんななかなか出てこない。何度訪れてもその悲惨な実際に言葉もない。

 

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 次に、今年は今までまだいったことのない糸数壕、沖縄では『糸数アブチラガマ』と呼ばれている自然壕にいくことにした。そこで南城市南部観光総合センターに電話を入れると会議中なので12時頃来てほしいとのこと。1時間ほど時間の余裕があったので、「白梅の塔」にいくことにした。ここも初めて訪れる。

 

 

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 白梅学徒隊とは、沖縄戦、従軍看護婦として活躍して犠牲になった女子学徒隊のうち、沖縄県立第二高等女学校の四年生たちによって編成された部隊の名前。46名中、22名が戦死した。

 

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 ちょうどその時、明日から遺骨収集をするという大学生の団体が、白梅学徒隊の生き残りの方のお話を聞いており、私たちも聞かせてもらう。糸数壕のガイドさんをお願いしていたので、残念ながら途中退席したが、若い方たちがこうして体験談を聞くのは本当にありがたいことだと思う。

 

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 糸数壕では残念ながら写真の撮影は禁止だったので、前に紹介した『沖縄慰霊巡拝』や一般のホームページを参考にして頂きたい。写真は受付をしているところ。5年前から戦跡ガイドのグループが立ち上がったとのこと。

 

 

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 アブチラガマは、沖縄本島南部の玉城村糸数にある自然洞穴で、全長は270メートルに及ぶ。はじめは、日本軍(独立混成第44旅団歩兵第15連)がガマの中に通路や小屋、ポンプ井戸をつくるなど陣地壕として整備した。

 その後、沖縄陸軍病院の分室が開設され、ひめゆり学徒隊16名を含む病院スタッフが入り、連日運ばれてくる傷病兵の治療・看護をしたそうだ。

 広いといっても電気も何もない洞窟。この世の地獄と思う。しかし、ガイドさんの話にはさらに衝撃を受けた。まだ軍人やひめゆり学徒隊など壕の中に避難できる人間は恵まれている。

 ここに入れてもらうことすらできない地元の人間が米軍の攻撃になすすべもなく逃げ回り、殺された人々も数多くいたとのこと。言われてみれば確かにそうである。初めて聞く話に絶句。

 

 

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 次に初日曇り空でいくことを断念していた嘉数高台公園を二年ぶりに訪れた。ここの展望台から「普天間基地」を一望できる。あのオスプレイも羽を休めていた。みんな建物の近さに驚く。

 

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 この嘉数高台は米軍が上陸し始めた日本軍が迎え撃った激戦の場所である。この高地は、第二時大戦中に作戦名称第七〇高地と命名され、第六十二師団独立混成旅団の約千人の将兵と約千人の防衛隊で編成されていた。自然の要塞の上に堅固な陣地構築がなされたため十六日間も一進一退の激戦が続いたという。

 

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 そのため、『嘉数の塔』という慰霊碑が建立されている。その近くに破壊されたトーチカがそのまま残っている。

 

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 京都出身の方が多かったのであろう、京都の塔がここに建立されている。

 

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 最後にみんなで再び那覇教会に御礼の参拝。今年もあっという間の4日間であったが、万事にご都合お繰り合わせを頂いた。それぞれの胸の中に何かしらの期する思いを抱きつつ、林先生がいつも仰る「沖縄が助かる」ことに少しでもお役に立たせたことの喜びを感じつつ帰路についた。

誠にありがとうございました。(おわり)

 

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第40回沖縄遺骨収集奉仕に参加 8

 第3日の夜は、恒例の林先生のご子息がお店を出している「ヘルシーダイニング キュアハート」で懇親会。これも恒例の那覇教会宴会部長の軽妙な司会で進められ、多くの人から参加の喜びが語られ、わがグループの若手も全員感想を述べた。

 終盤には歌あり、カチャーシーあり、四国のベテラン先生の阿波踊りもあり、涙と感動の中に来年の再会を誓い合った。残念ながらカメラを忘れてしまった。

 その後国際通りに繰り出し、皆さん思い思いに買い物。那覇の夜を満喫した。

 さて、私たちにとっての最終日。那覇フライトは夜8時なので時間はたっぷりある。まずは「冨盛の大獅子」に寄った。下の写真のように沖縄戦終盤米海兵隊がいよいよ最南端の摩文仁に追い込んで来て、前方を双眼鏡で視察している。

 

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 現在が下の写真。「弾痕もそのまま残っているでしょう」と写真を見せながら解説。

 

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 海兵隊が見ている方向が下の写真と説明。もう数キロで最南端の海だ。

 

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 私たちのグループの皆さん。(つづく)

 

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第40回沖縄遺骨収集奉仕に参加 7

 このゴミ収集活動に参加していた沖縄市民の老夫婦の方と休憩の時に少し会話をした。ご主人がちょうどこの摩文仁に逃げてこられ、激戦を経験されたとのこと。地元の言葉で淡々とお話しされるが、その時を想像するとどれだけ恐かったことかと思う。

 当時小学生で逃げ回り、最後は父親と2人となった。その時に父親が自死しようとして手榴弾を使おうとしたが不良品で不発、それで現在までいのちを頂いたと。その場所からきれいな海が見えるが、真っ黒な米軍の艦船で見える範囲は船だらけだったそうだ。

 艦砲射撃は激しく、現在残っている写真のように全くのはげ山状態になったとのこと。休憩時間は短く、またお話の内容に圧倒されて聞き入るばかりであった。今になって思えばもっといろいろと聞いておけばよかったと思う。

 ゴミの収集作業は正午に終了。各々解散となった。私たちは元の「風部隊慰霊塔」前で昼食をとった。その前をブルーヘルメットの天理教隊が後片付けのために黙々と道具を運んでいる。今度私たちは参加できるかどうかわからないが、摩文仁の霊場が一日も早く浄められるよう願っている。

 午後からは一緒に昼食をとった大ベテランの濱出さんが、この階段の反対側を一度10年前くらいに捜索し、10メートルもいかないところで完全一体のご遺骨を発見されたそうだ。お参りや観光客の方が通る階段からあまりの近さに驚いたそうだが、案外そうしたところにある可能性も大きいという。

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 そこで、風部隊慰霊碑とは反対側の今やジャングル化している山林に分け入った。しかし、木々が生い茂り、数メートル進むにも草木を伐採しながらの作業となる。午後一杯ここ周辺一帯をくまなく見て回ったが、やはりここにはおられないようであった。

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 本部テントで午後4時から林先生ご祭主のもとに慰霊祭が厳粛に執り行われ、第40回の沖縄遺骨収集奉仕を終えた。第5班の方々が完全一体と、それぞれの班が部分遺骨を収集された。「摩文仁」のことを調べようとして偶然見つけた『沖縄慰霊巡拝』というホームページにその写真が掲載されている。

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 最近、林先生がよく言われることに、「以前はご遺骨に出会わなければみな気分が落ち込んで、下を向いて疲れた様子で戻ってきていた。しかし、このことが近年変わってきた。見つからなくてもみんな元気で帰って来る。これは、ご遺骨に出会う、出会わないにかかわらず、御霊様の安心を祈り、お土地が清められていくこと、すなわち天地の復興を祈りながら歩かせて頂く、という思いであろうと思う」と。

 発見されることはありがたいことである。また発見されずとも、それは残されたご遺骨がだんだんに少なくなってきている証左であり、これもまた一番ありがたいことなのだ。何よりもありがたいことと大切なことは、この体験を通して御霊様と出会い、御霊様の声を聞くことができる、少なくともここで実際にあった出来事、筆舌尽くしがたい悲惨な現実があったことを体感できること。そしてそれをまわりの人や後世に伝えていくこと。

 戦争を体験せずとも戦争は語ることはできるのだ。歴史に教訓を得るために歴史に学ぶことは、ただの文字面の学習だけではない。その実際に起きた現実の場所に身を置き、呼吸する。できるだけ当事者として近づく。そこでは今の現実とのギャップに苦しむであろうし、悩むであろう。その呻吟せざるを得ないところに身をおくことがこの沖縄遺骨収集奉仕への参加の意義だと思う。だからこその最終日の戦跡巡りもある。(つづく)

第40回沖縄遺骨収集奉仕に参加 6

 沖縄2日目の夕食は、恒例の牧志公設市場の2階にあるツバメ食堂。中華系沖縄人の料理で実に美味。ここは30数年沖縄遺骨収集に来ている大ベテランのお墨付き。連れてくる人連れてくる人感動する味なのだ。いつもホテルに一回戻って行くためにカメラを忘れる。

 1年に1回しか行かないが、店を切り盛りしているママさんとも顔見知りになり、上機嫌で迎えてくれる。大人気の店なので予約していても空いてないことが。今回も少し待ったが、これでいろいろとサービスしてくれるからまたありがたい。大阪組もいつも来ていると話をしていたら、いつの間にかとなりの席で食べており、ご挨拶する。

 さて、作業日第2日、朝今度は別のコンビニを探しながら摩文仁に向かう。ちょうどコンビニのトラックが停車しているのを発見し、恐らく今弁当を搬入したのではと思い、そこに立ち寄る。案の定多くの商品が積まれていた。いろいろ悩んだ末、結局昨日と同じ冷やし中華に目が行く。よく見ると沖縄限定と書いてあった。だからか、何か違うと感じたのも正解だったのだ。美味しいチャーシューもタレも沖縄特有のものだそう。2日連続同じものを購入した。

 2日目の作業は、午前中は沖縄県の宗教関係者や民間ボランティア、糸満市の職員等100人が参加したゴミの撤去作業に従事した。これは数十年前に私たち沖縄遺骨収集団が発見し、金光新聞の1面にも出たことがあるが、自分たちだけで手作業でゴミを片付け始めたのがはじめだ。

 そのゴミの下からご遺骨が発見された。何とも言いようがなかった。悪臭を放つグチャグチャのゴミの下にご遺骨が眠っていた、いや眠ることなどできないような状態の中に放置されていた。あまりの酷さに強い憤りを覚えた。悲しすぎるのである。

 そこから林先生の呼びかけで、まずは沖縄の宗教者の皆さまが立ち上がり、市民が動き、市も動き、6年前から開催されてきている。今年はどうしても本教の沖縄遺骨収集日と重なるということで前もって募集があり、私たち8人は予め参加すると伝えてあった。

 当日朝、他の一般参加の方もゴミ収集に参加くださり、また、機動班のKさんは自分ひとりだけ参加するものと思い込んでいたようで、「1班全員参加します」と言うと、目を丸くして驚かれ、喜ばれた。

 昨年9月にご縁を頂いて、林先生に寮で遺骨収集とこのゴミ問題についてDVDを見ながらお話をいただいており、寮生たちもその意をくみ取り積極的に参加してくれた。遺骨収集団全体では20数名がゴミ収集作業にあたった。

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 作業の中心になっているのはブルーヘルメットの天理教さん。前の日から色んな道具を作業現場まで運んでいる。ゴミ現場の断崖の下から各種慰霊塔につながる石階段まで上げる重機も手作業で運んでいる。

 

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 投棄場所は、生い茂った草木をかき分けて足場の悪い斜面6~7メートル下りた崖下。大量の空き瓶や空き缶のほかに腐食したビニールや弁当箱で埋め尽くされている。想像を絶する量だ。そこから引き上げる一本の重機以外は手作業で回収する。

 引き上げたゴミはある程度種類別にわけ、ゴミ収集車が待つ駐車場まで約200メートルの石階段の坂道に老若男女のボランティアが列を作り、バケツリレー。80歳を越えたご老人や子どもも一生懸命。さすが沖縄のご老人は本当に元気だ。

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 半日の作業で何と3トンのゴミを回収。しかし、6年前から作業している方によるとまだまだ何年、何十年もかかる量があるとのこと。是非とも県に動いてほしいと申請しているが山林は市の管轄と動いてくれないらしい。

 

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 摩文仁(まぶに)は、霊域であり平和の象徴の場である。林先生はいつも「摩文仁の語源はマブイで魂の意味がある」と仰います。その魂がゴミに覆われ穢されているのです。「これを放っておいて基地問題も何も解決しない、沖縄の真の助かりがない」と仰います。その通りだと思います。(つづく)

第40回沖縄遺骨収集奉仕に参加 5

 1班の持ち場に戻ったが、すでにみんなは昼食をすませ、山の中に入っている。コンビニで買った冷やし中華と明太子のおにぎりをいただく。外見は普通の冷やし中華だが、のっているチャーシューやタレがいつもと違い美味しい。その時は早く食べなければとあせっていたので、そのまま忘れてしまったが、そのことについてはまた後ほど。

 

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 みんなを捜しに山の中に分けはいる。女性二人はわりかし近い場所で一生懸命作業をしている。だんだん奥に入ったところに数人、断崖の向こう側に出てほぼ1班のメンバーを確認したつもりでいた。ひとり一般からの参加者のSさんはいなかったが、この方は中澤さんらと共にもう数日前から入っているとのことで心配はない。

 そのまま作業を続けてた。4時に集合をかけているので、3時30分頃元の場所に戻ろうとする。そこに土居智先生が来て、2時頃田中信道先生から「海が見える崖の上に出た」とのメールが入っているという。

 

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 そこで初めて田中先生だけを確認していないことに気がついた。メールの内容からすれば迷っているとも思われないので、そのまま集合場所まで戻り、押っつけ帰ってくるだろうと待っていた。

 ところが3時45分になっても帰って来ない。ここで土居君にもう一度山に入ってもらい集合をかける。だんだんにみんな戻ってくるが田中先生の姿はない。この時点で遭難したことに気がつき、男性陣をグループに分け捜索に出た。

 程なく大きな声で「帰ってきた」と聞こえた気がした。あわてて引き返すが、道なき道を行っているのですぐには戻れない。なかなか前に進めずもどかしい。何度もこけそうになる。自分がケガをしてしまったらこれまた大迷惑をかけてしまう。

 

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 ようやっと戻ってきたら、興奮した田中信道先生が帰っていた。ひとまずは安心。完全に迷っていたそうで、「冷静に冷静」と言い聞かせて彷徨っていたらしい。1班から5班まで相当広い面積のところを捜索しているのだが、1班からは一番遠い5班がいたところに出たらしい。それはもう何時間も彷徨うのは無理もない。

 

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 数年前にN先生が崖から落ちて鎖骨を折る事故があった。海側断崖の下にでも落ちていたらどうしようと気が気でなかった。奥様の顔まで浮かんできた。最悪はケガをして動けなくなってしまうこと。そうでなかったので本当に安堵した。(つづく)

第40回沖縄遺骨収集奉仕に参加 4

 いよいよ遺骨収集一日目。見事な晴天。いつもながらのおかげをいただく。7時に朝食、7時30分ホテル出発、途中コンビニに寄り昼食弁当を購入する。これもゴーヤー弁当などなど沖縄しかないものがある。残念ながらこの日はゴーヤー弁当がなかった。残念。

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 沖縄県平和祈念公園の一角に設けられた本部テント前に集合する。懐かしい顔が続々と集まり、1年ぶりの再会に喜びの挨拶を交わす。何と今回は100人超えて、全国から104人もの方が集まった。

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 私はここのところ定着している1班の班長。今年の1班は、わがグループ8人と常連群馬県の土居先生兄弟、一般参加者の2名、そして機動班の大ベテランKさんの13名だ。班事に整列し、林先生先唱御祈念、ご挨拶をいただく。

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 その後班長が集められ、この時に初めて捜索場所が指定される。今回も昨年に引き続き摩文仁の丘の西端にある健児の塔から各班入るようだ。1班はその一番手前の「風部隊慰霊碑(中央航空路部隊〈風18918部隊〉、第五野戦航空修理廠第一分廠等)」から山になっているところに入る。一番上が断崖になっており、その向こう側を重点的にとの指示。

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 わが1班はいつも初参加者が多く、今年も5名いる。注意事項を聞いてもらい、みんなで記念写真。そして健児の塔付近まで歩いて移動、まずは、かつてお世話になっていたおみやげさん後のひろばで全員濱出先生から説明を聞く。その後5班までの各班が所定の位置へと移動する。

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 1班はそこからすぐのところ。早速にそれぞれ思い思いに山の中に分けはいる。この辺はもう何度も入っての場所なので、あまり動き回らず、一箇所場所を決めたら、丁寧に掘り起こして取り残しがないか探るのが重点的な作業となる。

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 程なくして、一般から初めての参加者の方が骨片を見つけられた。薄いさじのようなご遺骨でその方がその骨の名称を言われたのだが、今思い出せない。かなり医学的専門用語のような名前であったが、後から聞くとその方は何とお医者さんだそうで、なるほど詳しいはずだと感心した。

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 その後すぐにこれもまた初参加者の板東さんが細骨を数点収集された。昨年のわが娘や一昨年の吉永君もそうであったが、初参加者の方が結構すぐに発見する。午後近くなって、私の名前を呼ぶ声が聞こえる。よく聞くと全体機動班の中澤さんの声のようにも聞こえる。

 返事を返すのだが、声が小さいからか返答はない。10分ほど経て同班のもう1人の一般の参加者の方がやはり中澤さんが私を呼んでいると知らせてくれた。この方はもう何度か経験されていて、数日前から入って中澤さんと共に捜索して下さっている方である。

 ようよう下に降りていくと、どうも緊急事態のようである。確か大阪の高橋さんが私にパソコンを見せ、「このご遺骨は確か一昨年1班が収集したものですね」と聞いてこられた。確かにそれは一昨年寮生の吉永君が発見した立派な大腿骨二本だ。このご遺骨の収集場所を特定してほしいと県の職員の方と警察官2名が同行を求めているとのことであった。

 残念ながら吉永君は仕事で今年は参加していない。そこで私に行ってもらいたいとのこと。もちろん場所は覚えているが、断崖を降りて、その途中からはうる覚えでしかない。中澤さん、高橋さんも同行してくれるとのことで6人現場に向かうことになった。

 一昨年の捜索場所は、摩文仁から東の具志頭方向に結構離れた断崖の下。県の方の車で送ってもらう。その後に警察の車が着いてくる。公園墓地がある敷地内から断崖を降りていくが、2年経ているだけで木々は生い茂り、所々一昨年あった道はなくなっている。

 中澤さんが1番、私が2番、その後県の方、警察官2人、高橋さんの順で行くので、必死でついていく。自分のペースよりはかなり早いのだが手が抜けない。汗でだくだくになる。

 発見された場所は、下に降りきった海辺近くの大岩である。断崖を降りて今度は山道を歩いていく。そろそろ海岸に降りるのではと思うのだが違う。かなり記憶が曖昧だ。さすがに先頭の中澤さんは歴戦の勇士。ほとんど的確に覚えており誘導してくれた。

 パソコンの中にあった写真と全く同じ景色が現れた。すると年輩の警察官の方が「おうー」と叫んだ。何だ!と驚いたが、何と沖縄本島では絶滅したと言われる植物が海岸の岩に生息していたからだ。確か梅がつく名前だったが忘れてしまった。盆栽などに使われるそうだ。

 若い警察官の方が入念に現場写真を撮影し終わった。そして今度は帰りが大変。下ってきたところを今度は登る。元いた1班の作業現場に戻ると昼はとっくに過ぎた2時前であった。(つづく)

第40回沖縄遺骨収集奉仕に参加 3 

 対馬丸記念館見学の後、ホテルにチェックイン。昨年と同じホテル国際プラザであったが、前日にお電話をいただき、朝食は姉妹店である那覇グランドホテルになるので、毎回移動するか、グランドホテルの方も部屋があいてるとのことで、それでは最初から隣接する那覇グランドホテルにしてもらった。

 国際通りからはやや奥に入るが、その方が静かでいい。国際通りに面しているホテルでは部屋によっては夜中や早朝、結構外の声でうるさいのだ。駐車場もちょうどプラザホテルとの間にあって近い。部屋はそれほど広くないが十分である。地理的に申し分ない。

 夕食はネットで調べていたほとんど地元の人しか行かないという食堂花笠1号店。歩いて10分もかからないところにあるが、時間的にどうかなぁと行ってみたら、案の定シャッターが半分降りていて、ご主人と思われる年配の男性が立ってテレビを見ていた。入っていける雰囲気ではない。

 実はその先5分くらいのところに、食堂花笠2号店というのがあり、そっちに行ってみることにした。裏側から入ったのか、勝手口のようなところから入ろうとして間違い、表に回る。ここも終わりかけのようだったが、快く迎えてくれた。

 ご飯物はもうないとのことで、沖縄料理定番のゴーヤーチャンプルや麩チャンプル、沖縄そば、ソーキそば等々を注文する。飲み物はやはりオリオンビール。これがすこぶるうまい。そして麩チャンプルを一口、思わず唸った。よし、よしである。

 その姿に沖縄初体験のものも、一口食べてうなずいている。これで決まり、完全に沖縄にはまったと確信した。ゴーヤーチャンプルは、ゴーヤーの味がすぐるので、まあだいたいは美味しい。麩チャンプル、まずこの麩が沖縄独特の沖縄しかない麩なのでまずは驚く。そして味がよくしみこむので、その店、店、家庭、家庭で微妙に味が違うのだ。これがもう楽しみ。花笠2号店も最高に美味。しばらくして勢い当然泡盛となった。

 そして最後にアイスティーをサービスで頂いた。私もよく知らなかったがコンビニに「花笠食堂アイスティー」というのが売っている。それは牧志にある有名な「花笠食堂」のことらしい。その花笠食堂と、ここの食堂花笠1号店・2号店が関係あるのかないのかは定かではない。

 ごちそうさまの後、国際通りを帰宅中、そのコンビニに寄った。コンビニでの買い物もまた楽しい。東京にはない色んな沖縄特有のものが売っている。Vさんが「ここは俺のおごりだ」と宣言。みんなVさんのかごに好きなものを入れる。

 ホテルに帰り、Vさんの部屋に集合。まだ遺骨収集が始まる前というのに、みんな日頃の鬱憤をはき出し、ミミガーなどをつまみに何と夜中12時を越えて1時近くまで盛り上がってしまった。(つづく)

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