Home > 3月 18th, 2013

第40回沖縄遺骨収集奉仕に参加 7

 このゴミ収集活動に参加していた沖縄市民の老夫婦の方と休憩の時に少し会話をした。ご主人がちょうどこの摩文仁に逃げてこられ、激戦を経験されたとのこと。地元の言葉で淡々とお話しされるが、その時を想像するとどれだけ恐かったことかと思う。

 当時小学生で逃げ回り、最後は父親と2人となった。その時に父親が自死しようとして手榴弾を使おうとしたが不良品で不発、それで現在までいのちを頂いたと。その場所からきれいな海が見えるが、真っ黒な米軍の艦船で見える範囲は船だらけだったそうだ。

 艦砲射撃は激しく、現在残っている写真のように全くのはげ山状態になったとのこと。休憩時間は短く、またお話の内容に圧倒されて聞き入るばかりであった。今になって思えばもっといろいろと聞いておけばよかったと思う。

 ゴミの収集作業は正午に終了。各々解散となった。私たちは元の「風部隊慰霊塔」前で昼食をとった。その前をブルーヘルメットの天理教隊が後片付けのために黙々と道具を運んでいる。今度私たちは参加できるかどうかわからないが、摩文仁の霊場が一日も早く浄められるよう願っている。

 午後からは一緒に昼食をとった大ベテランの濱出さんが、この階段の反対側を一度10年前くらいに捜索し、10メートルもいかないところで完全一体のご遺骨を発見されたそうだ。お参りや観光客の方が通る階段からあまりの近さに驚いたそうだが、案外そうしたところにある可能性も大きいという。

_MG_9841 (640x427)

 そこで、風部隊慰霊碑とは反対側の今やジャングル化している山林に分け入った。しかし、木々が生い茂り、数メートル進むにも草木を伐採しながらの作業となる。午後一杯ここ周辺一帯をくまなく見て回ったが、やはりここにはおられないようであった。

_MG_9861 (640x421)

 

_MG_9879 (640x427)

 本部テントで午後4時から林先生ご祭主のもとに慰霊祭が厳粛に執り行われ、第40回の沖縄遺骨収集奉仕を終えた。第5班の方々が完全一体と、それぞれの班が部分遺骨を収集された。「摩文仁」のことを調べようとして偶然見つけた『沖縄慰霊巡拝』というホームページにその写真が掲載されている。

_MG_9897 (640x404)_MG_9905 (640x427)_MG_9899 (640x402)

 最近、林先生がよく言われることに、「以前はご遺骨に出会わなければみな気分が落ち込んで、下を向いて疲れた様子で戻ってきていた。しかし、このことが近年変わってきた。見つからなくてもみんな元気で帰って来る。これは、ご遺骨に出会う、出会わないにかかわらず、御霊様の安心を祈り、お土地が清められていくこと、すなわち天地の復興を祈りながら歩かせて頂く、という思いであろうと思う」と。

 発見されることはありがたいことである。また発見されずとも、それは残されたご遺骨がだんだんに少なくなってきている証左であり、これもまた一番ありがたいことなのだ。何よりもありがたいことと大切なことは、この体験を通して御霊様と出会い、御霊様の声を聞くことができる、少なくともここで実際にあった出来事、筆舌尽くしがたい悲惨な現実があったことを体感できること。そしてそれをまわりの人や後世に伝えていくこと。

 戦争を体験せずとも戦争は語ることはできるのだ。歴史に教訓を得るために歴史に学ぶことは、ただの文字面の学習だけではない。その実際に起きた現実の場所に身を置き、呼吸する。できるだけ当事者として近づく。そこでは今の現実とのギャップに苦しむであろうし、悩むであろう。その呻吟せざるを得ないところに身をおくことがこの沖縄遺骨収集奉仕への参加の意義だと思う。だからこその最終日の戦跡巡りもある。(つづく)