Home > 7月, 2013

自身の信心を確かめる 8 本然のいのちが承服する

 次に「本然のいのちが承服する」について、この言葉は脳腫瘍を患って長年闘病生活を余儀なくされた、高橋一郎先生の著書『金光教の本質について』に学んだ。これを読んで頂けば、まさに本教の本質をつかむことができ、信心とは本当の生き方、本物の生き方、生き様そのものであることが理解できると思う。全文紹介したいところであるが、できるだけ抜粋して紹介したい。  

高橋一郎著『金光教の本質について』金光教徒社 昭和24年3月15日初版
 二 人間の願 二 (9頁~11頁)

 「一事一物も犠牲にせず、自分も他人も、個人も社会も、精神も物質も,人間も牛馬も、全世界のことより、箸の上げ下ろしに至るまで、すべての事、すべてのものが、各々その本分を尽して、立行くことのできるような世界と、それをめざしての生き方、自分のために他を利用するものでもなく、他のために自分を犠牲にするのでもなく、自他もろともに、天地人生の全体が生き甲斐を感じて幸福であり得るような世界を生命は心の底から願うており、そういう世界の建設を願うて生きる生き方にこそ、我々は人間としての、喜びを感じ得るのではなかろうか。自分と自分を取巻く天地人生の一切万物が、共に其の本分を尽し、各々其の生を全うして思い残すことのないような世界を求めてやまないのである。

(中略)右の如き世界の建立が、現実の人の世において、たとえ、どのようにむずかしいことであろうとも、すべての人間が、そういう生き方を無上最高のものとしていることは、我々が、最も深く心を打たれるものが何であるかを考えて見れば、すぐにわかることである。自分一人だけのことを考えず、つねに自他をこめて全体の立行き立栄えることのために生命をかけている人間、行為、生活の事実に接したときは、人という人みなが、心を打たれるのである。たとえ、自らは、どんな我情我欲にもとずいた生き方をしているものであっても、つねに全体のために生きている行為と人間を見たときには、黙って頭を下げるのである。本然の生命そのものが承服する。此のことは知識とか教養とか経験の有る無しにかかわらぬことである(後略)」。

 本教信心の神髄は、まさに「真実の生き方を生ききること」、これより外にない。(つづく)

自身の信心を確かめる 7 思い通りではなく、願い通りのおかげ。

 次に、「自分の思い通りではなく、本然のいのちが承服する願い通りのおかげがいただける道」について。

 私が学生の頃、ご本部で開催していた全国学生大会に参加していたA君が、「毎日毎日、金光様が御祈念されているにもかかわらず、世の中いっこうによくならない。それも教祖以来ずっと続けてきているのに。それどころか三代教主の時代は、世界大戦が二度も起き、日本だけでも300万人もの方が亡くなったではないか」。

 さらに「金光教は世も人も救っては来ていない。神様なんかいない。信心していてもおかげがないのだから無駄ではないか」というような意味のことを鋭く突っ込んできた。

 その時はみんなで一生懸命ああでもない、こうでもないと言い合ったと思うが、A君はおそらく納得はしてないし、私自身もそれからこのことが心の中に刻み込まれた。そしてことあるごとに思い出しては、明確な答えが出せず悩んでいたように思う。

 その後、東京学生会の例会をあるお教会で開催し,その教会長と懇談しているときに、金光教の神様は「全知半能神」だと仰い、びっくりした覚えがある。その頃は神様というとキリスト教のように「全知全能神」とイメージしていたからだ。

 このときに少しヒントを得た気がした。しかし、この問題についてはある時にスパッと解決がついたわけではなく、その後学院に入学し、本部教庁布教部でお育て頂き、寮監となって寮生と接する中で、だんだんだんだんに納得がついてきたのが正直なところである。
    
 世の中、自分の思い通りにはいかない。不条理ともいえる難儀も降りかかってくる。しかし、よくよく考えてみるとそのほとんどの責任は人間側にある。たとえば交通事故。神様から与えられた自分で走る程度の能力では、互いにぶつかっても人は死なない。車のない江戸時代には当然交通事故はなかった。戦争は愚かな人間同士の殺し合いである。まさに人災。

 天災といわれる地震や津波にしても、そもそも地球に命があって動くからこそ人間の命がある。人間が住んでいるところに津波が来たのではなく、津波が来るところに人間が住んでいたのだ。難儀のほとんどは自らが呼び寄せたものではないか。そのことを神様は嘆かれ、悲しまれ、どうぞ助かってほしいと教祖様を差し向けられたのだと思う。    
 
 キリスト教の「神義論」ではないが、それ流にいうと本教は「神嘆論」、あるいは「神悲論」ともいえるのではないか。ある先生が、「願っておかげがないのは、それは神様の願いに沿ってないか、神様から与えられた試練」と仰った。その通りだと思う。

 ゆえにこのお道は、思い通りではなく、願い通りのおかげが頂ける道であり、それが本然の生命が承服することになるのである。それについては次回。(つづく)

自身の信心を確かめる 6  「三つのお」 お先にどうぞ

 三つのおの最後、「お先にどうぞ」。これは内田樹氏の著書で知ったのだが、エマニュエル・レヴィナスという哲学者が、「倫理の根源的形態とは『お先にどうぞ』という言葉に集約される」と述べているそうだ。
 
 「たいていの人間にとって、ドアやエレベータの前で鉢合わせした時に『お先にどうぞ』と言うのは簡単なこと。しかし、東京から博多までの新幹線指定席が取れず、自由席になだれこんだところ、あと1つだけ空いている席の前で誰かと鉢合わせした時に『お先にどうぞ』と言える人はかなり少ない。

 ましてや、沈みかかった客船の最後の救命ボート、その最後の空席を前にして『お先にどうぞ』と言える人は皆無に近いのではないか。しかし、レヴィナスは『あらゆる場面でお先にどうぞと言い切れること、それが倫理的に生きることである』と述べている。

 あらゆる局面で『お先にどうぞ』と言えるために最も重要なこと、それは今この瞬間に死に臨むことがあっても『私は、これまでの人生を悔いなく生きてきた』と言い切れることでもある。そういう状態になっている心構えを『幸福』と呼ぶのでは」と、内田樹氏に教わった。

 これは、時々刻々、その瞬間、瞬間に頂いている命を新たな気持ちで実意に生ききる、まさに教祖の教える「今月今日」てあり、三代金光様の「日々がさら」の教えに通ずると思う。4代金光様は、それをくっつけて「日々がさらの今月今日」とお歌を詠まれている。

 「お陰さま、お互いさまで、お先にどうぞ」の三つのおの実践は、「お礼を土台に」、「何事もあいよかけよで」、「日々がさらの今月今日」という本教信心の真髄につながるものであると考えている。(つづく)

自身の信心を確かめる 5 「三つのお」 お互いさま

次に「お互いさま」。これも日本が世界に誇る1つの生き方だと思う。「困ったときはお互いさま」の意味は、互いを支えあうこと。類語としては、持ちつ持たれつ、 助け合い ・ 相互扶助 ・ 相互依存 ・ 共存 ・ 共存共栄 ・ 相利共生 ・ ギブアンドテイク ・ 協力する ・ 助け合う ・ 支えあう ・ 互助、等々。まさに「あいよかけよ」の精神につながる。

 つまりは、人を助けようとするときに、どうしても上から目線になりがちである。こちら側にその意識はなくても、相手にそう思われることもあるし、無意識に上から目線になってしまうこともよくある。「お互いさま」とは、互いに立場は違うけれども、だからこそ共に助け合うという精神が大事ということ。これが根本。

 もうこれだけでいいのだが、視点を変えて現代人の行動規範の問題として1つ考えてみたい。私たちは誰かに迷惑をかけられた時は腹が立つと思う。けど、よくよく考えてみると、自分自身も他人に迷惑をかけたことがないとはいえない。いや、生きていれば必ず迷惑をかけているに違いない。これも世の中、持ちつ持たれつ、迷惑をかけられたときもお互いさまなのだ。

 ところが現代の自由主義社会の唯一の倫理規範となっている「黄金律」に問題があると感じている。それは「あなたにとって好ましくないことは、他人に対してするな」という太古の昔からある規範である。憲法における「『公共の福祉に反しない限り』は自由を認める」のもこの規範である。

 これがいとも簡単に「人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」となってしまう。若者がよく言う「迷惑をかけてないんだから何をやっても勝手でしょ」という態度である。だから、自分自身が好ましくないと思わない、迷惑とは思わないことは人にしてもいいとなる。電車の中の化粧や援助交際は、誰にも迷惑をかけてないから問題ないという論理。やはりこれはおかしい。

 日本では小さい頃から「人に迷惑をかけてはならない」と教えられる。もちろんその通りではあるが、その迷惑は誰が決めるのかである。インドでは、小学生の頃から人は人に迷惑をかけ、また人は人にお世話になるのだから、だからこそ迷惑をかけたときは素直に詫び、お世話になったときはお礼をしなさいと教えるそうだ。

 インドの教え方のほうがお道の信心に近いと思う。私は私だけで存在しているのではなく、他との関係の中で存在できる。ゆえに、上から目線ではない「お互いさま」の精神が非常に大切だと思う。「あいよかけよ」への一歩と考えている。(つづく)

自身の信心を確かめる 4 「三つのお」 お陰さま

 次にこの道の道たる道の前半は、あらゆることを神様中心に進めさせていただくという点で、お道の根本のところであると思う。そのために私は「お陰さま、お互いさまで、お先のどうぞ」の三つのおの実践、生き方を提唱している。

 その1つの「お陰さま」。 意味としては、「他から受けた力添え・恩恵、また、神仏の助け、加護に対して感謝の意をこめていう語」となっている。金光教祖様の「信心する者は、木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う気持ちになれよ」とのみ教えや4代金光様の「すべてに礼をいうこころ」、このすべてに「お陰さま」と感謝していく生き方は信心の基本中、基本だと思う。

 このお陰の陰については、色々な意味があるらしいが、私が考えているのは、例えば夜道の路地で、壁の向こう側に人が立っているとする。電灯の光に照らされて、こちら側からは陰だけは見えているが、その本体の人は見えないという状況を想定する。

 その、人の本体が実は神様で、こちら側の道、つまり「人の道」からは陰だけは見えるが決してその本体は見えない。が、もう少し進んで壁の向こう側の道、すなわち「神の道」まで進むとその本体が見える。 

 つまり、神様や神様の働きは目には見えないけれども、厳然としてその恩恵の中にいる私たちである。日常、「当たり前のことを当たり前としている」人の道を進む生活をしていると、なかなかその背後にある神様の働きは見えない。しかし、道の道たる道を進むと何事にも「お陰さま」の心持ちになり、幸せな毎日が送れるのである。(つづく)

自身の信心を確かめる 3 「自立的自由人」の本義

 さて、まず「自立的自由人」という言い方、これは誤解されやすい。自立も自由も手垢がついた言葉であり、自由人はよい意味でも悪い意味でも使われる。親や周囲の人に世話にならないことを自立と考えたり、自分の思い通りになることが自由と勘違いしている人が多い。

 そこで、必ず「信心に基づく」ということを特に強調しながら理解を求めている。逆説的だが、自立も自由も自分ではどうすることもできないと、しっかり自覚できた後に初めて獲得できるものだと思う。それにはどうしても信心が必要ということだ。

 人間は必ず他の方のお世話にならなければ生きていけない。つまり、人間は「独りではないから一人になれる」こと。幼い時のことを思い出してほしい。後ろにお母さんがいたから、安心して自由に自分自身で未知の世界に歩いて行くことができた。

 大空や大海原を自由に航行するには港がいる。航空母艦や母港と呼ぶのはそのことだと思う。ところが、いつの間にか大人になってしまうと自立して自分で自由に何でもできると勘違いしてしまう。

 「わが身がわが自由にならないものである」と教祖様が仰るように、いよいよのところは自分のことでさえ自分では自由にはならないのだ。心臓を止めたり動かしたりは決して自分ではできない。このことを悟ったときに初めて真の自立、真の自由を得た自立的自由人になれる。

 だから、「自立」の反対語は「依存」ではなく「孤立」である。そして自由の反対語は、「不自由」や「規範」ではなく「放埒」である。

 また「自由・自立」の反対概念は、「抑圧」「差別」「排除」「疎外」「妥協」「逃避」「放縦」「放棄」等々であり、これに対抗していくことが真に自立した自由な生き方であると考えている。(つづく)

自身の信心を確かめる 2 道の道たる道 

 そこで以前、年賀状にも書かせていただいたことがあるが、私の信心は「金光大神様の信心に基づく自立的自由人の道の道たる道を歩むこと」と自分に課している。

 その道とは、先人のお言葉も受け継がせていただきながら、

 御取次を頂き、
 神様のみ心のままに、神様の願いに生き、
 すべてを神様に、すべてに神様を現し、
 「お蔭さま、お互いさまで、お先にどうぞ」の三つの「お」を
  実践することによって、
 自分の思い通りではなく、
 本然のいのちが承服する願い通りのおかげがいただける道

とし、この大道を歩むことによって、真に自立した自由な生き方ができると取り組んでいる。(つづく)

自身の信心を確かめる 1 反省と改まりから

 先日ご本部で、私が東京学生寮に赴任して数年頃の寮生や、青年会のメンバーだった何人かの方と偶然の出会いがあった。もう20年近くも前になる。その方の1人が「まだ自立的自由人を説いてますか。あの頃を本当に思い出します」と話しかけてきてくれた。

 その後もぼちぼち話してはきたが、聞かれてみると、よく話した代と途中あまり話さなかった代がある。そういえばここのところはあまり話していない。多くの寮生に話す場は月例祭後しかなく、青年教師の教話研修の場となったり、寮運営委員の先生方も増え、私自身が寮生全員の前で話す機会が減ったこともある。が、ついつい同じ話ばかりではつまらないだろう、と考えしまったことが実は大きい。

 そんなある日、東京センターで常盤台教会の三宅道人先生からすばらしいお話を承った。曰く、玉水教会の湯川正夫先生は、一字一句違わない話を何度もするそうだ。私は大きな教会だから聞いている信者さんが違うからだと思ったが、違う。「意識的に」である。

 聞いている方が、「また同じ話か」と聞くのと「また違った意味」として聞くのでは全然違う。人間の心は日々変化する。受け取り方で違ってくるのだ。つまりは、先生は信者さんの信心の成長を願って、同じ話をされているということである。

 何とも私は恥ずかしい限りであった。ましてや学生寮は毎年必ず新しい人が来るのだ。これは重々反省し、改まらなければならない。そこで改めて自分自身の信心を確かめつつ、またここから伝える努力をしていきたいと願っている。(つづく)