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「心配する心で信心せよ」

 8月寮月例祭の教話で御田教会の金子恵先生が、「心配する心で信心せよ」とのみ教えについてお話になった。メールで毎日お取次を願われているご信者さんから、このみ教えについての質問を受けたそうだ。

 金子先生は、四代金光様の「心配は心の無駄遣い」とのお言葉を紹介しながら、「わだかまりや不安な心を持っていると物事は前に進まない。心の無駄遣いをしないよう、心が喜ぶように心配りを心がけたいものです」とお答えになったそうです。 

 確かに近藤藤守先生のお伝えには「心配りする心で信心せよ」との教えもあり、私もその通りだと思う。

 では、なぜ教祖様はわざわざ「心配する心」と仰ったか、ずっと気になっていた。これは前にも書いたかもしれないが「ゲゲゲの女房」という朝ドラをみてハッとしたことがあった。

 それは松阪慶子さんが、亡くなった自分の子供と同じ年頃の男の子に世話をやきすぎて、めんどくさがられるシーンでの台詞。正確ではないが、「私にも心配させてよ」だったと思う。

 この台詞にピンときた。そうなのだ、心配する人がいるということが実は幸せなことなのだと。また、自分事の心配だと不安ばかりが先立ってしまうが、身内や友人の心配は何とかしてあげたいという気持ちになる。

 そういう「何とかしてあげたい」という優しい心で信心せよというのが、教祖様のご真意ではなかったかと思う。いかがなもんでしょう。

8・15の日に思う。

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 今朝、東京センター出務のため水道橋駅に降りると、左に東京ドームがある白山通りに機動隊と警察官が大勢出ており、要人が通るのか、右翼の街宣車に対する警戒か、非常に物々しい。

 敗戦の日、戦没者を追悼し、不戦の誓いを新たにしたい日であるが、閣僚の靖国神社参拝などで相変わらず周辺諸国も騒がしい。その一つが安倍首相の「侵略の定義は定まっていない」との発言で、またぞろ「侵略戦争」か、「自衛・解放」の戦争かが問題とされている。

 私も先の戦争が本当にアジアの「解放戦争」であったならばどれだけよかったか、悔しくてならない。もしそうであったならば、澎湃としてその感謝の声があちこちから聞こえてくるはずなのにほとんど一部である。真に「大東亜共栄圏」を目指していたならば、日本はもっと世界から賞賛され,尊敬されたと思う。残念でならない。ただ、決して戦争を肯定しているのではなく、当時の当事者として考えた場合である。誤解なきよう。

 もう一つ靖国問題の重要な要素であるA級戦犯について、東京裁判そのものが「勝者の裁き」で無効だと主張する人がいる。この裁判のインド代表であったラダ・ビノード・パール判事はまさにそのことを指摘している。ただ、私は例えそうだとしても、戦争に負け、日本人で310万人、アジアで2000万人もの方の犠牲を出してしまった時の為政者の責任は免れないと思う。

 もちろん、国家のために戦った方や犠牲になられた方を偲び、哀悼の誠を尽くすことは大切である。ただ、靖国神社の本殿には会津白虎隊や西郷隆盛や、あるいは空襲で亡くなった方々は祀られていない。すべての人が哀悼の誠を尽くすことができる一番近い道は、沖縄・摩文仁の丘にある平和の礎のような、敵も味方も、軍人も一般人も戦争で犠牲になられたすべての方々が祀られた施設があればいいのではと思う。

第8希望

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 娘が大学のゼミ合宿先から自分たちで作ったご飯の写真を送ってきた。楽しそうで何よりである。この○○ゼミ、実はいろんな先生のゼミがある中で、自分が行きたいゼミに希望を出して決まる。娘の場合、何と第8希望。提出した行きたい順の最下位希望のゼミに振り分けられた。

 娘はかなりショックの様子で、見ていた私も「学校に行きたくない」と言い出すのではないか、何とかならんもんかと心配した。妻はそれこそモンスター・ペアレントになって学校に抗議に行こうかと息巻くほど。ただ、娘の方が立ち直りが早く、「まあ、これも運命」と受け入れた。

 そして心配は全くの杞憂であった。先生はもう70歳前の男の先生だが、かなりいい先生らしく、よく先生とのやりとりを楽しく家で話していた。そして1年が経ち、娘によると、先生はもう退官間近であまりやる気が出ず、ゼミ合宿を取りやめていたそう。それがこのたび久し振りに再開したのだそうだ。

 それは娘たちゼミメンバーが、希望のゼミでなかったにせよ、折角出会ったのだから楽しい研究の場としようと頑張ったことが下級生にひろまり、このゼミの今年の1年生の希望者がほとんど第1希望と第2希望者が集まったとのこと。先生も俄然やる気が出てきたそうで合宿の再開となったそうだ。

 この話を聞いて本当に嬉しかった。無意識的にせよ、それこそ信心を実践しているとありがたい気持ちで一杯になった。

 冒頭の写真が来たので、ちょうどご飯を食べていた私も、「今日の私のおかず」と「しそ」の写真を送ったら、すかさず「しっそ」と帰ってきた。思わず「座布団一枚」と叫んでしまった。しそにゴマ油と醤油をかけて食べたら結構つまみにいいんです。(*^_^*)

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自身の信心を確かめる 終

 縷々ここまで述べてきたが、常に自戒していることがある。それは信心を頭の中だけでわかったつもりにならないことである。もちろん頭の中で思索することは大事なことだ。しかし、信心はそれだけでなく、生き方、生き様であるから、脳だけてはなく、体全体で行わなければならない。信心は哲学ではない。理性や知性だけでなく、体感、体得というものが大切である。

 とわかっているようでも陥ってしまう過ちが、「み教えで人を切ってしまう」ことだ。無意識に犯してしまうから始末が悪い。信心は体全体で行うものであるから実践、行動が伴わなければならない。行動が伴わないただ口先だけの信心では、上から目線の親見識を振りかざしているだけで、周囲にとっては迷惑きわまりないことになる。

 私の世代は近代合理主義教育をどっぷりと受けてきたので、ついつい物事の意味や意義にとらわれ、言葉の表層的なところだけでよく議論したりする癖がある。二者択一や二分法思考にとらわれ、白か黒か、プラスかマイナスか、よいか悪いかという単純な思考に陥る。これでは人は助からない。

 言葉は思いを伝える最も有効な手段であるが、最初に言葉があったのではない。たとえば頭の中の思いは、「思いやり」という行動があって初めてそれが「思」という言葉になった。心も、「心遣い」という行動があって「心」となったと思う。

 三代金光様がご神勤当初、ある先生が「教祖様、四神様はよくみ教えをくだされましたが、あなた様はいっこうにお話しくださいませんが」と尋ねられると、三代金光様は、「教祖様、四神様はみ教えをされましたから、私はそれを実行させていただきます」とお応えになったと、ご本部から出されたリーフレットに教えられた。

 み教えは、自分自身にいただくものであり、人にいただかすものではない。信心は、み教えを実践、行動して、人に伝え、現していくもの。教師を目指して学院に行く寮生には必ずこのことを聞いてもらい、自身にも常に言い聞かせている。

 当ブログは言葉だけのツールであるからこそ、常に頭の中だけのことにならないよう、自分自身の信心を確かめる意味において書いてきた。今後ともどうぞ、ご指導、ご教導のほどよろしくお願い申し上げます。(おわり)