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自身の信心を確かめる 7 思い通りではなく、願い通りのおかげ。

 次に、「自分の思い通りではなく、本然のいのちが承服する願い通りのおかげがいただける道」について。

 私が学生の頃、ご本部で開催していた全国学生大会に参加していたA君が、「毎日毎日、金光様が御祈念されているにもかかわらず、世の中いっこうによくならない。それも教祖以来ずっと続けてきているのに。それどころか三代教主の時代は、世界大戦が二度も起き、日本だけでも300万人もの方が亡くなったではないか」。

 さらに「金光教は世も人も救っては来ていない。神様なんかいない。信心していてもおかげがないのだから無駄ではないか」というような意味のことを鋭く突っ込んできた。

 その時はみんなで一生懸命ああでもない、こうでもないと言い合ったと思うが、A君はおそらく納得はしてないし、私自身もそれからこのことが心の中に刻み込まれた。そしてことあるごとに思い出しては、明確な答えが出せず悩んでいたように思う。

 その後、東京学生会の例会をあるお教会で開催し,その教会長と懇談しているときに、金光教の神様は「全知半能神」だと仰い、びっくりした覚えがある。その頃は神様というとキリスト教のように「全知全能神」とイメージしていたからだ。

 このときに少しヒントを得た気がした。しかし、この問題についてはある時にスパッと解決がついたわけではなく、その後学院に入学し、本部教庁布教部でお育て頂き、寮監となって寮生と接する中で、だんだんだんだんに納得がついてきたのが正直なところである。
    
 世の中、自分の思い通りにはいかない。不条理ともいえる難儀も降りかかってくる。しかし、よくよく考えてみるとそのほとんどの責任は人間側にある。たとえば交通事故。神様から与えられた自分で走る程度の能力では、互いにぶつかっても人は死なない。車のない江戸時代には当然交通事故はなかった。戦争は愚かな人間同士の殺し合いである。まさに人災。

 天災といわれる地震や津波にしても、そもそも地球に命があって動くからこそ人間の命がある。人間が住んでいるところに津波が来たのではなく、津波が来るところに人間が住んでいたのだ。難儀のほとんどは自らが呼び寄せたものではないか。そのことを神様は嘆かれ、悲しまれ、どうぞ助かってほしいと教祖様を差し向けられたのだと思う。    
 
 キリスト教の「神義論」ではないが、それ流にいうと本教は「神嘆論」、あるいは「神悲論」ともいえるのではないか。ある先生が、「願っておかげがないのは、それは神様の願いに沿ってないか、神様から与えられた試練」と仰った。その通りだと思う。

 ゆえにこのお道は、思い通りではなく、願い通りのおかげが頂ける道であり、それが本然の生命が承服することになるのである。それについては次回。(つづく)

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