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自身の信心を確かめる 8 本然のいのちが承服する

 次に「本然のいのちが承服する」について、この言葉は脳腫瘍を患って長年闘病生活を余儀なくされた、高橋一郎先生の著書『金光教の本質について』に学んだ。これを読んで頂けば、まさに本教の本質をつかむことができ、信心とは本当の生き方、本物の生き方、生き様そのものであることが理解できると思う。全文紹介したいところであるが、できるだけ抜粋して紹介したい。  

高橋一郎著『金光教の本質について』金光教徒社 昭和24年3月15日初版
 二 人間の願 二 (9頁~11頁)

 「一事一物も犠牲にせず、自分も他人も、個人も社会も、精神も物質も,人間も牛馬も、全世界のことより、箸の上げ下ろしに至るまで、すべての事、すべてのものが、各々その本分を尽して、立行くことのできるような世界と、それをめざしての生き方、自分のために他を利用するものでもなく、他のために自分を犠牲にするのでもなく、自他もろともに、天地人生の全体が生き甲斐を感じて幸福であり得るような世界を生命は心の底から願うており、そういう世界の建設を願うて生きる生き方にこそ、我々は人間としての、喜びを感じ得るのではなかろうか。自分と自分を取巻く天地人生の一切万物が、共に其の本分を尽し、各々其の生を全うして思い残すことのないような世界を求めてやまないのである。

(中略)右の如き世界の建立が、現実の人の世において、たとえ、どのようにむずかしいことであろうとも、すべての人間が、そういう生き方を無上最高のものとしていることは、我々が、最も深く心を打たれるものが何であるかを考えて見れば、すぐにわかることである。自分一人だけのことを考えず、つねに自他をこめて全体の立行き立栄えることのために生命をかけている人間、行為、生活の事実に接したときは、人という人みなが、心を打たれるのである。たとえ、自らは、どんな我情我欲にもとずいた生き方をしているものであっても、つねに全体のために生きている行為と人間を見たときには、黙って頭を下げるのである。本然の生命そのものが承服する。此のことは知識とか教養とか経験の有る無しにかかわらぬことである(後略)」。

 本教信心の神髄は、まさに「真実の生き方を生ききること」、これより外にない。(つづく)

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