第39回 沖縄遺骨収集奉仕参加 4 2012年2月

●密林に分け入り、先遣隊の皆さまが発見された周辺を徹底的に探索する。

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P2181865 (640x480).jpg●骨片だが、早速にご遺骨を探し当てる。

P2181848 (640x480).jpg●このたびから、行政の管轄組織に改編があったらしく、ご遺骨が出れば必ず警察に報告とのことで、糸満警察署から警察官が確認にくる。

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P2181854 (640x480).jpg●発見されたご遺骨の一部



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P2181843 (640x480).jpg(つづく)

第39回 沖縄遺骨収集奉仕参加 3 2012年2月

先遣隊の中澤さん(写真一番右)が発見現場で説明をされている。 


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発見された状態で置かれていたご遺骨を見に入る娘達。

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「ほらあそこ」と奥様に教えている小河原先生。

 
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わかりにくいが、娘の鎌の下にあるのが、腰骨。

 
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次に2班が担当する現場へと移動。

 
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1、2班入り乱れて説明を受ける。昨年まで機動班としてお世話いただいていた橋本さんの姿もみえる。今年は全くの教外者で構成された2班付の機動班だ。

 
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さて、なにげに聞いているわが息子右側の岩の上にも実はご遺骨がある。これには私もびっくりだ。

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完全に同化してしまって、言われなければ絶対にわからないであろう。この下の写真に写っている。

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息子と娘が指さしているのは実は間違いで、ちょうど中澤さんの手で隠れているところが頸椎の一部らしく上の写真で確かめてほしい。これはこのままの状態で発見されたもので、後で置いたものではないとのこと。(つづく)

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第39回 沖縄遺骨収集奉仕参加 2 2012年2月

 沖縄平和祈念公園の一角にテントが張られ、本部となる。各班ごとに整列、那覇教会長林雅信先生からご挨拶と諸注意を受ける。その後、各班長と機動班が集まり打ち合わせる。ここで初めて作業場所を教えてもらう。

P2191876 (640x480).jpgP2191881 (640x476).jpg 1班と2班は初参加者が多いことから、先遣隊で入っていた中澤さんらがご遺骨を発見された場所へと案内していただく。その場所は、摩文仁の丘の最西端にある健児の塔から入り、南瞑の塔を通って海岸に出る石段の付近。

 まずは、健児の塔にあった元お土産屋さんの前で機動班の濱出さんから説明を受けた。私が初めて参加した2003(平成15)年の頃は、まだこの場所を本部としていた。お土産屋さんのご主人が大変な協力者で、長年ここを本部として活動を展開されていた。

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P2181808 - コピー (640x473).jpg また、沖縄遺骨収集の原点となる場所ともいえる南瞑の塔前でも説明を受けた。そこから少し進んだところに水場があり、ここでも多くの方が亡くなったと説明を受ける。いつ来ても異様な場所である。

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P2181810 - コピー (640x480).jpg そこから急な石段を下りていくと海岸に出る。その石段からもう何メートルも離れていないところからもご遺骨が出たそうだ。発見された中澤さんの説明を受ける。この場所周辺が今回1班の担当場所となった。もう1箇所出た場所が水場からジャングルに入って数十メートル進んだところにあるとのことで、その場所周辺が2班の担当となった。(つづく)

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第39回 沖縄遺骨収集奉仕参加 1 2012年2月 


 2月17日、わがグループ10名中8名は先発として午後4時羽田出発、あとの2名は午後7時50分フライト便。いつもは浜松町からモノレールを利用していたが、昨年武蔵小金井からは京浜急行の方が安くて早いことがわかり、新宿から品川、品川から京急で羽田空港へ。先発、後発組とも予定通り沖縄入り。

 ただ、さすがに後発組はホテルに夜中の12時30分頃着。そこからご飯を食べに行ったから元気がいい。今年はホテルの場所のおかげもいただき、国際通りのど真ん中で通りに面している「ホテル国際プラザ」。そして何と朝食付きは今回が初めて。神奈川教会の福田先生のご令嬢が勤めている名鉄観光のお世話で、3泊4日レンタカーつきで34、800円。格安である。

 18日は、沖縄平和祈念公園8時45分集合のため、ホテルを7時30分出発。多くの方達が集まっている。そこに何と金話研でいつもお世話になっている西原さん夫婦が参加していたのにはびっくり。今年も100名近くの参加者があり、春日部教会の小笠原先生夫婦と、前橋教会土居先生兄弟が加わり、とうとう自分たちの知っている範囲の14名で1班を形成した。

 私は2010年から班長をさせていただき、だいたい出身別に北から順番に班が構成されるので、私はありがたいことにいつも1班1番の名簿の先頭に名前がくる。いつの間にか班長になった一番頼りない班長。ただ、機動班として1班付の大ベテラン濱出先生が付いてくれているので安心だ。(つづく)
 当ブログ次回から、今年の報告は写真をふんだんに使っていきたいと思う。 

第39回 沖縄遺骨収集奉仕事前学習会 2011年2月

 第39回沖縄遺骨収集に寮からの参加者が8人、神奈川教会のご長男、次男の2人、何回か御一緒した春日部教会小笠原先生夫婦と私たち関係者は12人。ありがたいことである。寮からは毎年初参加者がいるので、事前に学習会をして臨んでいる。

 前年の事前学習会では、1953(昭和28)年制作、今井正監督のDVD『ひめゆりの塔』を鑑賞した。DVD化されてはいるがさすがに音声が聞き取りにくかった。ただ、なぜか1995(平成7)年の神山征二郎監督のはDVD化されてないため、やむなく古い方を見たが、今回は中古のVHSを購入して鑑賞した。ひめゆりの塔は全部で4作制作されているらしく、それぞれ視点も違うと思われるのでいつかは全部見てみたい。

 沖縄遺骨収集参加の意義はもう何度も書いてきているところだが、事前学習会の意義は、参加の意義を強固にすることはもちろん、教科書程度の知識で参加するのと、しっかりと歴史の事実を踏まえ、勉強した上での参加とではその体験度が全く違うというのが1つ。

 2つ目は、戦争とは、「殺し、殺され、焼き、焼かれること。痛くて、臭くて、心細くて、腹が減り、辛くて、苦しくて、悲しいもの」という本当の戦争を知るということ。

 そして3つ目は、戦争の功の部分をも見るというと語弊があるが、戦争に学ぶことも必要だと思うからだ。でないと、単に「戦争はいやだ」、「戦争反対」だけでは、またぞろ戦争に向かうからである。古今東西全ての戦争は「平和のために」なのだ。 
 
 戦争で犠牲になった方たちは、まさに身を賭して、国家のために家族のために死んでいった。その自分をさしおいても人を助けようとした精神は尊い。そして幸いにして崖っぷちから生還した人たちは、死の世界を覗き見たことによって生の重み、生の尊さを知ったと思う。

 もちろん、戦争を美化しているのではない。生の重さ、人を思う大切さ、今の普通の生活の大切さを知るためにも戦争を直視し、1人ひとりが人ごとではなくて、自分のこととして責任を持ち、その持ち場立場で「世界人類に貢献する」リーダーになってもらいたく、現在の生活、今の世界、社会を考えてほしいからだ。

 その上で関連して問題提起。どうも、この国の無責任体質は戦前、戦後と全く変わらない。例えば戦争を指導したリーダーたちが免罪になる風潮がどうしても理解できない。それでは300万人も犠牲者を出して「負けた責任」はないのかと。私は万死に値すると思う。

 しかし、「負けた責任」というとそれでは「勝てばいいのか」という議論になる。もちろん勝てばいいというものではないが、そういった「戦争絶対悪」の陥穽というか、「戦争が悪かった、戦争は人を狂気にさせる」といって、個人の責任が問われず、免罪になってしまう。

 ゆえに、あえて負けた責任を問いたい。もちろん戦争は絶対にしてはいけない。しかし、絶対悪というとそこに落とし穴ができる。つまりは「平和のために戦争」という論理に隙を与えてしまうのだ。そうならないためにも「戦争」をあらゆる視点から考える必要があると思う。

 これは現在の「原発問題」や「沖縄基地問題」など全てに通ずる。善悪の判断や価値判断だけでは前に進まない。改憲、護憲もそう。物事の本質を見極め、少しでもよりよい方向へと歩んでいくための努力が必要だ。

 話が長くなってしまったが、2月18日、19日の第39回沖縄遺骨収集も是非万事にご都合、お繰り合わせを頂き、それぞれにケガ、過ちなく、多くの体験を踏んで来てもらいたいと願っている。

第38回 沖縄遺骨収集奉仕参加 完 奉仕者懇親会に参加 2011年2月

 遺骨収集終了日の夜は、林先生のご子息のお店である「ヘルシーダイニング キュアハート」で懇親会が開かれた。何と遺骨収集参加者100人の約半分の50人以上が参加。お店のテーブルを全て片付けての立食パーティ。

 那覇教会のご信徒が「ぜひ懇親会を開きたいと」と願いを立てられ、当日はそれぞれ司会や受付、接待等々の御用に当たられた。遺骨収集の準備、後片付けと大変な中でのおもてなしに頭がさがる。司会は島袋さん。沖縄弁の名調子で楽しい。

 と思ったら、一班の班長ということで、いきなりマイクを向けられた。そこで「今回は関東から寮生等学生が5人参加してくれた。ただ参加するだけでなく、映画『ひめゆりの塔』やNHKスペシャル『最後の県知事島田叡』や沖縄戦を描いた漫画なども見てもらって事前に学習してきた。初参加者でご遺骨の発見もあり、実際に現地の雰囲気に触れて、平和の尊さを実感できたと思う。大変ありがたい2日間であった」と挨拶した。

 その後、教外からの初参加者の方にも感想を述べていただき、それぞれ想像していた以上の体験をされたようで大変ありがたいことであった。こうして初参加者からベテランまで、アメリカのロンさん夫妻も挨拶された。そこで思わせていただいたのは、人と人とのつながりであった。

 もちろん遺骨収集の内容そのものに意義を感じての参加であるが、最初のきっかけや何回も何十年も参加されている方々にとっても、それぞれの人格に触れ、仲間意識が生まれ、「あの方が参加するなら私も」とか、「1年に一度はみんなに会いたい」といったつながりから、多くの参加を得ていることがよくわかった。 

 老若男女、皆さんいい方ばかりである。こういう人ばかりなら戦争は絶対におきないと本当に思う。泡盛もすすみ、時間も経つのも忘れて交流を楽しんだ。あっという間のひとときであったが、「また来年」との声を掛け合いながら、それぞれのホテルに帰っていった。

 次の月曜日は夜に那覇空港出発なので、一日時間がある。若手たちは沖縄に来る前は、「せっかく来たのだから、あちこち観光を」と考えていたようだが、結局、「ひめゆりの塔」、「轟の壕」、「嘉数高地激戦地跡(普天間基地を展望)」、「嘉手納基地」等、平和に関する場所だけを回ったとのことであった。

 こうして最終日もあっという間に過ぎ、午後10時頃無事羽田空港に到着、バスで12時前に国分寺到着、12時頃無事帰寮させていただいた。今回の体験をぜひまわりの寮生や友人たちにも話して聞かせてほしいとお願いしたら、数日後近藤君が早速に次回の月例祭でみんなの前で話させてほしいと申し出があり、大変嬉しく、先日寮生たちの前で話してもらった。(完)

第38回 沖縄遺骨収集奉仕参加 6 慰霊祭へ 2011年2月

 寮生3人はまだまだ残りたい感じではあったが、誠に残念ではあるが時間も迫っているので帰路につくことにした。するとあの黒アゲハ蝶が一匹現れ、私たちの歩く横を並んで飛んでいく。

 私は後ろを歩いている息子に向かって、「御霊様が私たちを見送ってくれて、ありがとうとお礼を言っているかもね」と話しかけた。私の場合はこれまで4回とも一日に1回、それも一匹だけが現れる。比較的暖かい日は、普通なら複数で飛んでいても、また、何回も現れてもおかしくないのに、これも不思議の一つである。

 その黒アゲハ蝶がさっと前方に飛んでいった。しばらく歩くともうすでにどの班もいないと思っていたら、かなりの大人数がまだ作業をしている。2班と3班のようだ。何とまた黒アゲハ蝶が飛んでいった方向である。結構、最終日の作業終了ぎりぎりになって発見されることがよくあるのだ。ここでも大腿骨やあごの骨等が収集されたようだ。
                  
 今日は時間がないので、撤収の準備をしているとのこと。私たちは一旦霊園まで帰り、みんながすべて本部に帰るまで待つことにした。雨は相変わらずしとしとと降っている。しばらく待つと2班、3班が上がってきた。

 ふと霊園奥にあるトイレを見ると、誰かがホースで水を出している。あわてて近づくと現在北九州教務センター所長の安武光先生だった。私と学院が同期である。2班の機動班濱出先生にもお手伝いいただいて、トイレ掃除をさせていただいた。

 男子、女子トイレともべっとりと土がついているために、なかなかとれない。寮生らがよく頑張ってくれて、かなりきれいになった。すでに4時を回る。私と濱出さんは慰霊祭での玉串の奉奠がある。濱出さんが「まだ間に合う。この辺でいいでしょう」との声に、あわてず急いで本部テントに向かった。一番最後は3班の数人の方が梯子などの道具を洗って最終チェックをしていただいた。

 私たちは、林先生ご祭主のもとに仕えられていた慰霊祭の玉串奉奠に何とか間に合った。厳かに仕えられた後の林先生のご挨拶は、いつもとは少し違い、時々感極まって声が途切れ途切れになる。沖縄遺骨収集の願い、経過、ご活躍された今はなき先生方のこと等を詳しくお話になり、私も何度も涙がこぼれそうになり、厳粛な気持ちの中に本年の遺骨収集を終えさせていただいた。(つづく)

第38回 沖縄遺骨収集奉仕参加 5 第2日大石除去作業 2011年2月

二日目も午前8時50分、沖縄平和祈念公園内本部テントに集合。あいにくやや強い雨が断続的に降っている。御祈念、朝礼の後、早速に作業の準備に入った。大石を動かすためのロープ等を持つ。梃子になるバールは貴重で、他の班も使用している。3班班長の中村先生に拝み倒して1本貸してもらった。

昨日は降り道のある霊園まで歩いたが、今日は車に分譲して向かった。雨で山道もだいぶぬかるんできているため、慎重にも慎重を期して降りていく。海岸線の大石も濡れていてよく滑る。けがのないようにと御祈念しながら進む。

4、50分かかり、ようやく昨日の休憩場所まで到着。じっとしていると寒いが、動くとカッパの中が蒸れて暑い。少し休憩した後、約40歳以下のメンバーは、昨日大腿骨発見場所に移動。その他の方は引き続き周辺を捜索していただくことにした。
写真は大石を動かしているところ。この真上の岩盤の上に数人上がってもらい、上と下でロープを持ってかけ声のもとに一気にあげる。最初はビクとも動かない直径50センチ以上の大石を何度も何度も挑戦する。割れた石が何重にも重なっているので、ただ持ち上げるだけでは無理。

20110220_1 右に左に少しずつずらしてあげていく。昼食を挟んで数時間かけてようやく大小数々の岩石を取り除いたが、残念ながら新たなご遺骨は発見できなかった。その後、付近を探索していた吉永君が新たな自然壕を発見したと近藤君が戻ってきて報告してくれた。ただ、夕刻16時からは本部テントで慰霊祭が仕えられる。それに間に合うよう終了しなければらない。

また、断崖の降り口にある霊園のトイレを貸していただいているが、そこが泥だらけになっているので掃除をする必要がある。私と寮生3人は全5班がすべて帰った後に掃除をして帰ることにし、その他1班の班員の皆さまには、慰霊祭に間に合うよう先に帰ってもらった。そして、先ほど吉永君が発見した自然壕を見ようと向かった。

この壕は、自然の壕を恐らく軍隊が手を入れて整備していた壕と見られ、入り口付近は整然と石が積み上げられている。大きさはそれほどでもないが、狭い穴が奥にいくつも続いている。寮生3人らは奥に奥に入りたがったが、こうした整備された壕はすでに他団体が何度も入っていると思われ、昨年も若松教会隊が徹底的に調べ上げたと聞いていたので恐らくはここにはないことを告げ、一応見える範囲のところは確認して作業を終えた。(つづく)

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