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東京学生寮2月月例祭・食事会 2

 「本然のいのちが承服する」方法の二つめとして、身体で感じると同時に、私は頭で考えるということも大事だと思う。高橋一郎先生は直接は書いてなかったと思うが、本当の○○とは何か、本物は何かと問い続けられた。ある時、もうその問うこと自体が「本然のいのちが承服する」あり方ではないかとある時ハッと気がついた。
 
 つまり、自明と思われている概念、常識、固定観念、思いこみをとりあえず疑ってみる。そして上から見たり、下から見たり、ひっくり返して見たり、考えたりして、そこに自分なりの新しい発見をしていく。

 例えば、経済。資本主義経済、共産主義経済、市場原理主義経済、新自由主義経済と色々な理論をもって説かれている。しかし、一定条件が崩壊するとセオリーでなくなってしまう。昨年からサブプライムローンという経済的信用度の低い層を対象としたアメリカの住宅ローンのことをよく聞いたと思う。

 この信用不安が2007年のアメリカ・ヨーロッパ・日本市場において株価の急落につながったのは、サブプライムローンが貸付債権として証券化され、金融商品として国際的に販売されていたことによる。つまり、実体商品が値崩れしているにもかかわらず、架空の証券が世界中に乱発されたのが原因だ。何とも始末が悪い。

 一体全体、本当の経済はどうなっているかを問い、産業構造が変化していることに気がつかなければならない。つまり、これまで考えられてきた枠組みから自由にならなければならない。私が常々言っている「真の自由とは」について、私たちが考えている自明の自由から自由にならなければならないのだ(つづく)

東京学生寮2月月例祭・食事会 1

 去る7日は、東京学生寮月例祭を滞りなく仕えさせていただいた。教話は概要以下の通り。

 現在日本は、戦争もなく内戦もなく、物はあふれている。イギリスの調査では、日本人の「幸福度」は178国中なんと90位。先が見えない閉塞感から、将来に不安を感じでいる。その中で皆さん自身がどうあればよいか。 

 先師高橋一郎先生は、脳腫瘍の病気で三度の手術をして闘病、今の私と同じ年の51歳に亡くなられた。先生は、生きるとはどういうことか? ほんとうの幸せ・幸福とは? ほんとうの喜びとは何か? を問い続けられ、それは、「本然のいのちが承服する」生き方と示された。

 この「本然のいのちが承服する」とはどういうことか、どうすればよいかについて二つの方法について私なりに考えているところをお話しする。まず一つは、生きていることを実感していく。「全身解放」して身体で感じていくこと。人生の中で一番嬉しかったこと、楽しかったこと、恥ずかしかったこと、びっくりしたこと、驚いたこと、逆に辛かったこと 悲しかったこと、くやしかったことなどを振り返ってみて、その時の心持ちを大事にする。

(ここで私自身のびっくりしたこと、恥ずかしかったこと、驚いたことを聞いてもらう)

 「全身開放」とは、元曹洞宗管長の板橋興宗師が仰っている。「良寛さんが五合庵で暮らしているときに、子どもたちが遊びに来て『良寛さーん』と呼んだ。すると良寛さんは『はーい』と答える。その答えが面白いので、子どもたちはまた『良寛さーん』と呼ぶ。良寛さんは『はーい』と答える。何度呼ばれても良寛さんは同じように返事をしたそう」。

 私も寮監(りょうかん)だが、私ならあまり何度も呼ばれると「うるさいな、あっちいって遊んでおれ」となる。
 
 板橋師は、「(普通の人間は)、つい頭の中で『これから部屋の整理をしなければならない』などと違うことを考えるからだ。ところが良寛さんは余計なことを考えていない。このように頭の中でいろいろ考えて解釈するのではなく、与えられた刺激に素直に反応するのが『全身開放だ』」と。

 この「全身開放」のあり方に「本然のいのちが承服する」生き方につながる一つのヒントがあると思う。(つづく)

本物の伝統文化

 相撲界は理事選挙と朝青龍問題で大変である。朝青龍問題はもっとどうにかならなかったかと思うが、何ともしょうがない。理事選挙、これを伝統文化か現在の常識かというような単純な構図にしているから面白くない。
 
 伝統文化や徒弟制度そのものが悪しき慣習のように思わされ、ますます軽佻浮薄な世の中へとなってしまうのではないか。もちろん公職選挙法という現代のルールはそれをきちんと遂行しなければならない。しかし、それは相撲道を未来に発展させていくものであり、つまり真の伝統文化として次世代につないでいくためのものであろう。

 他にも例えば、伊勢神宮では20年に1回、神殿をすべて取り壊して新しいものに作り替える。これを現在の常識からみれば、「新しい物好きの日本人と関係あるのではないか」とか、「何年も保つのにお金がかかるではないか」とか、「環境問題からよろしくないのでは」との意見がでる。しかし、これは20年というところに着目しなければならないのだ。

 春日大社権宮司の岡本彰夫氏によると金銭や物の耐久性の問題ではなく、技の継承がからんでいるのだそうだ。つまり、20歳の息子、40歳の父親、60歳の祖父という3代でつないでいく。これが10年なら短すぎるし、30年だと間隔が開きすぎてうまく伝わらない。

 このように何でも近代で伝統や慣習を切っていいものではないのだ。要は私たちは何を先代から受け継ぎ、何を後世に伝えるのか。表面上の事柄ではなく、その本当のもの、本物を見極めなければならないと思う。
 
 今日は夜7時から東京学生寮2月の月例祭で、今回も私が祭主と教話の御用をさせていただく。お話は前回触れた「本然のいのちが承服する」ということは、様々な事柄に「本当はどうなのか?」、「本当の○○はどこに?」と問うこと自体にあるのでは、について、また別の観点から話してみたいと考えている。

「本然の生命そのものが承服する」

 先師の高橋一郎先生は、『金光教の本質について』で「ほんとうの幸福」とは何か、「ほんとうの喜び」とは何かについて、それは「本然のいのちそのものが承服する」ということと表現をされている。一郎先生の論はかなり理屈ぽくて、ここでいう「ほんとうの幸福」、「ほんとうの喜び」とはどういう喜びかについてよくわからなかった。

 喜ぶということについては、その漢字だけでも「喜ぶ」「悦ぶ」「歓ぶ」「慶ぶ」と4つある。熟語になると「歓喜」「随喜」「狂喜」「満悦」「大悦」「感悦」「喜悦」「愉悦」「恐悦」「悦喜」と限りない。4字熟語となると「欣喜雀躍」がある。中日ドラゴンズか優勝したときの欣喜雀躍の喜びはよくわかるのだが。 

 これだけ違う表現があるのだから、それぞれの喜び方や意味合いがあるだろう。そのすべてがほんとうの喜びではあるが、さて、どの喜び方をもってほんとうの喜び、「本然のいのちが承服する」ことになるかというとどれも言い得てないようにも思う。

 自分自身を振り返ってみると、最近は自身のことで喜ぶということはあまりなく、たとえば息子が野球で大活躍してまわりの方からほめられた時、あるいは先日妻の誕生日に、娘が自分が初めてバイトしたお金で誕生日祝いを買ってきて渡したところを見た時や、何とその数時間後に今度は息子が誕生日祝いを持って帰ってきて、妻がもううるうると感動している姿を見た時などは無上の喜びを確かに感じた。

 そのようなことを考えていると、ふと「あ、そうか!」、神様も同じように氏子らが喜んでいる姿を見て、喜んでいるんだとここで改めて気がついた。そうかこの瞬間が、つまり神様も喜んでくださっていると感じ入ったときが本然のいのちが喜んでいることになり、「承服」していることではないかと思ったようなことである。

 なるほど一郎先生のいう「自分一人だけのことを考えず、つねに自他をこめての全体の立行き立栄えることのために生命をかけている人間、行為、生活の事実に接したときは、人という人みなが、心を打たれるのである」、「自分のために他を利用するのでもなく、他のために自分を犠牲にするのでもなく、自他もろともに、天地人生の全体が生きがいを感じて幸福でありうるような世界を、生命は心の底から願っている」ということ、そのことこそが神様の願いであるということをわからせていただいた。

 この「本然の生命が承服」する生き方を実践し、家族から友人、寮生、信奉者、町会の人々から世界人類に至るまでその全体を願う生き方をさせていただき、ほんとうの喜びを分かち合い、神様にも喜んでもらいたいと切に願っている今日この頃である。

もっとも心が痛む3つの犯罪

 私がもっとも嫌い、起きるたびに心が痛む犯罪が3つある。子どもの虐待殺人と危険運転致死、そしてもう一つが詐欺だ。もちろんすべての犯罪行為は許されない。しかし、この3つは特に強く憤りを感じる。ここのところこれが立て続けに起きた。

 江戸川の小学校1年生の子の事件は、学校や区の支援センターが問題を把握していたにもかかわらず防げなかった。2004年に児童福祉法が改正され、子ども支援センターが設立されたが機能していないとの問題指摘があり、もはや親には任せてられないとの社説もある。情けない限りだ。

 また、居酒屋で乾杯した直後に車に突っ込まれ亡くなった事件。まさか居酒屋で飲んでいて、車に轢かれて死ぬとは誰が思うであろうか。そして名古屋では歩道を歩いているだけで車に突っ込まれ、3人が亡くなった。同乗者全員が逃走という信じられない事件だ。

 いたいけな子どもを殺してしまう。何の関係もない人を突然死に追いやってしまう。人の道にもとる犬畜生ではないか。3番目の詐欺による連続殺人事件はもちろんではあるが、善良な弱者を騙すという全くさもしい、恥ずかしい行為を平気でやっていることにも腹が立つ。特に亡くなった方やその遺族の方の立ち行きをどう願えばよいのか。すべて人間としての最低限のあり方に問題がある。神様への最大のご無礼だと思う。

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