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「当然」、「当たり前」、「確信」は根拠にならない。

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 安倍総理や保守系新聞の主張の根拠が「当然」、「当たり前」、「確信」といった言葉になっていることが多い。例えば、「国家に命を捧げた英霊を祀る靖国神社に、一国の総理が参拝するのは当然だ、世界の常識からいっても当たり前」との論調等である。

 「当然」で「当たり前」なら、問題にはならないはず。当然でないから問題になっているのであって、これでは全く説明にも説得にもなっていない。

 安保法制問題もしかり。衆院憲法調査会で3人の憲法学者が全て違憲と答えて、慌てて出てきた合憲派学者の西修氏。「国連憲章51条は、個別的自衛権と集団的自衛権を共に『固有の権利』と定めており、国家がその存立のために当然保有している」とここでも当然が出てくる。

 さらに西氏は「日本は主権国家だ。主権国家に国際法上、当然に認められている集団的自衛権行使を認めないのは『日本は主権国家でない』ということか」と。

 「固有の権利」かどうか?その成立過程(昨年の東京平和集会で触れました)からかなり疑問があるのだが、憲章には「国有の権利」と書かれているのでそれを当然国家が保有しているとして、その権利を認めないことがなぜ主権国家ではないということになるのか。

 国連憲章を引き合いに出す主張は、「国連憲章で認められているのだから当然日本も行使できる権利だ」という。さらに「国連憲章が認めている権利を認めないのは背理だ」という主張になる。

 しかし、自民党に推薦されたにもかかわらず「違憲」だと断言した長谷部恭男氏は、以前から「アイスクリームを食べる権利は誰にでもあるが、自分の健康のことを考えて食べないようにするは背理でない」と面白いたとえで説明している。

 もう一つ日本人の多くが思い込んでいることに、「国連が決定したことは国連加盟国は従うのは当然だ」という受け止め方である。

 例えば安保理の決定に加盟国は「受諾し且つ履行することに同意する」ことになっている(第25条)。安保理が決定する非軍事的な措置については、加盟国は例外なく受け入れ、実施しなければならない。

 ただ、第43条3で「(前略)この協定は、安全保障理事会と加盟国群との間に締結され、且つ、署名国によって各自の憲法上の手続に従って批准されなければならない」とされており、軍事行動においては各国の憲法が優先となる。

 つまり、集団的自衛権はあくまで権利であり義務ではない。ゆえに「保有するが行使しない」とする根拠はあるのだ。
 
 次に安倍総理。国会で、アメリカの戦争に巻き込まれることは「絶対にあり得ません」、また何度も「私は合憲だ、安全だと確信しています」と述べた。これはいくら聞かされても信用できるわけがない。戦前の政治家や軍部の言動、いや戦後の「原発は絶対に安全です」と為政者が本当のことを言わないことは身に染みて経験している。 

 なぜ説明できないのか、もうみんな気付いている。つまり、本心では軽蔑し、変えようとしている憲法を認めた上で、法案の合憲性を説明しようとしているからだ。この大いなる自己欺瞞。また、自国の憲法を変えようとしている方々が国連憲章は絶対としている欺瞞に気がつかないのであろうか。

 もちろん法律規範を不磨の大典として全く変えてはいけないとは言わない。しかし、国連憲章や日本国憲法に定めている武力不行使原則は、数々の悲劇的戦争を経験した人類が、国際社会がむき出しの暴力の世界にならないよう地道に努力に努力を重ねて築いてきた貴重な財産である。

 その向かうべきところを示しているからこそ、今の現実に方向性が与えられるのである。そこをしっかり押さえた上での真に現実的議論が今こそ望まれていると思う。