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『原発供養』

 国や電力会社は、原子炉制御の”命綱”ともいえる電源を、どう位置づけてきたかについて、『読売新聞』によると、「規制当局である内閣府の原子力安全委員会は、1990年に定めた発電用軽水炉の安全設計審査指針の解説に、長時間の全電源喪失について『考慮する必要はない』と明記しいる。理由は『送電線の復旧または非常用交流電源設備(非常用ディーゼル発電機)の修復が期待できるため』としており、国は外部電源を失ってもすぐに非常用発電機が作動すると想定してきた」とある。

 また、今朝のテレビでは、海に放射能が漏れ出ることはあり得ないのだから、魚の放射性物質の基準値はそもそもないのが当たり前のようなことを言っていた。驚きを通り越してあきれるばかりである。戦前の軍部にみられた、都合のよい情報しか取り入れない希望的観測思考や独善的視野狭窄、無責任体制に導く思想や物事の考え方を、全く反省もなく引き継いでいるのではないか。

 この原発問題で、あの『日本辺境論』著者の内田樹氏のプログ(http://blog.tatsuru.com/)の、この問題を日本における宗教的、信仰的に観点からみている「荒ぶる神の鎮め方」、「原発供養」と題した記事は非常に参考になった。

 皆さまにも一度読んでいただきたいが、内田氏は、「原子力についても、そもそもその設営のときに、伝来の古法に則って、呪鎮の儀を執り行うべきだったと私は思う。(中略)
ほんとうに「こういうやりかた」をして原発を管理運営していたら、今回のような事故は起こらなかっただろうと私は思う。(中略)呪鎮の目的は「危険を忘れ去ること」にあるのではない。逆である。「恐るべきもの」を「恐るべきもの」としてつねに脳裏にとどめおき、絶えざる緊張を維持するための「覚醒」の装置として、それが必要だったと私は申し上げているのである」と。
 
 本教流に言えば、国や電力会社や私たち一人ひとりのあり方は、天地のお働きに対して畏れ、畏むことを忘れ、自分勝手に振る舞ってきた無礼のあり方そのものと言えよう。そのつけが一気に今回吹き出たのだと思う。

 そこで本教信仰としてどうあればよいか。原発を忌み嫌い、この期に及んで単に反対するだけでは全く足りないであろう。内田氏が橋口氏のブログを引用して述べられているように、40年間、耐用年数を10年過ぎてまで酷使された原発に対して、ここまでのご苦労をまずはお礼申し上げなければならないであろう。

 橋口さんが言う「ろくな手当てもされず、安全管理も手抜きされ、あげくに地震と津波で機能不全に陥った原発に対して、日本中がまるで「原子怪獣」に向けるような嫌悪と恐怖のまなざしを向けている。それでは原発が気の毒だ」との言に、なるほどその通りだと思う。

 また、現在必死に原発の暴発と戦っている多くの方たちへのお礼と、ある意味で私たちの身代わりとなって避難してくださっている住民の皆さまにもお礼を申し上げなければならない。

 その上で、自分勝手に振る舞ってきたご無礼に対して天地の神様に真にお詫び申し上げ、深く反省し、ここからの教訓を教えていただかなければならない。そして、どうかこれ以上被害が拡大しませんようにと神様にお願い申し上げること。これが今として私にできうる御祈念の中身ではないかと思い、日々祈らせていただいている。

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