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政治問題への対し方

 「宗教は、政治問題に関わるな」とよく言われる。特に金光教は、教団や1人ひとりの信奉者のところでもその傾向が強い。政治と宗教の関わりは難しい。国家の宗教に対する干渉を抑えるために、政教分離原則が確立しているほどだ。

 ただ、政教分離を徹底すると宗教は政治に対して「何も言わない、言えない」ということになる。みんな仙人のように人里離れた山奥に住み、浮き世と全く関わりを持たないとなると政治と関わらなくてもいいだろう。

 しかし、社会存在としての金光教団を組織し、また信奉者1人ひとりが現実社会で生きている限りは、本教の教団や特に教師はその社会的存在としての社会的責任がある。つまりは金光大神の信仰の視点からよって立つ主体性の確立である。

 それでも信奉者個々人には、思想、信条の自由があり、いろんな政治的立場があるから本教教師は政治問題に対して発言したり、行動は控えるべきだとの根強い意見がある。もちろん選挙に出たり、具体的な候補を応援したりすることは控えるべきであり、金光教の規則でも禁じている。

 しかし、それでは全く政治問題に関わらないとなるとどうなるか。何も言わないことは、こちらがどう思おうとも、自然に体制やある立場に組み込まれ、結果社会の不正や差別構造を容認してしまう。また、間違った情報に基づき、問題を過小評価してしまい、無関心となる恐れもある。

 以前も書いたと思うが、「主体性の放棄⇒社会的価値観への盲従⇒差別構造を補完⇒教義の枯渇⇒救済力の低下」とつながる。主体性の確立は、「社会的価値を相対化⇒信仰的視点からの新たな価値観の提示⇒教義の展開⇒救済力向上」となるだろう。

 ダライ・ラマは「怒りには2種類」あるという。「悪意からの怒り」と「慈悲からの怒り」だ。時に怒りは必要だ。ただ、その向かうべきところは、自分とは反対の意見を糾弾するといった人に向かうのではなく、構造やシステムを問題としなければならない。

 1人ひとりの思想、信条は大切にし、正義や善意の押しつけにならないよう十分に留意しつつ、信仰の視点から発言や行動していくのが金光教人としての進め方だと思う。もちろん何でもかんでも発言しろというのではなく、「答えてはいけない」問題に対しては、その答えない理由を答えなければならないと思う。

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