気仙沼ボランティア報告① 第一次派遣隊運転手として気仙沼へ

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 23日朝7時、金光教首都圏フォーラム復興支援ボランティア「第一次派遣隊」の運転手として寮を出発。東京センターへ集合の派遣ボランティア二人を迎えに行く。東京センターまで順調で8時30分着。程なくお二人がみえた。途中飯田橋首都高で事故との情報があったので45分頃早速に出発。浦和料金所を越える頃に携帯が鳴る。東京センター所長からだ。なんと土曜日なのに見送りに信徒の方と二人で東京センターまでみえたとのこと。私、見送りがあることをつゆ知らず、大変失礼してしまった。

 その後、順調に東北道に入ったのはよかったが、雨が降ってきた。それも尋常ではない降りで前が見えなくなるほど。スピードは出せない。お昼休憩後に小雨になったが、福島県に入ると、ところどころ道路に段差があり、これまたスピードが出せない。ついつい速くなりすぎて、後ろのお二人が腰を浮かすこともしばしば。慎重に車を進める。

 それでもだいたい予定通り、17時40分頃に気仙沼市内に入った。山間の道を抜けて市街に入っていくと、市役所がある高台の方は地震が来たとは思えないくらい普通。しかし、異様な臭いは車の中でも匂ってきた。臭いのことは先日も触れたが、泥かきで畳をはがすと腐った魚が一杯出てくるとのこと。とんでもない臭いを発しているらしい。

 市役所を左手に見ながら港の方に降りていくと景色は一変。さすがにすさまじい光景だ。すぐに右手に曲がり、(写真1枚目)の坂の入り口が見え、そこを登ると気仙沼教会(写真2枚目)が見えた。教会は全く無事であったが、教会のすぐに下の家まで海水がきたとのこと(写真3枚目)。

教会方向.jpg 教会全景S.jpg 教会から下方向・間近まで海水が来る.jpg 教会掲示板.jpg 写真4枚目は教会の掲示板。「何とかなる」との一言に多くの人が励まされる。まずご神前に参拝。ご神前にも近所の方が避難していると聞いていたが、ご神前には布団が敷いてあり、10人程度避難してきている。お届け後、しばらく気仙沼教会長先生と奥様のお話を聞く。となりの神社境内では被災者の人たちが炊き出しをしており、この地区の方の食事を作っている。その地区のリーダが気仙沼教会の青年部長であり、その方が大活躍して、教会あげて地域の方々を支援しているそうだ。教会のとなりの信奉者会館も避難場所と一部ボランティアの方の宿舎となっている。

 私たちボランティアの宿舎は、教会のすぐ裏手に今は空き家となっていたお家を借りることができ、そこに寝泊まりさせていただく。二階には畳の部屋が二つともう一つ部屋があり、一階にも一部屋あり、計四部屋で布団も十分に用意できている。ありがたいことである。

 これも先遣隊の皆さまやその後残られた所沢教会の嶋田先生、大崎教会の田中真人氏のおかげである。嶋田先生は完全に土地の人となっているし、田中真人氏は気仙沼ボランティアセンターでなくてはならない存在となっている。気仙沼教会の娘さんの友人で一緒にボランティア活動している未信奉者のお二人が真人氏を絶賛されていた。また、首都圏フォーラムや東京センターでの後方支援がしっかりとしていることも大変ありがたく思う。

 さて、6時になると夕食ということで、教会でそれぞれ「箸を持って」と箸を貸してくれ、炊き出し場所(写真5枚目)に向かう。被災した地元の有志の人たちが炊き込みご飯、豚汁にタケノコの煮物、キュウリの漬け物、キムチ等々を振る舞ってくれ、これがまた美味。時間によって被災地区を割り振っているらしく、私たちボランティアもお世話になる。何か逆である。気仙沼教会青年部長も忙しく動き回っている。

教会隣接神社境内での炊き出し2.jpg お教会に戻ると先生が歓迎会だとお酒を出してくれた。「私は運転手ですので明日帰るんです」というと「じゃあ、送別会だ」としっかりと飲ませていただいた。そこに教会に避難されてきている息子さんを亡くなれた近所の未信奉者の方や信奉者の方、ボランティアの方が集まってきて、色々とお話を承った。

 教会長先生は、「悲しいこと、辛いことで共に泣き、そして少しでも嬉しいこと、よきことができてきたら、それでまた共に泣く。理屈ではない。今は寄り添ってお互いに励まし合い、助け合うしかない。それしかない」と。そして「この現実を少しでも多くの人に見てほしいし、話を聞いてほしい」と仰っていた。 

 被災された方は、一応に明るく、笑顔で気丈にしていらっしゃるが、当然ながら悲しみや悔しさやいろいろな気持ちを押し殺して、心の中に秘めているように感じた。こうした気仙沼教会の信奉者の皆さまが一丸となって地域に貢献している様子、地域、教会、ボランティアが一体となって復興に取り組まれている様子、その取り組みを実際に見させて頂き、また地域の人たちとふれあうだけでも大変勉強になるし、大切なものを感じることができ、生き方の上で非常にためになると思った。
 
 24日早朝、快適に目が覚めた。宿舎から見た気仙沼の市街は全く何もなかったように見える(写真6枚目)。時間があるので海の方に歩いて行くと、坂を下りてすぐ景色が一変(写真7枚目)。地盤沈下で地面から水が吹き出ているし、満潮で港まで近づくことができなかった。(写真7、8、9、10、11枚目)

ボランティア宿舎から街を望む.jpg気仙沼市街2.jpg教会の坂を下りてすぐの町並み3.jpg教会の坂を下りてすぐの町並み2.jpg 気仙沼市街3.jpg 満潮で水没.jpg 教会に帰ると信奉者会館から嶋田先生が出てこられ、軽トラで案内してくれた。まずはフェリー発着する港の方に向かう。しかし、途中通行止め。それでもと無視して入っていく。「もし、これで地震が来たら逃げられないよ」、「もういいでしょ。死んでも」、「まあ、ここで嶋田先生と一緒に死ねたら本望」だと言いながら軽トラを降りる。

 そこでも海がどこにあるかよくわからない。地図上で行くとだいぶ内陸の方と思われるが、ぐしゃぐしゃである。(写真12、13、14枚目)そこに私の胸辺りからあの地震警報音が鳴り響いた。「地震が来る」と思わず叫んでしまい、二人ともあわてて軽トラの方へ。しかし、全く揺れない。おかしいなあと思っていたら、なんとデジタルカメラの容量がなくなった警告音であった。非常に紛らわしい音。さっきの「もう死んでもいい」というのは一体何だったのと二人で笑いあった。

気仙沼港.jpg 気仙沼港2.jpg 気仙沼港定期便桟橋.jpg 次に大火事のあった場所へと向かった。(写真15枚目)しかし、ここでも途中から海水が溜まっており、海の方へは近づけなかった。(写真16枚目)は気仙沼線の鹿折唐桑駅。嶋田先生によるとここに多くの小学生が逃げて来ていたが、津波が線路を越えたため、ダメだったとのこと。線路からもうすぐ北側は山になっており、そちらに少しでも逃げていればと本当に悔やまれる。

 

気仙沼線線路から火事現場を望む.jpg鹿折唐桑駅.jpg  まさか高台の線路までは来ないと思ったのだろう。駅のすぐ向こうにあの大きな漁船が来ているからよほどの大津波だったと想像できる。(写真17枚目)その情景を思うと足が震えた。気仙沼線は完全に寸断され、いまだに復旧の見通しが立ってない。(写真18枚目)

気仙沼線から海方向2.jpg

鹿折唐桑駅2.jpg 今回、たった二日間、気仙沼にいたのは1日もない時間であったが、多くのものを得ることができた。また是非今度は本格的にボランティアに参加したいと願っているが、皆さまも是非実際に行ってみて、見て、聞いて、体験していただきたいと思う。行きたい方は是非一報下さい。

 ボランティアの内容は、今のところ泥かきなどの清掃や運搬手伝い、物資の仕分け、配達等、中、長期(2週間から1か月以上)にできる方は、ボランティアセンターでの人、物資の手配等、様々な事務。場合によっては、手薄となっている陸前高田市や大船渡市方面へも検討しているとのこと。

  

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このページは、つっさんが2011年4月26日 11:18に書いたブログ記事です。

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