2010年5月アーカイブ

京王線沿い好きの私

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昨日は、上北沢教会ご大祭祭員の御用をさせていただいた。上北沢教会の前身は渋谷教会で親教会が和歌山県新宮市の南紀教会。私の在籍教会である勝浦教会の隣町になる。また教会長の水津先生は東京センターの社会活動部門の次長、そのようなよしみでよく御用させていただいている。
上北沢教会は京王線沿線にあり、京王線は不思議な縁があって一番好きな沿線だ。もう15年くらい前になるが、母親が最初で最後の上京した時に、まだ小さかった息子を連れて車で多摩動物園に行ったことがある。
その帰りに聖蹟桜ヶ丘駅ビル付近が遠目にも見える道路を走りながら、なぜか「いい町だ」と感じながら、しかしそうそう来ることはないと思いながらも大変印象に残った記憶があった。
そして渋谷教会が移転先を探している時にも、なぜか京王線沿いがいいのではと勝手に思っていたら上北沢に決まった。その後一番驚いたのが、野球の関係で息子がなんと聖蹟桜ヶ丘駅にある多摩大聖ヶ丘高校に通い、京王線の府中駅と聖蹟桜ヶ丘駅を利用したことである。
おかげで私も何度も聖蹟桜ヶ丘に行く機会に恵まれ、この時は何か不思議なお導きがあったのではとつくづく思ったようなことである。そして直感でいいと思った聖蹟桜ヶ丘や府中も思いのほかいい街だった。今でもちょくちょく行っている。
そのようなことで小金井から上北沢教会へは、中央線吉祥寺、そこから井の頭線で明大前京王線と行くのが時間的には近いが、国分寺から府中までバスがあるので必ず府中経由で行っている。なぜか調布から西の京王線沿いは通るだけでも気持ちが落ち着くような気がするのだ。全く自分でもわからない前々からのご縁があるような気がして仕方がない京王線好きの私である。

創立100周年開寮記念祭とレセプション、私は何人かの方とお話ししただけであっという間に時間が過ぎてしまった。金光財団の役員の先生方や遠方から駆けつけてくれた先輩卒寮生の皆様にほとんど挨拶もできなかった。ご無礼お詫び。
さて、このたびの100周年はこれで終わらない。私の10~15年くらい上の世代の先輩方からせっかく集まるのだから奥多摩辺りの温泉一泊旅行を企画としてくれとお願いされていた。その時点ではほとんど無理だと思っていたが、寮友会事務局長を中心に記念誌の発行やご本部での祝賀会等も盛大に開かれたこともあり、ここは一つおかげをいただこうということになった。
幸い、金光財団職員の先生も積極的に企画実施を担ってくれた。当初は60人くらいを予想したらしいが、私はよくいって20人くらいだとよんだ。大祭月で来てくれそうな方や私が寮監以降の代の寮生は、仕事やお子さんがまだ小さいことなどで、昼間は参加できても一泊は無理という方が多かったからである。
締め切り時点では、その20人も達しなかった。温泉まではバスをチャーター。しかし、もし20人を割れば赤字というなかで、何とか20名強の参加を得た。場所は奥多摩の鳩ノ巣温泉。参加者は、私よりだいたい15年上の先輩方が2、3人、10年くらいの先輩方が5、6人、私の同世代が5、6人、後は新東京寮のメンバー、最後は一つの部屋に集まって2時過ぎくらいまで盛り上がった。
先輩たちの熱っぽい前寮監中山亀太郎先生論に、私たち以下の卒寮生が聞き入っているという感じで、本当に貴重なひとときとなった。うちの息子と現寮長も現寮を代表して参加しており、相当の刺激になったようだ。翌朝先輩たちはどこにそのパワーの源があるのかというくらい元気。私はというと、もう疲れ果ててしまい、これからの寮のことを思うとこれはいかんと反省しつつも帰りの中央線は爆睡であった。
何はともあれ、万事にご都合、お繰り合わせをいただき、滞りなく終えさせていただき、誠にありがたいことであった。本年も多くの新入寮生を迎えることができ、雰囲気もよく、新たな100年に向かってよいスタートも切れた。ここからさらに道の道たる道を未来世代に伝えていくために、ますますの精進を誓い、終わりたい。(おわり)

藤井孝司氏(1980・昭和55年入寮) 「私たちが寮生の頃は、もう30年も前になります。いろんな思い出がありますが、中でも小金井公園で桜の花見をよくしてましたが、その桜を持ち帰って寮のお広前でまた花見をするようなこともしてました。
また、私たちは郵便ポストではなくて、バス停です(笑)。私たちの誰かが『バス通りまで少し歩かなければならい。バス停を寮の前まで持ってきたらバスが寮の門まで来てくれるだろう』とアホなことを言いました。当時のバス停は、下の方はコンクリートで固めてありましたが、動きました。それをちょっとずつ、ちょっとずつ動かしてきて、とうとう寮の正門の前まで持ってきました。その後、それがどうなったかはわかりません(笑)。
本日は、4月に入ってまで雪というとんでもないお天気でしたが、いまは晴天のおかげをいただき、誠にありがたいことで、ここからの東京学生寮を暗示しているようであります。ここからの発展をお祈り申し上げます」。

寺本可以氏(1991・平成2年入寮) 「私は、辻井先生が寮監として就任された新東京寮1期生であります。実は私の父も寮の出身で今日もそこに来ておりますが、何と前の小金井寮が新築された時の1期生で、二代続けて新築一期生のおかげをいただきました。(拍手)
だいたい辻井先生動くところ天候が大荒れになりますが、これが雪とは想像を絶し、相変わらずやってくれました。私の人生にとっては寮は非常に大切な場所であります。いまそこに嫁と子どもが来ていますが、嫁も東京学生寮一期生です。(拍手)
さて、在寮生の皆様に聞いていただきたいが、見てのとおり寮は構造上普通のアパートと一緒です。学校に行き、アルバイトをするだけでは単なる宿泊所です。しかし、ここには集会室と道の仲間がいます。お結界はありませんが、辻井先生という動く結界取次の場があります。何でも相談してみてください。部屋にとじこもらず、集会室を利用して、みんなここで願いや悩みを言い合ってください。社会人として生きる力を養える場所であり、そして道の仲間は一生の友人となります。ぜひここからの東京学生寮をもり立てて、また新しい伝統を築いていってください。ありがとうございました」。(つづく)

息子の高校の一級先輩で、ソフトバンクホークス内野手の福田秀平君が初スタメン、初タイムリーをかっ飛ばした。今年3年目、1軍にあがって最初は代走だけだったが、先日の代打初打席はなんとわが中日ドラゴンズで金光大阪の吉見だった。その時は見事三振。

本人同志はお互いに全く知らないと思うが、私と息子にとってはこの二人の初顔合わせは縁を感じて感慨深い。吉見が明徳義塾戦で甲子園に出場した時、当時小学校だった息子と応援にいった。その明徳と横浜高校との練習試合を撮ったビデオを「3回も見た」とNHKの実況アナウンサーが話していた。そのビデオを撮影したのが私。間接的ではあるが、金光大阪高校の先生から御礼の言葉を頂いた。

福田君は多摩大聖ヶ丘高校時代、1年生からレギュラーで多くの学校の窓を何枚割ったことか。その遊撃手福田君の後を継いだのが息子。私は福田君最後の合宿の時からこれは絶対にプロにいくとふみ、ドラゴンズの帽子にサインをもらった。福田君最初のサインだ。

残念ながら今日の試合はセンターを守っており、前進守備の頭上を襲った強いあたりを足をもつらせて捕れず、途中交代となってしまった。もともとは内野手のところを外野手で、それももっとも難しいセンターだから出られるだけでも凄いと思う。

福田君は本当に優しい男で、高校の時から試合に前になると「お腹がゆるむ」とよく言っていたほどもともと緊張しい。交代でベンチに帰ってきた顔はやや青ざめていた。でも、いろんな経験を積んで是非とも活躍してほしいと願っている。ガンバレ、福田秀平!!

中耳炎

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最近当ブログ更新がなかなか前のようにいかず、楽しみにしてくださっている方にご迷惑をおかけし、またしっかりと校正できず誤字・脱字だらけで申し訳ない。万謝。

 金光教東京学生寮100周年開寮記念祭無事終了後、東京センターで主査として御用頂いている平和集会企画会議、平和活動プロジェクト会議等が重なり、その後勝浦教会大祭のため1週間ほど帰省。

 その関係で、寮に帰ってから100周年関係の会計等の事務処理におわれ、おまけに中耳炎なるものをこじらせてしまった。気を張っていたつもりだったが、この春の寒暖の差の激しさの前に体調を崩してしまった。

 東京から勝浦に向かう日からすでにのどが痛く、大祭前日には左耳が詰まってしまい、耳鳴りも激しく、熱も出た。耳がおかしくなるのは初めての経験。連休中でもあり開いている病院には耳鼻科がない。

 その後ますます症状が悪くなったので、連休中の4日に小金井市の休日診療が耳鼻科だったので受診した。カメラで耳の中を見るやいなや「中耳炎ですね、普通は2歳か3歳か、70歳から上の高齢者がかかる病気で、大変珍しい。ちょっとやっかいかな」と言われてお薬を出された。

 1週間後もう一度ということで、10日に受診。聴力検査をするとやはり左耳が弱っているとのこと。中耳に水が溜まり、さて「薬でもう少し辛抱するか、鼓膜を開けるか」で先生が悩まれ、「聴力が落ちているから切るか」となった。すぐに麻酔をして鼓膜に穴を開けて耳に溜まった水を吸い取ってもらった。

 その後、昨日も診てもらって若干はよくなったが、まだ少し詰まったような感じがしている。耳の病気は初めてだったが、現在知人が突発性難聴で入院ギリギリの状態の方もあり、また勝浦のご信者さんにも私の全く同じ症状の方がおられ、耳の病気が流行しているかも。

 そのようなことで、東京センター、東京学生寮両面の御用がなかなかスムーズに進まず、この後も少し間隔が開いてしまうことをお許し下さい。

 しばらく懇親の後、前寮監ご子息の中山和郎様のご挨拶につづいて、卒寮生各年代代表からご挨拶を大要次の通り頂いた。

中山和郎様 「父は、戦前の牛込東五軒町時代の金光教報国会東京学生寮寮監の御用をさせていただき、その後50年前の1959(昭和34)年立教100年の年から29年間この小金井の場所で寮監をさせていただき、全人生の約3分の1を学生の皆様と過ごさせていただき、本当に幸せであったと思います。その間のことをこのたび寮友会の方で出していただいた『笈を負う覚悟-綱領の精神 追悼偉大なる徳者中山亀太郎先生小伝」で詳しく紹介していただき、感謝しております。ここから110年、120年とさらに東京学生寮が展開いたしますようお祈り申し上げます」。

高橋行地郎氏(1960年・昭和34年入寮) 「『豚小屋』、『デモ』、『3億円』三つのことを申したい。あの佐藤宿老は神道金光教会学問所を豚小屋と呼び、豚小屋から人が育つと仰った。東京学生寮は昭和34年この地に新築されたが、なぜか2年目で雨漏りをするという状態だった。しかし、現教務総長を始め多くの人材が育った。
 次に『デモ』であるが、寮からも多くの寮生が参加した。その時に中山寮監は寮生の無事を真剣に祈ってくれていたことを後から知った。私も責任ある立場に立つことになり、ようやくその時の先生のお心を知ることができた。お礼が大変遅れたが、ご子息和郎様に深く御礼申し上げる。
 それから3億円事件。私は三人の子どもが全て私立大学であったが、子どもたちに『いまは事情でお金を引き出せないが、3億円あるから心配ない、大丈夫だ』と言ってきた。寮は府中市の隣の小金井市、土地勘があるということと銀行に勤めたことがあるということで、私は大谷の派出所で事情聴取を受けたことがある。(爆笑)寮を出たらお金の心配はいりません。必要ならばいつでも言ってきてください(笑)。ここからどんどん人材が輩出していただきたい」。

道満祥男氏(1968年・昭和43年) 「そこに来ている野上君は3億円のモンタージュ写真にそっくりです(笑)。私の寮生時代は、3億円事件、そして東大安田講堂事件、少し遅れて浅間山荘事件でほとんど大学がまともに機能していない時代であった。その分寮生たちとは本当によく交流し、一生の友人となっている。昨年出された『笈を負う覚悟』に私の名前で当時のことを書いているが、あれは実は丹波橋の教会の森本君が代筆したものなので、彼にも挨拶をさせてください」。

森本和道氏(1968年・昭和43年) 「おそらく中山亀太郎寮監に一番怒られたのは私だと思う。お風呂で大騒ぎしていたら、外で中山先生が「静かにしなさい」と言っている。私は誰かまねをして脅かしていると思いこみ、洗面器にお湯をためてバッシャとかけたら、何とご本人(大爆笑)。怒られました。また、バス通りにいまでもポストがありますが、当時あれは動きました。寮のところにあれば便利だと持ってきて寮の門のところに置いた(笑)。次の朝中山寮監が『誰ですか、これを持ってきたのは。すぐに返しなさい』ときつく怒られました。
 また、お広前の横の図書館を雀荘にしてしまい、中山寮監によく『麻雀の麻は麻薬の麻、気をつけてください』と注意されました。アホなことばかりしてきたが、いま思い出すのは、小金井教会にお参りする先生の後ろ姿である。本当にここでお育ていただいたとしみじみいまとなって感じている。ここからのさらなるご発展を祈っている」(つづく)

5月の月例祭・食事会

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※100周年のご報告途中ですが、昨日本年度初の月例祭を執行しましたので報告します。

 月例祭は私が祭主、教話は本年も関東教区青年教師会からの申請により、順番で教話を頂いている。昨日は早稲田教会菊川幸四郎先生から大要次のようなお話があった。

 「九州から東京の教会の御用をさせていただくことになった。最初は苦労の連続で、なぜ自分がこのような苦労をしなければならないのかと何度も思った。しかし、ある時ふとこれは自分だからこその神様から与えられた苦労であると思った。神様は絶対に無駄事はされない。みんなも色々と苦労と思われることが起きてくると思うが、神様は無駄事をされないと思い、ここから充実した学生生活、寮生活を送ってもらいたい」。

 本年度最初の月例祭、なんと30人の参拝者を得た。恐らく私が寮監として御用を頂いた20年間で一番多かったのではと思う。留学生のほとんどが参加、赤羽宿舎からも2人みえ、ありがたいことであった。

 そのようなことで普通なら、天地書附前に設置している八足などはそのままであり、机の島も一つで十分だったが、今回はすべて片付け、机も二島作った。在寮生の総数は27人で男性9、女性18人と初めて女性が男性の倍となった。やはりこれまでとは雰囲気が少し違う。

 いつもなら9時頃には部屋に帰り始める人もいて、だいたい9時30分頃までには中締めをしていたが、ここのところは10時30分頃まではほとんどの寮生が残っている。締めなければいつまでもつづく雰囲気。ありがたいことである。

 引き続いて、レセプションが集会室と外のテントにわかれて開催された。ちょうど私が入寮した昭和52年入寮生以降は外のテント。財団、寮関係者、先輩方は集会室にわかれての開催。集会室の模様は外のテント内に設けられたモニターで見えるようにしている。

 まずは、和泉一般財団法人金光財団代表理事のご祝辞、金光教教務総長代理坂浦運営委員のご祝辞、金光元正寮友会会長のご祝辞を頂いた。

 和泉代表理事祝辞要旨「幾多の存亡の危機を乗り越え、人材育成一つにかけてきた貴重な100年であり、今日留学生を受け入れている事実は特筆すべきことである。金光教徒社、光風館と三つの事業を持つ金光財団であるが、公益性の一番高いのがこの東京学生寮である。ここからのさらなる発展を願っている」。

 教務総長祝辞(坂浦運営委員代読)「空襲による喪失等数々の存亡の危機のなかで、歴代金光様御取次をはじめ、全教の祈りのもとに昭和34年斎場建設という財政事情厳しいなかにも同時にここ小金井市に寮が再建され、平成2年には装いも新たに現在の寮が新築された。この100周年を機に、単なる宿舎でない、人が育ち、育ち会う場としての尊い歩みをさらに新しい歴史を拓いてほしい」。

 金光寮友会会長祝辞要旨「今日のために一昨年に寮友会を再編成し、記念紙『笈を負う』の発行と昨年12月12日に80人以上の卒寮生を集めての祝賀会と二つの大きな事業を行った。今日までの卒寮生は800人を超え、世界人類貢献する人材を排出している。今日までの100年は人材の育成の基礎の時代、信仰理念に基づいた人材を形成する環境のもとで学問に励みながら感性豊かな人材を輩出してきている現実をみて、在寮生の皆さんには、この記念の年を機に自分たちは何をすべきか、次代に何を伝えなければならないかということを考えてもらいたい」。(つづく)

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