2005年1月アーカイブ

イラク国民議会選挙

| コメント(0)

昨日、イラク国民議会選挙が行われた。米国等概ね成功したとの評価であるが果たしてどうか。この選挙が宗派、民族などの各派間の政治的な議論と和解の始まりになればいいが、逆に宗派、民族間の色分けが一層強まったように見える。

 そもそも私たちが常識としている民主的な選挙が有効かどうか。大いに疑問ではあるが、今としては立憲主義のもと何とか和解への道をたどってほしいと祈るばかりである。ただ、この選挙で昨日だけで44人の方が亡くなった。命がけの選挙など想像もつかない。

 それにしてもここに至るまで米軍兵士約1300人弱、イラクの人々は最低10万人が殺害された。これはなにも自爆テロや武装勢力による襲撃の被害者ばかりではなく、空爆による無差別殺戮がその過半をしめているとの調査結果もある。何ともこれだけの方が亡くなる必要があったのか。そしてさらに犠牲者を増していいのか。何とか英知を結集してほしい。

パソコン導入

| コメント(0)

 パソコン、いろいろと手を尽くしたがピー、ピーとますます変な音となり、いよいようんともすんとも言わなくなってしまった。業者に問い合わせると修理の必要あり。保証期間が過ぎており、修繕費も修理日数も結構かかるとのこと。

 2月1日に財団本部から職員が決算事務に来寮し、通帳や現金の確認、そして前にも書いたが今年から会計事務が変更になる。それまでにどうしてもパソコンが必要とのこと。

 現在は息子の雄生のパソコンで対応していたが、いろんなソフトやデーターを強引に入れてしまったのが原因か、時々再起動を繰り返すという暴走が始まってしまった。そのようなことで修理にもお金が掛かるということで、今回新しいパソコンの購入が許された。

 時間的余裕がないのでまたまたI・O先生にすがりつき、秋葉原につきあってもらった。そしてペンティアム4、512MB、80GBで46.800円と超お買い得のパソコンが購入できた。OSインストールにもご尽力いただき、無事決算事務に間に合った。感謝、感謝の日々である。

ギター

| コメント(0)

 いま、ギターといえばすぐに「ギター侍」が思い浮かぶが、中学の吹奏楽部を終えて、トランペットをやめた息子が今度はギターに目覚めてしまった。私と妻のもう何年も使ってないギターを引っぱり出してきて、新たに弦を張り替えて弾いている。ついこの間はFコードもろくに引けなかったのが、いまや結構難しいコードも覚えてしまった。

 ギターといえば、私も30年前(なんと恐ろしい響きである)、「キャロル」や「チューリップ」、もちろんフォーク全盛の時代で中学でフォークギター、高校でエレキギターをもった。お金もないのにどうやってもてたのか。確かローンを組んだように思うが。そのギターを息子が弾いている。エレキは超安物だったのでおそらく使いものにならないだろう。

 私の栄光は、後にも先にも高校の文化祭のみ。体育館にすし詰めの客を集めて、ロックン・ロールでのりにのった。他校生徒も多く、ステージに上がってきて踊り狂う人もいった。リードギターのK君の弦が切れた時、私のリードで即興ロックン・ロールでつないだことも忘れられない。アンコール責めで持ち時間を大幅に超え、生徒会から電源を切られてしまい、ようやくに終了した。いい思い出である。このように過去の栄光にすがるようになってはおしまいだが。

「林」と「森」はどう違う?

| コメント(0)

「森」と「林」の違いがわかる?
と、今、東京センターでO先生が聞いてきた。それを聞いて思い出したのが、数年前、前東京寮運営委員長のK先生と旅行する機会があり、先生が同じ質問をされことだ。その時は、漢字の字のごとく、「こんもり」とした方が森で、「林立」しているのが林であると答えたような気がする。

 実はK先生もそのことで悩んでいたようで、本当の答えはわからず、私の答えにも納得いかない様子であった。帰って辞書を調べようと思い、ある時ふと思い出して岩波の国語辞典を引いて見たが、森は「木がたくさん生え茂っているところ」、林は「木がたくさん集まって生えているところ」と書いてあり、全くその違いがわからなかった。

 O先生、規模や漢字の表記ではなく、音の方を考えろという。「鎮守のもり」とはいうが「鎮守のはやし」とはいわない、「杉ばやし」というが「杉もり」とはいわないと得意げにいう。色々答えたが、近くなったり遠くなったり、結局降参。これはタモリの「笑っていいとも」でやっていたそうで、見た人もいるかもしれないが、みなさんわかった?

 答えは、人間の手が加わったのが「林」で自然にできたのが「森」ということ。「生やす」とは人間の手で生やすもので、そこから「林」となり、森の方は「もりもり」自然に生えるから「森」だそうだ。K先生もこれを聞くと納得すると思う。

会計事務

| コメント(0)

 東京寮の会計事務は、最初いわゆる単式簿記形式で処理していたが、いつの頃からか複式簿記での処理になった。といってもその理屈はよくわからず、教えられるままに事務処理をしていた。

 そしてこれまでの方式は、本格的な複式での処理ではないとのことで、本年度から本格的な複式による会計処理を行うようご本部から指示があった。郵便振替による寮費の納入が、当月分より早く納める方、また遅れる方もいる。また、社会保険料や光熱水費の精算も当月分からどうしても月がずれてくる。また、手数料が寮もちになっているので、その精算など結構ややこしくなることなどの理由からの変更だ。

 それにより、「未収金」「未払金」「預り金」「前払金」「前受金」とそれぞれにその精算分の形10個のゴム印が増えてしまった。一度説明を受けたが、これが分かったようで分かってない。そろそろ1月分の処理をしなければならない時期。2月1日には2004年度決算事務のためご本部から担当課員が来寮する。がんばらなければ。

三宅島島民帰島ボランティア

| コメント(0)

 昨日は、「三宅島島民帰島ボランティア支援活動」事前研修会があり、金光教東京センターから5人参加した。このボランティアは、2月から7月までの間、1週間島に入って活動するものである。

 当然のことながら三宅島ではまだガスが噴出し、決して安全な場所ではない。そのための事前研修会で、これを受けなければ島に入れない。今後20回予定されている。第1回目は予想を遙かに超えた140人が参加していた。

 内容は、支援センターの活動経過や三宅島での支援事業の説明、慶應大学大前和幸氏の火山ガスに対する安全確保対策「リスクコミュニケーション」についてのお話、ガスマスクの装着訓練などであった。

 金光教はこの研修会を主催した三宅島災害東京ボランティア支援センターへは協力を重ねてきており、司会によるリーダー確認の時に団体名として「金光教」と言ってもらい、非常に嬉しかった。

 マスコミも多数来ており、テレビのニュースや今日の新聞で報道されている。新潟でも本教関係者のボランティア活動が日本テレビの「ザ・ワイド」で、本教信奉者4名による仮設住宅の雪下ろし作業の様子が放映された。昨日も私の前に座っていたT先生が、あのフジテレビの「めざましテレビ」の取材を受けたのに、なんとなんと断ってしまった。残念。

 私は2、3月は参加できそうにないが、その後ぜひ参加したいと願っている。もし、この期間1週間活動できる方は、ぜひ連絡下さい。

人もわが身も皆人

| コメント(0)

「人の身が大事か。わが身が大事か。人もわが身も皆人」という金光教祖の教えがある。。かつてはよく、この教えは、わが身のことよりも人の身のことを大切にしなさいという教えであると聞かされたし、自分もそう考えていた。

 しかし、そうであるならば「人の身が大事か。わが身が大事か」の後に「わが身よりも人が大事」とくるのが普通であろう。「人もわが身も皆人」というこの独特の言い方は、本教信仰の本質である「あいよかけよ」の関係をいっていると思う。つまりは、わがために他を利用するのではなく、また、他のために自分を犠牲にするものでもない。

 さらにそうした行動規範的なものでなく、助かりの本質が「あいよかけよ」でなければならないといえるのではないか。他が助からなければわが身も助からず、わが身が助からなければ他も助からない。今、難儀を抱えながらつくづくわが身、わが心が和賀心にならない助からなさを反省している。そこがしゃんとするときっとおかげになると思う。

災害への備え

| コメント(0)

 大災害が起きるたびに、日頃からの備えや対策が叫ばれる。しかし、私は本気でその対策をしているのだろうかといつも疑問に思う。確かに不安な個人はいろいろと防災グッズを備えたり、家具の配置や転倒止めなど気を使っている。それは大事なことであるが、それがどの程度されているのか。私個人もなかなかできていない。また社会全体として、地域の行政としてや町会としてどの程度具体的に対処しているかと問うてみると、はなはだ心細い。

 寮監として赴任して十数年間、三回の停電があった。いずれも夜。電気が止まれば致命的である。しかし、これが不思議とみんなパニックにならなかった。あわてて動き出すのは1人か2人、ほとんどの人が在寮しているの時間なのに結構冷静であったのは驚きであった。

 ただ、これも数時間で回復している。災害時はこうはいかないであろう。寮も一時はいろいろ考えていたが、在寮者全員をカバーするようなお金もなく、場所もない。最悪を想定しての対処方がいるのだが、できることは限られる。例えば水がとまればたちまちトイレにも困る。これ1つをとってみてもはてさてどうするか。いろいろ考えているが、心許ないのは事実である。

パソコンの不良

| コメント(0)

 パソコンが不調になったのはもう何回目だろう。「安物買いの銭失い」を地でいっている。少ない予算で最高の機能を目指すと、どうしてもあまり大手の会社でないものをねらう。その会社のものすべてが悪いのか、たまたま自分のがあたりが悪かったのかわからないが、修理はすでに三度目だ。

 今回のは特にひどく、もう直らないかもしれない。おかげで別に覚えようと努力したわけでもないのに、結構パソコンの構造に詳しくなった。その都度なるほど良くできているなと感心する。メモリの不良に始まり、マザーボードまでいかれた。今回もおそらくそこかもしれない。

 幸いにして、息子がおじいちゃんから譲り受けたパソコンで何とかなっているが、慣れないので不便きわまりない。ただ、その都度対応してくれるO先生にはいつもご迷惑ばかりかけている。この場を借りて深く御礼申し上げたい。なかなか新調はできないが、安くて性能が良く、さらには壊れにくい製品を出している会社を知っていれば紹介いただきたい。

交番の掲示板

| コメント(0)

 東京寮から東京センターに行くとき、二つの交番を通る。その掲示板の交通事故の死者数と負傷者数の数字を見るたびに心が痛む。都内で死者数はだいたい毎日1人ないし2人。負傷者数は500人前後。何ともやりきれない。

 「交通事故」という言葉は、何か悪いことが起こったときに「それは交通事故みたいなもので仕方がない」といったニュアンスの非常に軽い言葉に使われることがある。しかし、実祭の交通事故の現場やその後の人生はそんな生易しいものでないことは容易に想像できる。

 被害者も加害者も一瞬の油断や過信で人生が暗転する。悔やんでも悔やみきれないであろう。掲示板の数字を見ながら、その1人ひとりの心情を慮る。私が車の運転が嫌いな理由がここにある。なるべくなら車の運転はしたくない。

(再掲)戦闘的平和主義者

| コメント(0)

「私は平和主義者である。だが、ただの平和主義者ではない。戦闘的平和主義者である。自分が納得できないことのために戦争に赴いて死ぬより、自分の信ずるところにしたがって死ぬ方がよい」      アルバート・アインシュタイン
 (『ヒトはなぜ戦争をするのか?』ーアインシュタインとフロイトの往復書簡より)

 「私もこうなりたい」と心に強く響いてくる言葉である。「戦闘的」という表現が凄まじい。私たちの世代には、「闘う」とか「闘争」という言葉に違和感を持つ人が多い。今の時代、例えば革新政党や労働組合における「○○のために○○を勝ち取ろう」とか、「闘い抜くぞ」という表現が、平和を願っているのになぜ戦うのだという素朴な疑問がある。

 しかしこれらの言葉の背景には、平等とか差別とかの観念が全くない奴隷社会や封建社会から、血みどろの「闘争」を経て、今では普通となっている人間の権利を勝ち取ってきたという歴史がある。アインシュタインがフロイトに書簡を交わしたのは1932年。あのナチスが権力を握り、アメリカに亡命した前年である。余程ナチの脅威が差し迫っていたのであろう。

 そう思うと「戦闘的」という言葉もうなずける。ただ、後段の「戦争に赴いて死ぬより、自分の信ずるところにしたがって死ぬ方がよい」と、いずれにせよ死ぬ覚悟がある。これは「暴力に対して暴力で抵抗する」という意味ではなく、また逆に「無抵抗服従」でもなく、「抵抗不服従」の決意を示していると思う。ここをよく腹入れすれば、「勝ち取ろう」とか「闘い抜くぞ」というような空疎な言葉ではでないであろう。今後は、実質的な実行力ある平和へのアプローチがいよいよ必要であると痛感している。

人体の不思議展

| コメント(0)

(皆様には大変ご心配をおかけし、申し訳ございません。パソコンの前に座る時間もままならず、当たり前のことがいかに「有り」、「難い」ことか改めて思わせていただいております。皆様にもいろいろと聞いていただきたいのですが、さすがにこの場では書くことができず、本当に残念であります。そのようなことでなかなか更新できないことをお詫び申し上げます)

 そのような中で昨日は、家族で東京国際フォーラムで開催されている首標の展示を見にいくことができた。この日は会期延長前の最終日で、ものすごい人であった。人体を輪切りにしたものもあり、なんともグロテスクなものであるが、みんなあまり恐がらず見入っている。

 私はこれが本当の人間であったと思うと、なんとも本当にこれでこの方はいいのだろうかと思ってしまった。そうした疑問をみんなはどうなんだろうかと展示物を見るよりは、見ている人の顔をなぜか観察してしまった。

 その夜の東京寮月例祭でもお話させていただいたが、このタイトルの「不思議」について、何が一体不思議なのか、それぞれに思うところがあるだろう。生命の神秘はもちろんのこと、私が一番不思議に思うのは、本質的には人間もコンピューターも物質、つまり物であるのに、この両者が決定的に違うのは、なぜ人間には心があるのかということである。

 医学や生命科学は、いよいよ神の領域に足をつっこうもうとしているが、その根本のところは絶対に人知では知りがたいものであると思う。それを理解したように振舞ったとき、大いなるしっぺ返しを食らうのではないかと今から心配が先にたってしまった。天地の道理への謙虚さを失った時、人類も終わってしまうだろう。

災難に逢うがよく候

| コメント(0)

 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。ただ、世界でも日本でもまた私の足下でも昨年からまさに災難つづき。なかなかおめでとうというには、気の重い日々を過ごしている。
 年始初っ端からこのような暗い内容で何とも申し訳ないことである。

 良寛さんは「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがれる妙法にて候」と言っている。ただ、災難にあっている渦中は本当に辛いものであり、人々の難儀がここにきて本当に辛いだろうなと実感させて頂いている。

 私が金光教学院在学中、その修行の最後の方で学院生の修徳殿入殿がある。その時の休憩時間、修徳殿の縁側で輔導であられ九州のY先生の一言がなぜかずっと忘れずに頭の中に残っていた。修行最後で気負って質問していたのだろうと思う。先生は、「信心はするものではなく、必ずさせてもらえるものである」とおっしゃった。

 そのお言葉を今まさに私の脳髄にしみこんだ感覚をおぼえている。良寛さんやわが教祖様の「難はみかげ」を頂き、今まさにここが信心のしどころである。

 (ただ、誠に申し訳ないことに、いろんな御用、事務処理が後回しになってきており、なかなか取り組めないようなことで、当「思うがままに」もほぼ毎日更新させて頂いてきましたが、ここしばらくはお休みないし間隔があくと思われます。しばらくはお許し頂きますようお願い申し上げます)

2012年4月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

最近のコメント

このアーカイブについて

このページには、2005年1月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2004年12月です。

次のアーカイブは2005年2月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カウンター

累計:
本日:
昨日: