2010年8月アーカイブ

なんと完投負け(T_T)

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 昨日は横浜対中日戦を見に行った。息子が高校の時のチームメイトのお父さんのご配慮での横浜スタジアムバックネット裏のいい席で見せていただいた。勤め先の関係で券が入るらしく、昨年に引き続いて2回目。そして何とも2連敗。

 昨年はすでに上位に離されており、またその試合も点差を広げられての敗戦でショックも少なかったが、昨日は絶対に勝たなければならない試合を、横浜より倍の10本もヒットを放ちながら完投負け。投手が完投にして負ける試合はそうそうない。

 試合は17時開始であったが、打撃練習を見ようと、まだまだ日差しが容赦なく照りつけている15時に球場に入った。暑い。ちょうどブランコの打撃練習中。監督に似たはげた人がいると思ったら、なんと落合監督。つきっきりでの打撃指導。いい当たりもあるが、続かない。

 相手投手は大家。こちらは中田。普通にいけば勝てると思ったが、一抹の不安が残っていた。的中。隣は熱狂的な横浜ファンのおじいさんが気合いを入れてみている。私は完全に気合い負け。相手が「勝って下さい、勝って下さい」と見えないミスを連発するのに、こちらは見えるミスでお返し。勝てる試合を落としてしまった。

 これで優勝するのはおこがましい。この時期最下位チームには、もう横綱相撲で勝たなければならない。前頭7枚目くらいの勝負をしていたら全くだめである。と、そんなことをつらつら思いながらの帰路は長い、長い。関内から武蔵小金井まで、勝てばあっという間の約2時間だが、負けたら数倍にも感じる。ただ、ただ暑かっただけの出来事だったが、まだまだ何とか・・・・。

 昨日は、四谷区民ホールにおいて、金光教東京センター・金光教東京都教会連合会主催の公開シンポジウム『よりよい未来へ』-いま、求められる教育とは-が開催された。参加者は約100人。

 内容は、金光学園校長の佐藤元信先生の基調講演『見えないもの見る』、近代史に造詣の深い作家保阪正康氏の『先達の足跡に学ぶ知恵-歴史を語り継ぐ精神-』、上原泰男東京災害ボランティアネットワーク事務局長の『被災者支援の現場から-いのちと暮らしの支えあいを共に学ぶ-』、元金光大阪高校宗教教育科教師の近藤和明金光教小坂教会長の『心を育てる 神心を現す』、との3氏の発題の後、保阪氏コーディネーターにより、以上4氏によるパネルディスカッションがあった。

 私は受付と外の会場係だったため、しっかりと聞くことができず残念であったが、時々中に入って聞いた感想として、それぞれ立場の違う方から非常に興味深い発題がなされ、それを「いのち」と「教育」というテーマに絞り込んで、保阪氏が自分自身の意見を述べつつ、なおかつ他の3名のバネラーの方の意見を引き出しながら、焦点がぼやけることなく討議が進んでいったことに感心した。

 全体で4時間30分という長短場のシンポジウムであったが、参加者数名の方から、「非常によかった」とのお言葉を頂いた。また、ある宗教ジャーナリストの方が受付をしていた私に「このテーマはやはり4時間必要であり、非常によい意見が多く出され刺激を受けた」と仰っていただいた。

 反省点も種々あると思われるが、とりあえずご報告まで。

 

「みのり」に参加

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 昨日、「みのり」に参加した。夏期の参加は初めて。普通なら26日ともなると秋の気配が漂っている頃だ。ところが昨日は猛暑。熱中症が怖く心配であったが、いつもと違い平日の木曜日、作業量の割に人が少ないことが予想されるので、参加させていただいた。

 参加していたある女性の方が、「熱中症は自分でも気がつかないうちに、かなり重症になっていることがあるから注意しなければ」と仰っていた。ところが、農家の方やご近所の方は、ほとんど休憩なしに黙々と作業をされている。そして、早くてきれい。

 作業内容は、サツマイモの蔓をより分けて、その中に生えている草を抜くもの。畑の中を入っていくが、しゃがんだり、立ったりしなければうまくできず、相当にしんどい。すっと立ったときにマジでクラッとくる。

 何とも私が一番休憩が長く、何度もとってしまった。おまけに遅くてがさつな作業。お茶も短時間で多く飲んでしまい、おなかがチャポンチャポン。日頃の不摂生がたたる。それでも何とかご用にはなったかと思う。

 これまで大いに実った作物を頂くばかりであったが、これは天地のお恵み、日頃の大変つらいお手入れがあってのおかげだと、改めて思わされた作業であった。次は、11月の収穫祭。里芋共々できばえが楽しみである。

「よけいなものは手放す」

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 「よけいなものは手放す」。昨日とは正反対のことを言うようだが、少し前にやっていた「曲げられない女」というドラマの主人公菅野美穂さんの台詞を思い出した。いい言葉だと思わずメモっておいた。

 「人って1回失ってみないと、本当に大切なものが分からない。生きるってもしかしたら、よけいなものを捨てて本当に必要なものを大切にすることなのかもしれない」

 それから私がカラオケでよく唄う松田聖子の「制服」の歌詞も思い出した。

 「失う時 初めて まぶしかった時を知るの♪♪♪」

 「当たり前のことが当たり前でないこと」、「当たり前」が輝いて見えるという経験は、失う時に初めて味わうことができる感動ではないかと思う。

 失うことは辛く、苦しいものだが、あらかじめよけいなものはできるだけ手放し、当たり前が当たり前でないと常々思っていれば、辛く、苦しいこと、悩むことも早く乗り越えられるのでは。そして人生の本当の大切なところを早く知ることができ、充実した人生が送れると思う。

もらえる物はとりあえずもらう

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 ご本部布教部時代、ある方が「これもう使わないからあげる」と言われたが、遠慮して丁重に断ったことがあった。結構高価なものだったと記憶している。

 それを見ていたある年輩の先生が近寄ってきて、「辻井君、もらえるものはとりあえずもらっておいて、しかる後にどうするか考えればいいんだよ」と。

 なるほど、仰るとおりと思った。しかし、内心それでは物はたまる一方で、捨てるということはなかなかできないしとも思っていた。

 そしてあるとき閃いた。といってももう相当後ではあるが、先生の真意に気がついた。先生は物について仰ったが、これは物だけではなく、人の話もそうだと。

 「人の話はよく聞いて、一応それを腹に入れて、そのなかから善いものと悪いものとをえらぶがよい。初めから聞かないで拒んではいけない。また聞くのはよいが惑ってもいけない」という文章に出会ったからだ。

 なるほど物だけでなく、何でもとりあえずは受けていく。私は初めから聞く耳を持たないことはないが、いろんな相談事を受けるときに、ついつい聞くということがおろそかになり、我慢できずに説教になってしまうことがよくあった。

 これでは、結局その方にとって何の解決にもならず、真の助かりもない。まずは腹入れする。物ももらう。この精神が大事だとあれから30年近く経って改めて思う。

母の5年祭の思う

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 「母の5年祭で勝浦に帰っていた」と言うと、みんな一応に、「え、もう5年も経ったの?」と返ってきた。「時が経つのは早い」という言葉をなるべく使わないようにしてきたが、本当にあっという間の5年だった。

 今でも明確に覚えているのは、その年の9月に国際センター主催の「教義に関する会議」に出席中、父親からの電話で「膵臓がんでもって3か月」と聞かされた。それから11月23日の勝浦教会の大祭まで母は激痛を我慢して家にいた。私は離れているのでよくわからなかったが、相当ひどかったらしい。

 大祭を終えて、さすがにどうしようもなく入院した。何とか正月まで待ってほしい、孫の顔も見てほしいと願った。しかし、東京に帰るときにこれで見納めかと思うとすぐに帰ることができず、「じゃあ、正月くるね」と別れながら何度か引っ返した。お薬でややもうろうとしていた母は、何度か引っ返してきたことを意識していたかどうか、合掌した姿で「ありがとね」と言った。それが私との最後の言葉となった。

 この欄で何度も触れたり、教話で話させていただいたが、万事にご都合お繰り合わせを頂いたと思う。病院嫌いであった母が、数年前からは糖尿で病院に通っていた。それなのになぜわからなかったのか。痩せてきたときになぜ気がついてあげられなかったか、と悔やんだ。

 しかし、膵臓がんは完治は難しく、手術をしてもなかなか普通の状態に戻ることができず、苦しむと聞いた。もし、発見が早かったとしても手術で体を傷つけ、闘病生活も長引いたことだろう。それを思うとこれでよかったのだと思う。

 私は金光学園に入学したため、母と中学の時から離れている。だから、生きていたときよりも亡くなってからの方が不思議と身近に感じている。私がいつもチャチャを入れにいってからかったりすると、「やっちもない」と言われた。少し弱気のことを言うと、「なにくそでいけ」と励まされた。まだまだこの声は実際に聞こえてくる。5年経ってもまだ母は生きている。

大戦後65年の夏に思う

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 大戦後65年を迎えた今年の夏は、テレビや新聞で「戦争と平和」をテーマにした特集番組や記事が多かった。今夏は勝浦に帰省したため、ハードディスクにほとんど録画した。これからボチボチ見ていきたい。

 その大戦後65年の特徴として、今まで沈黙してきた体験者たちが、意を決してその体験談を話し始めたことだ。あちこちのテレビや新聞が報道していた。ではなぜ語らなかったのか。それは語れなかったということなのだ。一言で言えば、「負い目」である。 

 戦陣訓により「生きて虜囚の辱めを受けず」と徹底的に教え込まれ、「悠久の大義に生きろ」、つまり、死を強要された。それは兵士だけでなく、一般の国民までその精神が徹底された。多くの人が国のために死んだのに、自分だけがオメオメと生きておっていいのか。その罪悪感から「自分には話す資格もない」と押し黙ったのだ。

 数年前、東京センターの「平和セミナー」で、多摩地方の戦績を回り、その後、関口さんと服部さんに寮の集会室で戦争体験を語ってもらった。服部さんは、終戦当時理科系の大学生で応召を免れた。昭和20年がちょうど20歳で、すぐ上の世代や同級生たちの多くが死に、そしてB29に体当たりして死んでいくのを目の前で見ていた。

 私は戦争の不条理さの一つとして、「戦争は若い方から死んでいく」ということを伝えたくて、服部さんに「是非そこのところを強調して当時の様子を聞かせてほしい」とお願いしたことがある。しかし、その服部さんでさえ、「自分はたまたま理科系だったことで生き残ったのであり、そのことをあまり話したくないし、人からも指摘されたことがある」と仰った。

 この時に、私は初めて戦争体験者の皆様の本当の苦しみを知ったような気がした。そして語ることがどれだけ勇気のいることであり、そして語られた言葉は何事にも代え難い貴重なものであるということを初めて腹入れができた。大戦後50年の時には、まだそこまでの認識はなかった。

 そして今、なぜもっとちゃんと亡くなられる前に聞いておかなかったのだと悔やんでも悔やみきれない方がいる。それは芝教会前教会長大場正範先生だ。ご葬儀の時の友人の弔電で初めて先生の真実を知り、それがすでに『生きる』というご本に少し触れられていたこと。平和集会の行進に必ず参加してくれていたこと。その当時にこちらの認識がもっと深まっておれば、よい質問もできたであろうにとつくづく反省している。

 だからこそ、語られる貴重な体験を真剣に聞き取り、人類の体験として次の世代に伝えるべく努力しなければならないと改めて思わされている。娘から「お父さんって、本当に戦争が好きだね」と冷やかされようと「また始まったか」と言われようとも、この後もずっと戦後であり続けるよう触れ続けていきたい。 

 昨日17日朝、勝浦から無事帰寮した。行きも帰りも夜中に走ったため、渋滞は免れた。妹一家6人も一足先に勝浦に来ていた。滞在中、母の5年祭、木の伐採、池の清掃等々、暑い中、なかなか大変であった。

 その間、妹のご主人が釣りが好きなことから、息子は2回、私は東京の帰る日の早朝1回だけ付いていった。朝5時、教会からは北側になる「那智の浜」の勝浦よりの砂浜でのキス釣り。第1日目は大型のキスを含め6匹ほど釣れており、塩焼きは美味だった。1日遅れで勝浦に着いた息子が勢い込んで第2日目に参加、フグだけとさっぱりであった。

 さて、3日目。すでに二人の方が釣っていた。朝散歩のギャラリーも多く、甚平姿の私も結構通に見えるらしい。しかし、さっぱり当たりも来ず、餌さえとられない。30分ほど経った頃か、地元の人らしき男性の方が、那智方面から走ってくる。

 「鯨が浅瀬に打ち上げられ、ケガをしている。助けてやりたいので手を貸してほしい」とのこと。私たち3人と前に来ていた2人の5人で那智方面へ向かう。だんだんに多くの人が集まってきている。

100816_0549_021.jpg 100816_0549_012.jpg 一番年輩そうな方が助けようと海に入っていき、それにつられて数人が海へと入っていく。私も携帯で写真を撮りながら近づく。暴れている鯨に下手に近づくと危ない。鯨の腹は血でピンク色に染まっている。

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100816_0550_014.jpg 数人の方が一生懸命頭を沖へ向けて誘導し、ようやく深みまで進み、泳ぎだした。これで大丈夫とまた勝浦方面に戻り、キス釣りを続けたが、今度は目の前十㍍くらいのところまで姿を見せ、那智方面と勝浦方面の間を行ったり、来たり、完全に方向を見失ってしまったようだ。パトカーもやってきたが、見ているだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20100816065100_1_.jpg さすがに鯨に目の前を泳がれるとキスなんかはどこかに逃げてしまったのだろう、結局最後まで当たりもなし、餌もとられないという完全ぼうずであった。鯨が無事沖合に出て行くことできるようお願いしながら帰ってきた。キスはさっぱりだったが鯨を助けるという、そうそう体験できることではないことを体 験することができた。これはこれで有意義であった。

母5年祭のため帰省します。

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 母快子の5年祭のため、今日の夜から17日の夜までの予定で勝浦教会の方に帰省します。また、しばらくお休みします。どうぞ、皆様もよい夏休みを。

第28回金光教東京平和集会 終

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DSC_0073.jpg 大人のひろばと同時にいずみホールでは、「子供のひろば」が開催された。子どもたち一人ひとりが、平和に対する思いを絵に描いてアピールしようということで、今日の講師である水速さんの指導のもと、平和行進に使用する横断幕などの作成をした。

 横断幕は、中央に「We wish Forever Peace」と書かれ、あらかじめスタッフが白抜きで描いておいた絵に着色した。それぞれに思い思いの色を塗ったり、どの色がいいか相談しながら塗ったりと、お互いに和気あいあいと作業を進め、カラフルな横断幕が仕上がった。

 街宣車に貼るための模造紙には、「平和が永遠に続きますように」という意味の韓国語、中国語がそれぞれ書かれてあり、そのまわりにそれぞれがイメージする「平和の絵」を描いた。笑顔の人や、太陽、きれいな花など、マジックやクレヨンなどの画材を使用して時間いっぱいまで描き続けた。
 最後に、「祈りのつどい」にお供えする小旗に平和の願いやメッセージを参加者全員に書いてもらった。

DSC_0112.jpg 引き続いて平和行進。炎天下の中、金光教館(金光教東京教会)から千鳥ヶ淵戦没者墓苑まで約三キロのコースを老若男女約八十人がプラカード等を掲げて元気よく行進した。
 今年も中国や韓国からの留学生も参加し、「平和な世界をめざそう!」「いのちを大切にしよう!」「子どもたちに平和な世界を!」とのシュプレヒコールや日本語、英語、韓国語、中国語による金光教の平和アピールを行った。

 

DSC_0206.jpg 千鳥ヶ淵戦没者墓苑では、「祈りのつどい」が開催された。まず、首都圏信奉者有志により結成された平和合唱団による「献歌」の調べの中で、参加者全員による「献花」と「子どものひろば」で作成した小旗を子どもたちの代表がお供えし、参加者代表による「献水」の後、黙祷が行われた。
 続いて、金光教東京学生会会長の辻井雄生が「平和への誓い」を奉読した。(後掲)
 最後に全員で「平和の祈り」を奉唱し、小柴実行委員長が挨拶し、散会した。(おわり)

DSC_0226.jpg 誓いの詞
  先の世界大戦で無念にもいのちを落とされ、ご遺族のもとにお帰りになれなかったここ千鳥ヶ淵戦没者墓苑の35万柱の御霊様を前にして、心から哀悼の意を捧げます。
 私たちは先程の「戦争体験紙芝居」や「大人のひろば」で、「戦争の本質」、「戦争の不条理さ」を学びました。その一つに「戦争は若い方から死んでいく」ということがありました。
 まさに今から 67年前の昭和18年、私と同じ大学生たちが、不足する兵力を補うために「学徒出陣」として出兵し、多くの方々が犠牲となられました。それを思うと、現在の恵まれた豊かさの中で、勉強ができるありがたさが身にしみ、感謝の念で一杯になります。
 しかし一方で、貧困や飢えで苦しんでいる人々や、戦争で犠牲になる人々が世界にはいまだに沢山おられます。今、このたった今でさえ神様のいとし子同士が、傷つき傷つけ合っていることを、神様はどれだけお嘆きのことでしょうか。犠牲となられた御霊様もまた、いまだに戦い、相争っているありさまに、深く心を痛めておられることでしょう。
 私たちは金光教人として、歴史の教訓に学び、行動し、危機の時代における歴史的責任を果たすため、「暴力の均衡による安定」ではなく、世界の人々が「手を取り合い」、「話し合い」、「助け合っていく」ことのできる「世界真の平和」を目指して努力することをここに誓います。
 どうぞ御霊ながらにお導き下さいますようお願い申し上げます。

                                     2010年7月18日
                                      金光教東京学生会会長 辻 井 雄 生

第28回金光教東京平和集会 7

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 戦争の本質、実際の戦争とは、「人間の体を切り裂き、えぐり、貫き、砕き、断ち切って、おびただしい流血を強いる」ことであり、「殺し、殺される」こと、「焼き、焼かれる」こと、そして大量殺人であり、「痛くて、臭くて、心細くて、腹が減り、辛くて、苦しくて、悲しい」ものである。
 
 それから、戦争は死ぬだけでなく、心身ともに後遺症で苦しみ、一生を棒に振る方もおり、被爆の被害は孫子まで残ると言われる。そして家族を巻き込み、崩壊させる。戦争は1回起こしたら50年、100年終わらないのだ。


 以上から、私たちは「決して軍隊は国民を守らないこと」。指導者、権力者は常に安全地帯にいて、軍産複合体の構造の中で指導者のみ儲かるということ。被害者は、敵も味方も一般民衆であること、

 すべての争いが「私は正しい、悪いのは向こうだ」という考え方から出てきているので、そうではなく相手の立場で考えていく視点を持つということ、それから最近「記憶の共有」という言葉がよく言われている。国家の加害、被害を越えて世界人類として、同じ一人ひとりの人間の目線で、歴史の共有を目指すことを教訓にしたい。

 これは今日も少し触れた沖縄の基地問題もしかり、もし自分が沖縄に住んでいたらどうなのか?他人事ではなく、自分のこととして答えを求める姿勢が大切ではないかと思う。

 最後に、私たちは幸いにも、戦争を完全に否定してる世界唯一の憲法を持っている国に住んでいる。神様の子ども同士が相争うことなく、世界人類のかけがえのないひとりの人間として、暴力を普遍的に否定していく確かなメッセージを発していく努力が必要だと思う。

 それから今日はあえて悲惨な写真、おぞましい光景の写真はいろいろと問題があることから使用しなかった。しかし、インターネットや写真集などで戦争の実態が公開されているので、それぞれのところで見ていただきたい。プログラムにこちらでわかる範囲で、お勧めの写真集、お勧めの映画や今回参考にした書籍やその大事なところを抜粋したものを掲載させていただいているのでご参考までにお読みください。

参考1 『戦争プロパガンダ10の法則』アンヌ・モレリ
(1)「われわれは戦争をしたくはない」
(2)「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」
(3)「敵の指導者は悪魔のような人間だ」
(4)「われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う」
(5)「われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為に及んでいる」
(6)「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」
(7)「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」
(8)「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」
(9)「われわれの大義は神聖なものである」
(10)「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」

参考2 『戦争絶滅請け合い法案』
(20世紀初めにデンマーク陸軍大将フリッツ・ホルムが起草。日本では1929(昭和4)年に長谷川如是閑が紹介)
戦争が始まったら10時間以内に次の人から最前線に一兵卒として送られる。
第一に国家元首。
第二に国家元首の男性親族で16歳以上の者。
第三に総理大臣、国務大臣、官僚のトップ。
第四に国会議員(但し戦争に反対した議員は除く)。
第五にキリスト教その他の高僧であって、公然と戦争に反対しなかった者。

参考3 「実際の戦争はいまも昔も同じ」
 「島本慈子『戦争で死ぬ、ということ』(岩波新書、2006年)」から抜粋
2003年、ジャーナリスト綿井健陽氏が体験した戦争現場
 「私がバグダットで取材した「イラク戦争」の実像とは、破片が人を殺していくということだった。ミサイルや砲弾の小さな、ほんの小さな破片が人を殺傷していく。空爆の恐怖や被害は、ミサイルや砲弾が直撃することだけでない。炸裂した爆弾の無数の破片が周囲数百㍍にまで無差別に飛び散る。そして、その砲弾の、小さな、ほんの小さな破片が、頭に突き刺さり、内蔵をえぐりだし、四肢を奪い、目を潰す。それが「ピンポイント爆撃』や、『精密誘導爆弾』の実態だ。
(綿井健陽「フリージャーナリストの戦場取材-イラク戦争の現場から」

1945年、憲法学者久田栄正氏(故人)が体験した戦争の現場
 「ブウーン」と唸りをあげて砲弾の破片が飛び散る。破片は、夕方前に降ったスコールの水溜まりにジュウンという音を立てて突き刺さりました。すぐ目の前でしたので、その破片を拾い上げてみた。真っ赤な破片が一挙に冷やされたので、青みがかった不気味な光沢を発している。このカミソリの刃のような鋭い破片が心臓に当たれば心臓をえぐり、首根っこに当たれば、首が飛び、腕にあたれば腕を飛ばしてしまう。そう思うと恐ろしくなって、すぐに脇に捨ててしまいました。
(久田栄正・水島朝穂『戦争とたたかう-一憲法学者のルソン島戦場体験』) 

参考4 「空爆の特徴」 田中利幸『空の戦争史』(講談社現代新書、2008年)から抜粋

突然
きらめく青い閃光
ビルが朋れる
炎が燃える
渦巻く煙のなか
たれ下った電線の下をくぐりながら
逃げていく人の群

 広島の被爆詩人、栗原貞子の作品の一節である。栗原が描いた原爆投下直後のこの状況は、原爆に限らず空爆直下におかれた人間が共通して経験する、言葉では表現しきれない恐怖である。空に突然怪物のような爆撃機が猛烈な爆音をうならせ飛んでくる、あるいは鋭いミサイルの高音を耳にしたと思うやいなや、恐ろしい爆発が自分の目の前で起きる。爆風で飛ばされる、腕がもぎとられる、足が吹っ飛ぶ。
一方、1927年5月、大西洋横断飛行に成功した人物として知られているチャールズ・リンドバーグは、太平洋戦争で航空攻撃作戦に参加した自分の経験から、空爆するパイロットの心理を次のように描写している。
(爆弾投下の)ボタンを押せば、下では死体が飛散る。ある時点までは自分の飛行機の腹部に下げた無害な爆弾を、自分が完全に制御している。ところが次の瞬間に、その爆弾が音を立てて落下していくや、自分にはもはやそれを回収する力が全くない。
  中略
苦痛でのたうち、ずたずたに裂かれた身体がどうして私に見えようか? 私の飛行機の周りにある空気が、(自分が)投射した爆弾がもたらした見えない結果でおおわれることがどうしてありえようか?(私の真下の地上で起きていることは、私にとって)地球の裏側で行われている戦闘の結果をラジオ・ニュースで聞いているのと変わらない。あまりにもかけ離れた、現実性をおびない出来事なのだ。
        (チャールズ・リンドバーグ著『チャールズ・リンドバーグの戦争記録』)
 このように、数百メートル以上の上空から爆弾やミサイルを投下する爆撃手やパイロットに見えるものは、眼下の抽象的な「標的」のみである。空爆にさらされた人間にとっては、目の前に展開する「死のうめき」というあまりにも具体的すぎる恐怖である。わずか数百ないしは数千メートルという距離の間で、上空にいる人間は、地上にいる相手がどのような状況に置かれているのかを想像する力を完全に失っている。あまりにも対照的なこの「抽象」と「具体」の同時存在が、空爆の特徴である。
 近現代の戦争において空爆が拡大されてきた多くの理由の一つに、攻撃する側の被害者
に対するこの全くの理解不能、想像力喪失が挙げられよう。
 われわれは、倫理的想像力をできるだけ強く働かせ、被害者である市民の目で「空から
の恐怖(テロ)」を凝視してみる必要がある。

お勧めの写真集
太平洋戦争写真史『硫黄島・玉砕の記録』 月刊沖縄社 1987
グラフィクレポート『昭和史の消せない真実』 岩波書店 1992
写真集『原爆を見つめる1945年広島・長崎』 岩波書店 1981
『死者が語る戦争』 河出書房新社 1995
『不肖・宮島 死んでもないのに、カメラを話してしまいました』in イラク  アスコム 2003
日本最後の戦い--沖縄戦記録写真集   月刊沖縄社 1987
日本最後の戦い 第2版         月刊沖縄社 2000 

お勧めの映画
『プラトーン』 オリバー・ストーン 1986年 (ベトナム戦争)
『ひめゆりの塔』神山征二郎 1995年  (太平洋戦争)
『華氏911』 マイケル・ムーア 2004年 (イラク戦争)
『硫黄島からの手紙』 クリント・イーストウッド 2006年(太平洋戦争) 
『父親たちの星条旗』 クリント・イーストウッド 2006年(太平洋戦争)
『勇者たちの戦場』 アーラウイン・ウィンクラー 2006年 (イラク戦争)
ドキュメンタリー映画『ONE SHOT ONE KILL-兵士になること』2010年

参考文献
島本慈子『戦争で死ぬ、ということ』(岩波新書、2006年)
吉田敏浩『反空爆の思想』(NHKブックス、2006年) 
田中利幸『空の戦争史』(講談社現代新書、2008年)
アレン・ネルソン『戦場で心が壊れて-元海兵隊員の証言』(新日本出版社、2006年)
前田哲男『戦略爆撃の思想』(朝日新聞社、1988年)
山井教雄『まんが 現代史-アメリカが戦争をやめない理由』(講談社現代新書、2009年)
吉田敏浩『ルポ戦争協力拒否』(岩波新書、2005年) 
加藤尚武『戦争倫理学』(ちくま新書、2003年)
アマルティア・セン『人間の安全保障』(集英社新書、2006年)
小田実『戦争か平和か』(大月書店 2002年)
C・ ダグラス・ラミス『なぜアメリカはこんなに戦争をするのか』(晶文社、2003年)
『東京・ゲルニカ・重慶 空襲から平和を考える 岩波DVDブック』(岩波書店、2009年)
荒井信一『重慶爆撃とは何だったのか もうひとつの日中戦争』(高文研、2009年)
アンヌ・モレリ『戦争プロパガンダ10の法則』(草思社、2002年)

 

第28回金光教東京平和集会 6

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  しかし、そうは言ってもやはり「もし攻めて来られたらどうするのだ、自衛という大義ある正しい戦争もある」という意見の方も多い。

 ただ、私たちはなぜ、軍隊を持つのだろうか? それは軍隊が私たちを守ってくれるからであると答える。「当たり前だろ」と。しかし、本当に軍隊は私たちを守ってくれるであろうか。
 
 20世紀に戦争で亡くなった人は2億人いるとも言われている。実はその大半は敵国の軍隊に殺されたのではなくて、自分の国の軍隊に殺されたとの統計があるのだ。スターリン時代のソ連や内戦等々。

 まさか日本はと思われるかもしれないが、沖縄では日本の陸軍に殺された住民もいる。軍事力では国民を守れないことは歴史が証明している。強力な軍隊を持てば持つほど危ないのだ。かつての日本軍しかり、現在のアメリカ軍しかり。

装甲車進撃.jpg 軍艦からミサイル発射2.jpg 上の写真はアメリカ軍艦からのミサイル発射と進撃中の装甲車。アメリカのメディアでは日本もそうだったが、このように攻める映像ばかりで被害の実態はほとんど報道されない。ハイテクの進歩でますます相手の姿は見えなくなっている。

 イラク戦争時、人間の盾に参加した相沢恭平さんが、空爆後のイラクの実際のビデオを見せてくれた。

車襲撃.jpg この写真は、車が炎上している写真。この車の中にカメラが進む。するといきなり「げーっ」という声が響いた。死体が悪臭を放ってその臭いに絶えきれなかったそうだ。カメラを撮っている相澤さんが嘔吐し、吐いてる声まであった。

                                  「戦争映画に、もし臭いをつけたら誰も見ない」と仰っていた。
 
 日本人は、空襲の恐ろしさ、原爆のむごたらしさを知っている。知っている者が世界の知らない者と同じ行動をとっていいのか。戦争の悲惨さ平和の尊さを知っている者として、正しいメッセージを世界へ向けて発していく責任があると思う。(つづく)

第28回金光教東京平和集会 5

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 さて戦争反対を訴えていくためには、自らのこともしっかり見ておかなければならない。実は1945年、昭和20年の終戦より7年前の1938年、昭和13年に日本軍は長期にわたり中国のある都市を爆撃し続けた。

200905020050000thumb[1].jpg この写真は中国を爆撃中の日本陸軍の飛行機。

クイズ④ 中国のある都市に無差別大爆撃で長期間にわたって攻撃しました。さて、その都市名は何番でしょう。

1番、南京、2番、長春 3番、重慶

正解は3番。

 

 

080815[1].jpg 日本はあの悪名高きドイツのゲルニカ空爆の数ヶ月後に重慶に無差別攻撃をかけた。左の写真は、重慶爆撃によって亡くなられた人々で、普通の民間人。この爆撃で多くの中国人が命を奪われた。

 ここで、今年亡くなられた作家の小田実さんという方の体験に学びたい。
 

 小田さんも中学生の時に大阪空襲を体験されたが、この日本の重慶爆撃と比べて示唆深い体験を話されている。

 

 

 

 

 

nsp1c[1][1].jpg 中学生の時に終戦前日の大阪空襲を体験して死にかけた小田さんは、戦後アメリカでこのニューヨークタイムスに掲載された左の大阪空襲の写真を見た。そして同じような写真を見たことを思い出す。

 それが先ほどのクイズ④の重慶空爆の写真。小田さんは子どもだったということもあるが、その時はその下で何が起こっていたか、想像もしていなかったそうだ。

 そして気がつく。アメリカの子どもたちも日本のこの大阪への空襲の写真を見ても、その下で何が起こっていたか、想像もつかなかっただろうと。
 
 しかし、小田さんはこの大阪の空の黒い雲の下にいて、地獄をを見た。同じように自分の国の攻撃で中国の人たちも地獄を見た事実があったことを知る。

 そして小田さんは言う。

 「私の反戦の思いは非常に簡単だ、結局相手方の立場に立ってみるということ。自分がされて嫌なことは人にするな。自分が殺されたらいやだろう。だったら殺すな、殺されるな」と。

 このように「相手の立場に立つ」ということは本当に大事なことだと思う。(つづく)

第28回金光教東京平和集会 4

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続いてクイズの③
 1975年に終わりましたベトナム戦争から35年経ち、ベトナム戦争を知らない世代も多くなりました。私もそうですが、さて、このベトナム戦争における全戦死者数の一般市民の犠牲者の割合は何%だと思いますか?。

 1番30%、2番60%、3番90%、さて何番でしょう。

 正解は3番90%。

 現在までの主な戦争を見ますと本当かという数字です。第一次大戦5% 第二次大戦48% 朝鮮戦争84% ベトナム戦争90%で何とイラク戦争になるとほとんどが一般市民が犠牲となってる。

 これがどうネセサリー・コストとなるのか。「やむをえない犠牲」で片付けられるのか、全く理解できない。

base.gif さて、ここで昨年から今日まで、まさに今問題となっている沖縄の基地問題。この青い部分が米軍基地。これもまさにネセサリー・コストの構造化におかれている問題なのである。

 結局日本政府は負担を沖縄県に押しつけた。沖縄は日本の0.6%の面積しかないのに、全日本の75パーセントの米軍基地が置かれている。

 「思いやり予算」というのを聞いたことがあると思うが、アメリカ軍駐留経費全体の70%を「思いやり予算」として私たちの税金から支払っている。2010年度で1881億円となっている。すごい額だ。
 
 それからよく米軍基地の存在根拠として「抑止力」といわれるが、米軍が沖縄を守るために来たわけでないのは公然の事実。ベトナム戦争、アフガニスタン空爆、イラク戦争にも沖縄の基地から米軍機が飛び立った。そしてもし米軍が日本近隣で武力行使をすれば、まっさきに狙われるのは基地がある沖縄だ。一番大きな危険にさらされている。

DSC_0090.jpg その沖縄で1952年度以降、米軍絡みの事件や事故は20万1千件以上起き、1,716人の日本人がなくなっている。何をどう守っているのか。多くの日本国民はその事実に目を背けている。本当にこれでいいのか。私たちはこの問題をどう乗り越えていけばいいのか。(つづく)

 

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