母の5年祭の思う

| コメント(0)

 「母の5年祭で勝浦に帰っていた」と言うと、みんな一応に、「え、もう5年も経ったの?」と返ってきた。「時が経つのは早い」という言葉をなるべく使わないようにしてきたが、本当にあっという間の5年だった。

 今でも明確に覚えているのは、その年の9月に国際センター主催の「教義に関する会議」に出席中、父親からの電話で「膵臓がんでもって3か月」と聞かされた。それから11月23日の勝浦教会の大祭まで母は激痛を我慢して家にいた。私は離れているのでよくわからなかったが、相当ひどかったらしい。

 大祭を終えて、さすがにどうしようもなく入院した。何とか正月まで待ってほしい、孫の顔も見てほしいと願った。しかし、東京に帰るときにこれで見納めかと思うとすぐに帰ることができず、「じゃあ、正月くるね」と別れながら何度か引っ返した。お薬でややもうろうとしていた母は、何度か引っ返してきたことを意識していたかどうか、合掌した姿で「ありがとね」と言った。それが私との最後の言葉となった。

 この欄で何度も触れたり、教話で話させていただいたが、万事にご都合お繰り合わせを頂いたと思う。病院嫌いであった母が、数年前からは糖尿で病院に通っていた。それなのになぜわからなかったのか。痩せてきたときになぜ気がついてあげられなかったか、と悔やんだ。

 しかし、膵臓がんは完治は難しく、手術をしてもなかなか普通の状態に戻ることができず、苦しむと聞いた。もし、発見が早かったとしても手術で体を傷つけ、闘病生活も長引いたことだろう。それを思うとこれでよかったのだと思う。

 私は金光学園に入学したため、母と中学の時から離れている。だから、生きていたときよりも亡くなってからの方が不思議と身近に感じている。私がいつもチャチャを入れにいってからかったりすると、「やっちもない」と言われた。少し弱気のことを言うと、「なにくそでいけ」と励まされた。まだまだこの声は実際に聞こえてくる。5年経ってもまだ母は生きている。

コメントする

2012年4月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

このブログ記事について

このページは、つっさんが2010年8月21日 16:25に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「大戦後65年の夏に思う」です。

次のブログ記事は「もらえる物はとりあえずもらう」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カウンター

累計:
本日:
昨日: