大戦後65年の夏に思う

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 大戦後65年を迎えた今年の夏は、テレビや新聞で「戦争と平和」をテーマにした特集番組や記事が多かった。今夏は勝浦に帰省したため、ハードディスクにほとんど録画した。これからボチボチ見ていきたい。

 その大戦後65年の特徴として、今まで沈黙してきた体験者たちが、意を決してその体験談を話し始めたことだ。あちこちのテレビや新聞が報道していた。ではなぜ語らなかったのか。それは語れなかったということなのだ。一言で言えば、「負い目」である。 

 戦陣訓により「生きて虜囚の辱めを受けず」と徹底的に教え込まれ、「悠久の大義に生きろ」、つまり、死を強要された。それは兵士だけでなく、一般の国民までその精神が徹底された。多くの人が国のために死んだのに、自分だけがオメオメと生きておっていいのか。その罪悪感から「自分には話す資格もない」と押し黙ったのだ。

 数年前、東京センターの「平和セミナー」で、多摩地方の戦績を回り、その後、関口さんと服部さんに寮の集会室で戦争体験を語ってもらった。服部さんは、終戦当時理科系の大学生で応召を免れた。昭和20年がちょうど20歳で、すぐ上の世代や同級生たちの多くが死に、そしてB29に体当たりして死んでいくのを目の前で見ていた。

 私は戦争の不条理さの一つとして、「戦争は若い方から死んでいく」ということを伝えたくて、服部さんに「是非そこのところを強調して当時の様子を聞かせてほしい」とお願いしたことがある。しかし、その服部さんでさえ、「自分はたまたま理科系だったことで生き残ったのであり、そのことをあまり話したくないし、人からも指摘されたことがある」と仰った。

 この時に、私は初めて戦争体験者の皆様の本当の苦しみを知ったような気がした。そして語ることがどれだけ勇気のいることであり、そして語られた言葉は何事にも代え難い貴重なものであるということを初めて腹入れができた。大戦後50年の時には、まだそこまでの認識はなかった。

 そして今、なぜもっとちゃんと亡くなられる前に聞いておかなかったのだと悔やんでも悔やみきれない方がいる。それは芝教会前教会長大場正範先生だ。ご葬儀の時の友人の弔電で初めて先生の真実を知り、それがすでに『生きる』というご本に少し触れられていたこと。平和集会の行進に必ず参加してくれていたこと。その当時にこちらの認識がもっと深まっておれば、よい質問もできたであろうにとつくづく反省している。

 だからこそ、語られる貴重な体験を真剣に聞き取り、人類の体験として次の世代に伝えるべく努力しなければならないと改めて思わされている。娘から「お父さんって、本当に戦争が好きだね」と冷やかされようと「また始まったか」と言われようとも、この後もずっと戦後であり続けるよう触れ続けていきたい。 

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このページは、つっさんが2010年8月19日 18:22に書いたブログ記事です。

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