2011年12月アーカイブ

皆さま、よいお年をお迎え下さい。

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 いよいよ2011年もあとわずか。「よいお年を」と挨拶を交わす。しかし、政治は相変わらず混迷。一生懸命、それこそ毎日必死で頑張って頂いていることと思う。でも、迷走。何がどう難しいのか。その「何が」はわかる。消費税、原子力発電、普天間問題、民主党のマニフェスト違反等々の問題である。

 しかし、どう難しいのかがよくわからない。解決のための選択肢はますます狭まっており、民主党も自民党も、またそれぞれ内部の政治家たちの言っていることの何がどう違うのか。結局ほとんど同じことではないか。なのに解決のためになぜ努力、協力しないのか。ここがよくわからない。

 一番危険なのは「政治不信」と言ってしまえば一言で済むが、この言葉も軽く使っていないか。小学生たちが総理大臣をバカにする日常は平和でありがたいのではあるが、若者たちの憎しみを込めての政治家批判は、まさか戦前の2.26のようなことにはならないとは思うが、危険はある。

 と、暗い話で今年を終えてしまったが、本年はまさに災害の年であった。そこでは、私たちの生き方の問題、信心のあり方など色々と反省させられ、また学ばせて頂いた。ここから貴重な教訓を導き出し、次世代へとつないでいかなければならない。

 これまで挨拶程度で「よいお年を」と言葉を交わしていたが、今年の「よいお年を」は自然とそこに強い願いがこもる挨拶となった。来年は本当に幸せな年であってほしいと思う。

※本日の夜から2012年1月5日夜までの予定で帰省します。そのようなことで、当ブログしばらくお休みします。皆さま、それでは心を込めて、どうぞよいお年をお迎え下さい。今年1年ここまでお読み頂き、誠にありがとうございました。来年も引き続き、どうぞよろしくお願い申し上げます。

「祈りの話」に思う

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 下記の文章は、哲学者のレヴィナス研究家で武道家でもあるの内田樹氏のブログ中「祈りと想像力」からの引用である。
(内田樹の研究室http://blog.tatsuru.com/2011/06/18_1251.php


「『祈り』の話をしていたのである。
祈りは、遠いものをめざす。
ふつうは現実の目の前には存在しないものをめざす。
私たちは死者を鎮魂するために祈り、未来に実現してほしいことを祈り、つねに今ここにはいない『遠くのもの』をめざして祈る。
祈りを向ける対象が『遠ければ遠いほど』、私たちが祈りを通じて経験するものは深まり、広がる。
多くの人が勘違いしているが、祈りの強度は『切実さ』によるのではない。
それがめざすものの『遠さ』によって祈りは強まり、祈る人間を強めるのである。
だから、おのれの幸福を願う祈りよりも、他者の幸福を願う祈りの方が強度が高く、明日の繁栄を願う祈りよりも、百年後の繁栄を願う祈りの方が強度が高いのである。」


  常識、思い込み、先入観、固定観念等々色々な言い方はあるが、私たちは言葉や行為の意味や意義を狭く認識したり、間違えて理解していることが多々あると思うが、この内田氏が指摘する「祈り」についても目からうろこであった。しかし、言われてみるとなるほどその通りだと思う。

 普通「祈り」は、身近な家族や友人の方が強く、遠い人の方がだんだんに弱くなっていくと考えているだろう。ただ、身近な手の届く範囲は、自分でとりあえずは手を出して問題解決を図ることができる。しかし、どうにもこうにも手に負えなくなった時に祈りが生まれる。もう祈るしかないという状態。ここでの祈りは切実ではあるし強いと思う。

 で、もう一つ例えばこのたびの東日本大震災は遠いところでの出来事であるが、いても立ってもいられず、現地に赴く。そこで実際に手をさしのべることはできる。しかし、ずっとそこにいることはできない。どうしても距離は遠くならざるをえない。しかし、そこでの祈りは弱いかといえば、そうではない。

 つまり、内田氏の言われる対象が遠ければ遠いほど、直接手が出せないのであるから、「もう祈るしかない」という状態であって、そこでの「祈りは強まり、人間を強くする」のだと思う。

 「神前拝詞」で毎日唱えている「世界真の平和」を「とってつけた祈りになっている」と指摘された方がいる。恐らく「お題目」のように唱えているだけで実践が伴っていないという問題指摘だったように思う。しかし、「世界真の平和」と祈る祈り方が単にお題目を唱えているのではなくて、「もう祈るしかない」祈りであったら、その祈りは強いものであろう。

 これも逆説的ではあるが、私は常々「世界平和」よりも「家庭の平和の方が難しい」とあえて言ってきているのは、先入観、思い込み、固定観念を一度外して考えてみる。世界平和は理想的で遠いものという固定観念を外し、家庭の平和と別物でいないと考えてみる。そういうものの考え方が大事なのではと、内田樹さんの考え方に触れてますます強く思った。常にニュートラルにしてものを考え、まさに「日々がさら」の実践である。

 先週は教務総長上京、各方面へのあいさつ、交際者の方々との懇談があり、また寮には財団本部から会計の検査に担当の職員が上京、日程が重なった。財団の担当の先生とは少ししか会えず入れ違いになるなど、ご無礼が続いてしまったが会計のほうは問題なく終了。

 昨日は、大阪の金光教放送センターへ日帰り出張。放送センターは玉水教会記念館の2階にあり、まずは玉水教会に参拝、お届けさせて頂いて無事の録音をお願いした。金光教のラジオ放送に出さして頂くのは今回が初めて。

 かつて布教部で御用していた頃、私は『金光教報』や『読信』などの文書布教の担当が主で、映像や放送には直接かかわったことはなかったが、担当の職員が都合がつかない時に祭場の録音室や本部教庁の3階の録音室で何度が立ち会ったことがあった。

 約7分の原稿を読むので、一度かんだら最初から読み直しとなるため、大変苦労されていたのを思い出す。そのようなことで、今回だいぶ練習は積んで望んだ。録音担当の先生が私がリラックスできるようにうまく雰囲気を作ってくださりありがたい。まずは早口言葉のような発生の練習をした。

 次に時間を計るための通し読み。時間はばっちりだそうだが、やはり何度か、かんでしまった。いよいよ本番。ところが、練習よりもさらに多く読み間違えた。途中、「これは相当時間がかかってしまうのでは」と頭に浮かんだとたんにかむ。

 こんなことでは何回読むことになるだろうとだんだんに不安になってきたら、さすが最近はデジタル化されているために、間違ったブロックのところだけを読み直して大丈夫とのこと。それでも4,5箇所も取り直したが何とか無事に終了。放送は来年3月になるとのこと。あまりいい声でないので申し訳ないが、聴いて下されば幸いです。

 

歴史に学ぶということ

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 ご本部参拝の電車の中で久し振りに司馬遼太郎の『尻啖え孫一』を読んだ。主人公は今の和歌山県和歌浦付近の領主、雑賀孫一。本人は信仰がないが、石山本願寺に味方し、唯一織田信長を破った男で有名である。

 私は昔から司馬遼太郎の小説が大好きでほとんどの著書を読んだ。その最初が金光学園中学校時代、金光学園寄宿舎のご神殿の後ろに汚い本箱が置かれており、その一つの棚に整理もされず無造作に置かれていた『梟の城』という小説を読んだことが始まり。

 ここから『龍馬がゆく』、『坂の上の雲』等々どんどんはまっていき、勉強で唯一日本史だけが好きになった。もし、この本との出会いがなかったら、勉強はしないは、本も読まないはと、とんでもない人間になっていただろう。 

 そこから二十歳過ぎまでは、ただの歴史小説好きの歴史好きだったが、これは以前にもふれたと思うが、ご本部研修生時代、教学研究所で堀米庸三氏の『歴史を見る眼』をテキストとした勉強会から、さらに好きになった。とは言っても、歴史小説好き程度ではあるが。

 最近、NHKドラマ「坂の上の雲」の続編の放映が始まった。司馬史観といって賛否両論あるらしい。それは当然だ。これも以前、私は「過去は変えられる」と書いたように歴史も変わる。過去のすでに起こった出来事だが、その歴史は常に変化しており、つまりは過去のことですでに死んでいるものではなくて、現在でも生き生きと生きているのが歴史であると思うからだ。

 その生きている歴史を楽しみながら学び、未来に向けての立ちどころを定め、そして未来の宿命や運命を自らの手で選択していく真の自由を獲得していく。そこに歴史を学ぶ意義あると思う。

 ありがたいことに私が寄宿舎時代に本に出会ったように、娘は人と出会って歴史が好きになった。それは高校1年生の時の担任の先生が世界史の先生だったこと。大の中日ファンということもあり、また先生の世界史の授業はどの先生よりも教え方がうまいらしく、ほとんどの生徒が世界史好きになったそうだ。

 他の先生はただ教科書に添って教えるだけだが、その担任の先生は、教科書はほとんど使用せず、まずは最初に面白い話をして興味を引かせる。娘によると「聞いていて本当に楽しい」という。おそらくは、歴史を過去の知識としてはではなく、生きている歴史として、歴史を知恵として教えているのではと想像する。

 おかげで娘も大したことはないが、世界や日本社会を見る眼を少し持ち得たように思う。大きな話になるが、歴史を世界史や日本史にわけることなく、世界の歴史はこれも当然ながら空間的にも連続しているのであり、総合的な歴史を教える先生を国家的プロジェクトとして育ててほしい。

 紀州の雑賀孫一からとんだところに話が進んでしまったが、未来のためにぜひ必要なことと思う。

無事に帰寮しましまた。

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 昨日、無事ご本部「布教功労者報徳祭」に参拝、「世界平和を祈るつどい」、「学生会OB会役員会、総会」に参加いたしました。このたびも久しぶりに出会えた先生方とご挨拶ができ、よかったです。特に何と不思議なことに、中日ファンの先生方にその場、その場でよく出会い、それぞれ握手しながら「残念でした」と声を掛け合いました。

 10日、ご本部広前参拝お届け時に名城教会の河合先生、11日修徳殿で熱田教会の鈴木先生、祭場に向かう途中で牧野教会の早川先生、帰りの金光駅までの道で南大垣教会の今西先生、金光駅のホームでは大曽根教会の長屋先生に出会いました。長屋先生とは中日のことに限らず、亡くなられた膳師さんの思い出など岡山までいろんな話ができました。

 それから何と岡山駅のホームでは、私たち夫婦の媒酌の労をとって頂いた東山教会の高橋先生ご夫妻と久しぶりにお会いしました。私の妻にとお土産まで頂いて、大変恐縮いたしました。また、東京駅に降りようとするデッキで「金話研」講師の徳田さんと出会いました。鈴木先生も今西先生も同じ新幹線でした。

 これだけの方と帰りの新幹線で一緒になるのは初めてです。そして、それぞれの会議、行事も無事開催され、万事にご都合お繰り合わせを頂き、誠にありがたい参拝となりました。ありがとうございました。

 12月4日、寮講演会を「首都圏地震等災害ボランティア支援機構」の現地代表、田中真人師をお迎えして開催し、素晴らしいお話を承りました。その後、8日、9日と東京センター一泊の来年度計画会議に参加、9日の夜には東京センターで、東京都教会連合会主催の「信心と震災を考える」に寮生のK君が素晴らしいボランティア体験談と信心としての受け止め方について発表しました。

 本日、これから新幹線でご本部に参ります。今日は学生会のOB会の役員会、明日はその総会と「世界平和を祈るつどい」に参加し、布教功労者報徳祭に参拝します。

 参拝される方、是非お会いしましょう。それでは行ってきます。万事にお繰り合わせを頂きますように。

 

 

 神田先生の貴重なお話を承った後、来た道を大返しでいよいよご霊地に入った。6時から東京学生寮運営委員会委員長をはじめ関係者との懇親会を予定しているので、まずは全員で金光町のスーパーで買いだし。宿泊場所である光風館に入った。

 予定通り、6時から光風館会議室において福田浩運営委員長のご挨拶とお話を承り、懇親のひとときを持った。今回は中国からの留学生2人も同行しており、質問や感想では金光教の自由な教風に感心していた。金光教学院で修行中の寮OBのN君も少し顔を出してくれた。

 10月10日午前中は、それぞれ自由行動。午後ご本部広前参拝お届け後、祭場に入り教主金光様ご祭主のもと仕えられる生神金光大神大祭に参拝した。祭場では気仙沼で3月から今日までずっとボランティアをされている宇部東教会の清水さんと出会い、ひと月以上活動していた寮生のK君たちとの再会に喜び合った。

PA101662 (640x480).jpg 祭典後、すぐに出発。しかし、さすがに連休最後の祝日のため道路は所々渋滞。10日中に帰ることができず、2時前に無事東京学生寮に戻った。今回、車を出してくれ、またほとんど運転して下った板東さん、また神田照家先生、道明先生、さらには広島のIさんには大変にお世話になった。深く感謝申し上げたい。

 午後1時半から、「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」の会議室において、神田照家先生のお話を承った。先生は、「原爆で犠牲になった14万人の人々は、言いたいことも何も言えずに亡くなってしまった。この方たちは,何か言いたかったのではないか。声なき御霊様たちは今でも私たちに言い残したいことがあるのではないか。その声を少しでも聞かせて頂くために、私が卒業した旧制廣島高等学校生の被爆体験記を中心にした追悼記の編集を手がけ、1995(平成7)年被爆50年に『廣高とヒロシマ』を刊行し、これまで続編を4冊発行した」。

 写真はそのうちの、『ヒロシマと廣高』-被爆52年・回顧と追悼-(平成9年)と『廣高と原爆』-被爆55年・回想と追悼-(平成12年)の2冊。神田照家先生が編集委員代表としてそれぞれ編集後記を執筆されている。この貴重な2冊を東京学生寮に寄贈して下さった。

  IMG_0533.JPG 「体験記と言っても,本当に悲惨な体験をされた方は、なぜ自分が生き残ったのかという負い目を感じており、思い出したくもない、話したくもない体験であり、精神的にも傷を負っている。ゆえになかなか『ヒロシマの心』というのは伝わりにくい。しかし、このままではこの歴史的事実や無念の気持ちで亡くなられたであろう犠牲者の方たちの存在さえも忘れ去られてしまうではないかと、大戦後50年の月日を経て、ようやく書ける気になったばかりの方たちの協力を得て刊行できたものである。

 皆さまのような若者がこうして関心を持って下さるのは大変ありがたいことで、こうして難儀の現場に身を置き、そして実感して頂き、実感とはそこに魂を込めることであり、二度と原爆を作ってはならない、二度と戦争を起こしてはいけないという『ヒロシマの心』を心として皆さまの周りの若い人たちにも伝えていってもらいたい」。

PA091657 (640x480).jpg PA091658 (640x480).jpg 神田先生は80歳を越えられているが、非常に力強くお話賜り、寮生一同もその迫力に自分たちの使命や責任を自覚したようであった。寮生たちはまさに東日本大震災の難儀の現場に身を置いて帰ってきたばかりであったので、地震と戦争との違いはあるが、その犠牲者たちの声なき声を聞かせて頂く大切さは同じものであり、ちょうどいい時期を得、万事のお繰り合わせの中で、十分に腹入れできたと思う。

  最後に今日お話して頂く予定だったHさんがある広島市内の小学校でお話になったテープを賜り、11月6日の寮月例祭後にみんなで聞かせて頂いた。 (つづく)

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