「祈りの話」に思う

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 下記の文章は、哲学者のレヴィナス研究家で武道家でもあるの内田樹氏のブログ中「祈りと想像力」からの引用である。
(内田樹の研究室http://blog.tatsuru.com/2011/06/18_1251.php


「『祈り』の話をしていたのである。
祈りは、遠いものをめざす。
ふつうは現実の目の前には存在しないものをめざす。
私たちは死者を鎮魂するために祈り、未来に実現してほしいことを祈り、つねに今ここにはいない『遠くのもの』をめざして祈る。
祈りを向ける対象が『遠ければ遠いほど』、私たちが祈りを通じて経験するものは深まり、広がる。
多くの人が勘違いしているが、祈りの強度は『切実さ』によるのではない。
それがめざすものの『遠さ』によって祈りは強まり、祈る人間を強めるのである。
だから、おのれの幸福を願う祈りよりも、他者の幸福を願う祈りの方が強度が高く、明日の繁栄を願う祈りよりも、百年後の繁栄を願う祈りの方が強度が高いのである。」


  常識、思い込み、先入観、固定観念等々色々な言い方はあるが、私たちは言葉や行為の意味や意義を狭く認識したり、間違えて理解していることが多々あると思うが、この内田氏が指摘する「祈り」についても目からうろこであった。しかし、言われてみるとなるほどその通りだと思う。

 普通「祈り」は、身近な家族や友人の方が強く、遠い人の方がだんだんに弱くなっていくと考えているだろう。ただ、身近な手の届く範囲は、自分でとりあえずは手を出して問題解決を図ることができる。しかし、どうにもこうにも手に負えなくなった時に祈りが生まれる。もう祈るしかないという状態。ここでの祈りは切実ではあるし強いと思う。

 で、もう一つ例えばこのたびの東日本大震災は遠いところでの出来事であるが、いても立ってもいられず、現地に赴く。そこで実際に手をさしのべることはできる。しかし、ずっとそこにいることはできない。どうしても距離は遠くならざるをえない。しかし、そこでの祈りは弱いかといえば、そうではない。

 つまり、内田氏の言われる対象が遠ければ遠いほど、直接手が出せないのであるから、「もう祈るしかない」という状態であって、そこでの「祈りは強まり、人間を強くする」のだと思う。

 「神前拝詞」で毎日唱えている「世界真の平和」を「とってつけた祈りになっている」と指摘された方がいる。恐らく「お題目」のように唱えているだけで実践が伴っていないという問題指摘だったように思う。しかし、「世界真の平和」と祈る祈り方が単にお題目を唱えているのではなくて、「もう祈るしかない」祈りであったら、その祈りは強いものであろう。

 これも逆説的ではあるが、私は常々「世界平和」よりも「家庭の平和の方が難しい」とあえて言ってきているのは、先入観、思い込み、固定観念を一度外して考えてみる。世界平和は理想的で遠いものという固定観念を外し、家庭の平和と別物でいないと考えてみる。そういうものの考え方が大事なのではと、内田樹さんの考え方に触れてますます強く思った。常にニュートラルにしてものを考え、まさに「日々がさら」の実践である。

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このページは、つっさんが2011年12月23日 07:29に書いたブログ記事です。

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