2011年4月アーカイブ

 今夜、池袋発夜行バスで勝浦教会の方に帰省します。その間、またしばらくの間、当ブログをお休みいたします。皆さまお元気で。

 23日朝7時、金光教首都圏フォーラム復興支援ボランティア「第一次派遣隊」の運転手として寮を出発。東京センターへ集合の派遣ボランティア二人を迎えに行く。東京センターまで順調で8時30分着。程なくお二人がみえた。途中飯田橋首都高で事故との情報があったので45分頃早速に出発。浦和料金所を越える頃に携帯が鳴る。東京センター所長からだ。なんと土曜日なのに見送りに信徒の方と二人で東京センターまでみえたとのこと。私、見送りがあることをつゆ知らず、大変失礼してしまった。

 その後、順調に東北道に入ったのはよかったが、雨が降ってきた。それも尋常ではない降りで前が見えなくなるほど。スピードは出せない。お昼休憩後に小雨になったが、福島県に入ると、ところどころ道路に段差があり、これまたスピードが出せない。ついつい速くなりすぎて、後ろのお二人が腰を浮かすこともしばしば。慎重に車を進める。

 それでもだいたい予定通り、17時40分頃に気仙沼市内に入った。山間の道を抜けて市街に入っていくと、市役所がある高台の方は地震が来たとは思えないくらい普通。しかし、異様な臭いは車の中でも匂ってきた。臭いのことは先日も触れたが、泥かきで畳をはがすと腐った魚が一杯出てくるとのこと。とんでもない臭いを発しているらしい。

 市役所を左手に見ながら港の方に降りていくと景色は一変。さすがにすさまじい光景だ。すぐに右手に曲がり、(写真1枚目)の坂の入り口が見え、そこを登ると気仙沼教会(写真2枚目)が見えた。教会は全く無事であったが、教会のすぐに下の家まで海水がきたとのこと(写真3枚目)。

教会方向.jpg 教会全景S.jpg 教会から下方向・間近まで海水が来る.jpg 教会掲示板.jpg 写真4枚目は教会の掲示板。「何とかなる」との一言に多くの人が励まされる。まずご神前に参拝。ご神前にも近所の方が避難していると聞いていたが、ご神前には布団が敷いてあり、10人程度避難してきている。お届け後、しばらく気仙沼教会長先生と奥様のお話を聞く。となりの神社境内では被災者の人たちが炊き出しをしており、この地区の方の食事を作っている。その地区のリーダが気仙沼教会の青年部長であり、その方が大活躍して、教会あげて地域の方々を支援しているそうだ。教会のとなりの信奉者会館も避難場所と一部ボランティアの方の宿舎となっている。

 私たちボランティアの宿舎は、教会のすぐ裏手に今は空き家となっていたお家を借りることができ、そこに寝泊まりさせていただく。二階には畳の部屋が二つともう一つ部屋があり、一階にも一部屋あり、計四部屋で布団も十分に用意できている。ありがたいことである。

 これも先遣隊の皆さまやその後残られた所沢教会の嶋田先生、大崎教会の田中真人氏のおかげである。嶋田先生は完全に土地の人となっているし、田中真人氏は気仙沼ボランティアセンターでなくてはならない存在となっている。気仙沼教会の娘さんの友人で一緒にボランティア活動している未信奉者のお二人が真人氏を絶賛されていた。また、首都圏フォーラムや東京センターでの後方支援がしっかりとしていることも大変ありがたく思う。

 さて、6時になると夕食ということで、教会でそれぞれ「箸を持って」と箸を貸してくれ、炊き出し場所(写真5枚目)に向かう。被災した地元の有志の人たちが炊き込みご飯、豚汁にタケノコの煮物、キュウリの漬け物、キムチ等々を振る舞ってくれ、これがまた美味。時間によって被災地区を割り振っているらしく、私たちボランティアもお世話になる。何か逆である。気仙沼教会青年部長も忙しく動き回っている。

教会隣接神社境内での炊き出し2.jpg お教会に戻ると先生が歓迎会だとお酒を出してくれた。「私は運転手ですので明日帰るんです」というと「じゃあ、送別会だ」としっかりと飲ませていただいた。そこに教会に避難されてきている息子さんを亡くなれた近所の未信奉者の方や信奉者の方、ボランティアの方が集まってきて、色々とお話を承った。

 教会長先生は、「悲しいこと、辛いことで共に泣き、そして少しでも嬉しいこと、よきことができてきたら、それでまた共に泣く。理屈ではない。今は寄り添ってお互いに励まし合い、助け合うしかない。それしかない」と。そして「この現実を少しでも多くの人に見てほしいし、話を聞いてほしい」と仰っていた。 

 被災された方は、一応に明るく、笑顔で気丈にしていらっしゃるが、当然ながら悲しみや悔しさやいろいろな気持ちを押し殺して、心の中に秘めているように感じた。こうした気仙沼教会の信奉者の皆さまが一丸となって地域に貢献している様子、地域、教会、ボランティアが一体となって復興に取り組まれている様子、その取り組みを実際に見させて頂き、また地域の人たちとふれあうだけでも大変勉強になるし、大切なものを感じることができ、生き方の上で非常にためになると思った。
 
 24日早朝、快適に目が覚めた。宿舎から見た気仙沼の市街は全く何もなかったように見える(写真6枚目)。時間があるので海の方に歩いて行くと、坂を下りてすぐ景色が一変(写真7枚目)。地盤沈下で地面から水が吹き出ているし、満潮で港まで近づくことができなかった。(写真7、8、9、10、11枚目)

ボランティア宿舎から街を望む.jpg気仙沼市街2.jpg教会の坂を下りてすぐの町並み3.jpg教会の坂を下りてすぐの町並み2.jpg 気仙沼市街3.jpg 満潮で水没.jpg 教会に帰ると信奉者会館から嶋田先生が出てこられ、軽トラで案内してくれた。まずはフェリー発着する港の方に向かう。しかし、途中通行止め。それでもと無視して入っていく。「もし、これで地震が来たら逃げられないよ」、「もういいでしょ。死んでも」、「まあ、ここで嶋田先生と一緒に死ねたら本望」だと言いながら軽トラを降りる。

 そこでも海がどこにあるかよくわからない。地図上で行くとだいぶ内陸の方と思われるが、ぐしゃぐしゃである。(写真12、13、14枚目)そこに私の胸辺りからあの地震警報音が鳴り響いた。「地震が来る」と思わず叫んでしまい、二人ともあわてて軽トラの方へ。しかし、全く揺れない。おかしいなあと思っていたら、なんとデジタルカメラの容量がなくなった警告音であった。非常に紛らわしい音。さっきの「もう死んでもいい」というのは一体何だったのと二人で笑いあった。

気仙沼港.jpg 気仙沼港2.jpg 気仙沼港定期便桟橋.jpg 次に大火事のあった場所へと向かった。(写真15枚目)しかし、ここでも途中から海水が溜まっており、海の方へは近づけなかった。(写真16枚目)は気仙沼線の鹿折唐桑駅。嶋田先生によるとここに多くの小学生が逃げて来ていたが、津波が線路を越えたため、ダメだったとのこと。線路からもうすぐ北側は山になっており、そちらに少しでも逃げていればと本当に悔やまれる。

 

気仙沼線線路から火事現場を望む.jpg鹿折唐桑駅.jpg  まさか高台の線路までは来ないと思ったのだろう。駅のすぐ向こうにあの大きな漁船が来ているからよほどの大津波だったと想像できる。(写真17枚目)その情景を思うと足が震えた。気仙沼線は完全に寸断され、いまだに復旧の見通しが立ってない。(写真18枚目)

気仙沼線から海方向2.jpg

鹿折唐桑駅2.jpg 今回、たった二日間、気仙沼にいたのは1日もない時間であったが、多くのものを得ることができた。また是非今度は本格的にボランティアに参加したいと願っているが、皆さまも是非実際に行ってみて、見て、聞いて、体験していただきたいと思う。行きたい方は是非一報下さい。

 ボランティアの内容は、今のところ泥かきなどの清掃や運搬手伝い、物資の仕分け、配達等、中、長期(2週間から1か月以上)にできる方は、ボランティアセンターでの人、物資の手配等、様々な事務。場合によっては、手薄となっている陸前高田市や大船渡市方面へも検討しているとのこと。

  

気仙沼に運転手として行ってきます

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 金光教首都圏フォーラムのボランティア支援活動第一次派遣隊の運転手として、これから今日、明日と気仙沼に行ってきます。

 ただ、寮から行く予定のI君は、急の38度以上の発熱、「どうしましょうか」と申し出てくれましたが、残念ですが無理と判断しました。

 

スーちゃん逝く

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IMG_01111.jpgのサムネール画像 ニュース速報の字幕に女房が叫び声をあげた。テレビを見てなかった私は、一瞬原発かとひるんだが、キャンディーズのスーちゃんが亡くなったと言う。私「嘘でしょ。そんなはずはない。事故、まさか・・・」。

 で、うとうと寝かかってた私は完全に目が冴えてしまい、夜中のニュースまですべて見た。それでもなお信じがたい。まさか乳がんとは。ここでも何度か触れたように、私はご本部金光町でスーちゃんと話をし、握手もしていただいた。マジで手を洗わなかった覚えがある。

 映画『黒い雨』で、金光様お引け筋の道路と姫井病院辺りがロケ地となった。まさかあの我々の時代の大スター、キャンディーズのスーちゃんが目の前に現れるとは夢にも思わなかった。集まってきた本部職員や研究所の職員等々誰も近づこうとしない。

 そこに当時の金光新聞に勤めていた宮崎の塚本先生がカメラを持って取材をするとのこと。これは絶好のチャンスと、私も入れてと付いていった。どこかいいところで写真を撮ろうと教主金光様のお宅の前の辺りまで歩いて行く途中、色々と会話をした。もう雲の上を歩いているようだった。本当に謙虚で、丁寧で、しとやかで、それでいて凄いオーラを発していた。 

 この『黒い雨』がキャンディーズ解散後の芸能界に復帰した初めてのお仕事だったことは、ついこの間知った。この時にそれを知っていれば、もっと何かお話できたとも思う。上記がその時、塚本先生がとった写真。後ろが教主金光様のお宅の壁だ。次もし会えればとまた夢見ていたが、何とも残念である。ご冥福をお祈り申し上げます。

再び、原子力発電に思う

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 19日付『東京新聞』の「不適切な原発副読本」という記事によると、それぞれ小中学生向け教科書の副読本として「わくわく原子力ランド」、「チャレンジ!原子ワールド」が2009年に各小中学生に配布されている。その中身がまさに安全神話。

 「放射能物質を閉じ込めるため五重のかべを設けています。万一、事故発生という事態になっても周辺環境への放射性物質の放出を防止できるよう、何重にもわたる安全設計を行っています」。

 「大きな津波が遠くからおそってきたとしても、発電所の機能がそこなわれないよう設計しています。設計は『想定されることよりもさらに十分な余裕を持つ』」。なんと「想定外」まで言及しているのだ。

 「隠される放射能予測」との記事では、文部科学省の緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)と経済産業省原子力安全・保安院所管の緊急時対策支援システム(ERSS)の二つがあるが、両者ともこの情報を公表せず、自治体や国民は完全に蚊帳の外に置かれた。

 日頃は教育によって安全神話を植え付け、いざ事が起きたら隠蔽する。これまた戦前の体質と全く同じではないか。かつての大本営発表のように隠蔽どころか、情報を操作しているのではと疑う。 

 この原発問題も、昨年の金光教東京平和集会で取り上げた「ネセサリーコスト」、つまり必要経費として少数者の犠牲はやむをえない犠牲として構築されている社会構造やその考え方は、沖縄の基地問題に代表される平和の問題とも全く同一のものであろう。

 今でこそ日本中、いや世界中で問題となっているが、「喉元過ぎれば」結局現状がこうだから仕方ないと容認、肯定してしまい、次の事故まで忘れてしまう。現実は難しい、だからこそ、その社会構造や考え方そのものを少しでも変えようという発想くらいはできないものか。

 特に日本は原発は無理。少なくとも津波が予想される原発は即時停止すべきだと思う。そして代替エネルギー開発のための世界的規模でのプロジェクトを先導し、私たちはできるだけエネルギーを使わない生活へと努力すべきであろう。

 先日土曜日、午後3時から金光教東京学生寮集会室において、開寮記念祭並びに東日本大震災復興祈願祭が執り行われ、ご祭主と共に参拝者全員で、このたびの大震災で亡くなられた御霊様のお道立てとご遺族、被災者の皆様のここからの立ち行き、被災地の速やかな復興を心からお祈り申し上げた。

 その後、運営委員で金光教財務部長の山下先生から挨拶があった。冒頭大地震で亡くなられた御霊様のお道立てとご遺族、被災者の皆様に哀悼の意を表された後、大要次のようなお話があった。

 「石原都知事はこのたびの地震を『日本人の我欲に対する天罰』だという意味のことを発言したが、我欲はあるかもしれないが天罰ではない。私たちの命は、天地の命があってはじめて生きることができる。私たちにつながる命の時間は46億年前に地球が誕生して以来続いているのであり、地球誕生から現在までの46億年の歴史を1年365日のカレンダーで表すと人類の誕生は12月31日の大晦日の11時37分。ゆえに皆さんの年は46億20歳とも言える長い長い地球の歴史につながり、天地によって生かされている命という自覚がまずは必要である。
 神様はそうした中にあって人と人とが助け合って、支え合って幸せに生きてほしいと願っている。このたびご不幸にも亡くなられた御霊様は、生き残られたご遺族家族、関係者の皆様の生活の安心をそれこそ必死で思われ、願われていることと思う。神様も同じように私たち人間のことを思い、どうか助け合って幸せになってほしいと願われている。その逆に人間の我情我欲や思い上がった振る舞いに対して、神様はお嘆きになっているのではと思う。
 東京学生寮の【綱領】や【願い・精神】に『世界、人類に貢献し得る人材の育成』とあるが、皆様もぜひ人を助け、世のお役に立つ人間として活躍していただきたい」。

 続いて、新入寮生歓迎会が開かれた。今回は茜会の先生方3人、気仙沼からの高校生Mちゃんも加わり、運営委員、関係者、在寮生が4つのテーブルに分かれて、恒例となっている班対抗「誰の答えでしょうか?」当てゲームで楽しんだ。

 「生まれ変わったら何になる」、「あなたの好きな芸能人」、「あなたの好きな1字の漢字」、「無人島には何を持っていく」との質問に全員が答え、その答えが誰の書いた答えかをグルーブ対抗で当てあう。

 毎年のことながらなかなか当てるのは難しいが、今回は日頃からみんな仲がいいので結構の正解率だ。老若男女、留学生もいるから面白い。ぼけてもいいが、ウソはダメというルール。

 その途中、私たちに夫婦にとってのサプライズがあった。何と寮監・主事就任20周年を花束と豪華プレゼントで祝ってくれたのだ。そんなことに慣れてない私はもう涙を抑えるのが精一杯であった。寮生の皆様に深く感謝。

 創立101年の開寮記念祭、新入寮生歓迎会も盛大に開催することができ、新たな新年度を出発することができた。関係各位に深く御礼申し上げたい。

 金光教首都圏フォーラムでは、東日本大震災復興支援ボランティア の募集をはじめました。私、在籍の勝浦教会大祭が控えているため、第一次募集23日出発の運転手として気仙沼入りの予定です。

 

 在寮生男子の主力は國學院生で、23日に授業が始まるため、第1次募集は今のことろ1名が参加する予定で、その他は第2次以降に参加予定です。卒寮生の皆さま等、行かれたい方がおられましたら是非ご連絡ください。 

 

http://www.konkokyo.or.jp/center/tokyo/saigaishien.html

臭い

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 戦争映画に臭いを付けたら誰も見なくなると常々言ってきたが、気仙沼の街の臭いも強烈とのこと。これも映像では想像すらできない。被災寮生姉妹の話によると、臭いの元は大きく2つあるそうだ。

 1つは、漁港に設置されていた大きな冷凍庫が流され、その中の魚が腐って臭うとのこと。漁港はそれでなくてもいつも結構魚臭い。それが腐るのだからとんでもないだろう。私の出身町の勝浦漁港にも3階建てのビルに匹敵するくらいの大型冷凍庫がたくさんある。その中身が腐ると思うと、胸が悪くなる。

 それからもう一つが下水が壊れ、汚物が垂れ流し状態となっていること。流れていればいいが、それが巨大な水溜まりとなってとどまっているのだから、これもとんでもない臭いを発していることだろう。

 震災一ヶ月経ても、ようよう道路の部分の瓦礫を道端に撤去したくらいとのこと。仮設住宅建築、瓦礫の撤去、下水道整備等はプロにお願いするしかない。もちろん、行政府等々一生懸命取り組んでくれているとは思うが、一日も早く整備されるよう願ってやまない。

地震の影響

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 福島県や北関東地域に余震が頻発している。東京では、ほとんどが震度4以下の揺れだが、それでも恐怖と気持ち悪さを感じるので、揺れのひどい地域の方はさぞお辛いことと思う。加えて原発の恐怖もある。「もう、やめてくれ!!」という叫ぶ気持ちもよくわからせていただく。

 寮では16日、開寮記念祭に併せて東日本大震災復興祈願祭を予定しているが、その16日で帰省していた寮生・留学生がぎりぎり揃いそう。今日も母親に日本入りを強く止められていた中国からの留学生が元気よく帰ってこられた。地震の影響で授業のスタートが大学によってまちまち。息子が通っている大学は5月2日スタートで連休を返上するとのこと。

 それから一昨日、被災した寮生の妹さんが寮に避難してきた。娘と同じ高校3年生で学校再開まで1か月程度在寮の予定。ご両親も無事であったが、自宅は二階の屋根を残して壊滅状態と聞いていた。その写真を見て、何とも言葉もなかった。

 親御さんの車は買って1年も経てないそうだが、押し流されて運転席が空に向かって立っている状態。お家は原型をなしておらず、どこがどうか全くわからない。部屋の中に冷蔵庫がなぜか仲良く2台倒れているが、そのうちの一台はどこから入ってきたか、持ち主がわからないそう。

 どういう状況で地震と津波に遭ったか、ご両親や親戚の方がどうであったか、少し笑いをいれながら話されるが、その内容は息を呑むほどで、想像しただけで恐くなる。一歩間違えれば、この世を去っていてもおかしくないのだ。

 ちょうどその日は寮生会の総会があり、みんなにも紹介させていただいた。お姉ちゃんが一緒とはいえご両親と離れ、慣れない土地でまた地震もまだまだ頻発している状態。なかなか落ち着かないと思うが、少しでも楽しく過ごしていただきたい。幸いギターとピアノをやっているとのことで、バンドをやっている娘と気か合いそうだ。

 首都圏フォーラム議長の田中元雄先生が後掲の通り、「世界各地の金光教信奉者の皆さま」と呼びかけておられます。私明日は、卒寮生O君の新築工事地鎮祭奉仕のため、心中祈念をさせていただきたいと思います。

 

 

世界各地の金光教信奉者の皆さま

 

 

下記のような案内を信奉者に出しました。

皆さまのところでも、その土地の時間の 411日午後246分にご祈念をして頂けば、祈りが24時間かけて世界を一周することになります。

  

2011311日午後236分、マグニチュード9.0の大地震と巨大津波。

 

亡くなった方々への鎮魂の祈りと、被災された方々の身の立ち行きを願って、祈りの時を持ちたいと思います。

 

大崎教会では、毎月11日のその時間に、神徳賛詞、天地書附、大震災復興祈願詞(製作中ー今回は間に合わない)、新霊神拝詞をもってご祈念を仕えさせて頂きます。

 

参加出来ない方へは、その時その場で1分間の黙祷をと呼びかけます。

 

 

『原発供養』

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 国や電力会社は、原子炉制御の"命綱"ともいえる電源を、どう位置づけてきたかについて、『読売新聞』によると、「規制当局である内閣府の原子力安全委員会は、1990年に定めた発電用軽水炉の安全設計審査指針の解説に、長時間の全電源喪失について『考慮する必要はない』と明記しいる。理由は『送電線の復旧または非常用交流電源設備(非常用ディーゼル発電機)の修復が期待できるため』としており、国は外部電源を失ってもすぐに非常用発電機が作動すると想定してきた」とある。

 また、今朝のテレビでは、海に放射能が漏れ出ることはあり得ないのだから、魚の放射性物質の基準値はそもそもないのが当たり前のようなことを言っていた。驚きを通り越してあきれるばかりである。戦前の軍部にみられた、都合のよい情報しか取り入れない希望的観測思考や独善的視野狭窄、無責任体制に導く思想や物事の考え方を、全く反省もなく引き継いでいるのではないか。

 この原発問題で、あの『日本辺境論』著者の内田樹氏のプログ(http://blog.tatsuru.com/)の、この問題を日本における宗教的、信仰的に観点からみている「荒ぶる神の鎮め方」、「原発供養」と題した記事は非常に参考になった。

 皆さまにも一度読んでいただきたいが、内田氏は、「原子力についても、そもそもその設営のときに、伝来の古法に則って、呪鎮の儀を執り行うべきだったと私は思う。(中略)
ほんとうに「こういうやりかた」をして原発を管理運営していたら、今回のような事故は起こらなかっただろうと私は思う。(中略)呪鎮の目的は「危険を忘れ去ること」にあるのではない。逆である。「恐るべきもの」を「恐るべきもの」としてつねに脳裏にとどめおき、絶えざる緊張を維持するための「覚醒」の装置として、それが必要だったと私は申し上げているのである」と。
 
 本教流に言えば、国や電力会社や私たち一人ひとりのあり方は、天地のお働きに対して畏れ、畏むことを忘れ、自分勝手に振る舞ってきた無礼のあり方そのものと言えよう。そのつけが一気に今回吹き出たのだと思う。

 そこで本教信仰としてどうあればよいか。原発を忌み嫌い、この期に及んで単に反対するだけでは全く足りないであろう。内田氏が橋口氏のブログを引用して述べられているように、40年間、耐用年数を10年過ぎてまで酷使された原発に対して、ここまでのご苦労をまずはお礼申し上げなければならないであろう。

 橋口さんが言う「ろくな手当てもされず、安全管理も手抜きされ、あげくに地震と津波で機能不全に陥った原発に対して、日本中がまるで「原子怪獣」に向けるような嫌悪と恐怖のまなざしを向けている。それでは原発が気の毒だ」との言に、なるほどその通りだと思う。

 また、現在必死に原発の暴発と戦っている多くの方たちへのお礼と、ある意味で私たちの身代わりとなって避難してくださっている住民の皆さまにもお礼を申し上げなければならない。

 その上で、自分勝手に振る舞ってきたご無礼に対して天地の神様に真にお詫び申し上げ、深く反省し、ここからの教訓を教えていただかなければならない。そして、どうかこれ以上被害が拡大しませんようにと神様にお願い申し上げること。これが今として私にできうる御祈念の中身ではないかと思い、日々祈らせていただいている。

チェーンメール

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 「友達のお父さんがコスモ石油に勤めていて教えてもらったのでみんなにも伝えます。気をつけてください。千葉、首都圏の方へ。千葉の製油所、製鉄所の火災の影響で千葉、首都圏では、科学薬品の含まれた雨が降ることが予想されます。 傘やレインコートの使用をお願いします! 広めて下さい!
とりあえず広めて!
雨にあたらないようにして下さい!」

 私のところに来たチェーンメールと全く同文のメールが、写真付きで今日の『東京新聞』12面「チェーンメール、転送やめて」という記事に載っていた。私のところにも来たということは、よほど大量に出回ったのであろう。記事によるといまだにこの情報を信じている人がいるらしい。

 私のところへは実は二箇所から同じメールが届いた。発信元の方はいずれも信頼できる方である。おそらくその方の発信元の方も信頼できる人であったろう。だから、大量に飛び交ってしまう。

 私も一読目はコスモ石油と具体的なのでうっかり「こりゃ、大変だ」と思ってしまったが、「広めて!とりあえず広めて!」との言葉がどうも嘘くさく、そのまま放っておいた。ほどなく、「今のは誤報でした」とのメールが来たが、人間少しパニック状態になると何が本当の情報か判別できなくなってしまう。

 それからもう一つ、義援金詐欺なるものが横行しているとのこと。こうした人の良心や不安な心につけ込んで騙すという輩は到底許し難い。自己責任が強調される世の中で「騙される方が悪い」という風潮がある。ちなみに、この『東京新聞』の記事も「自己防衛に努めたい」との結論だ。私はこれはおかしいと思う。悪いのはあくまで騙すほうだ。ある意味で一番重たい罪ではないかとさえ思う。徹底的な反省を促すようなシステムがほしい。

首都圏フォーラム復興支援

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 首都圏フォーラム復興支援隊先遣隊に続いて、昨日夜に石巻派遣隊2名、本日朝気仙沼派遣隊3名が必要な物資を積み込み出発したとのことです。
 
 私、寮の方も地震の影響で、入退寮の時期がいつもより大幅にずれ込んできており、また留学生の希望者が立て続けにきたかと思うと、これまた原発の影響か、キャンセルが相次ぐなど振り回され、なかなか東京センターの方へも出務できないようなことです。

 本教では、大阪センターや少年少女会連合本部も本格的な支援活動の準備を始めているとのことですが、そのようなことで私も詳しいことはよくわからず、ただただ御祈念させていただいているようなことです。

 万事にご都合お繰り合わせを頂かれ、所期の目的を達成されますよう健闘をお祈り申し上げます。

原子力発電に思う

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 今からもう30年も前になるが本部教庁布教部時代、現代社会問題研究で「原子力問題」もよく取り上げて議論をしていた。ちょうどその頃の中近畿教区主催の青年教師研修会が福井県美浜町で開催された。

 せっかくだから前の日に美浜原子力発電所を見学しようと訪れたことがある。実は、わが故郷の那智勝浦への立地計画が頓挫して、その代わりに建設されたのがこの美浜原発と聞いている。

 小学生の頃、原子力発電建設反対の漁船団が組まれ、なぜか大漁旗に軍艦旗、日の丸を高々と掲げて、軍艦行進曲の音楽で海上デモ行進が頻繁に行われていた。また周辺に林立していた赤い旗は何だろうと疑問に思った記憶がかすかにあり、今にして思えば右も左も建設反対で一致していたのだろう。

 中近畿教区の研修会でもこの問題を話題にした。アメリカでは、原子力発電は危険なもので事故もあり得るという前提で考えており、地域住民にもあらかじめ危険度を何段階に分けて説明している。しかし、日本では事故はあり得ない、絶対に安全であるというのが大前提となっているのはおかしいと。

 しかし、日本の原子力発電所はその後何度か事故を起こしたが大事には至らず、安全神話は生き続けた。そしていつの間にかあまり問題にしなくなってしまった。この問題が悩ましいのは、私たちも原子力の恩恵に浴していることだ。なかなかあからさまに反対しづらい。

 私自身も原子力発電はつなぎで、21世紀ともなれば太陽エネルギーを最大限利用した安全な発電が科学技術によって生み出されるだろうと楽観的だった。今となってはとんでもない間違いであった。あまりにも安易に電気を使いすぎていた。基本的な生活のあり方まで猛省を迫られていると思う。

「頑張れ」ではないのでは?

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 地震に加え、福島原発事故の影響で私の身近にも精神的にナイーブになっている人が多い。聞くところによると、地震直後の小金井・国分寺辺りの心療内科はどこも予約で一杯で、新規の診察は断られるとのことだ。

 東京でさえこれだから、被災者の皆さまの精神的苦痛、心神耗弱はかなりのものに違いない。そこに持ってきて今日日の新聞やテレビは「頑張れ」「負けるな」と無邪気に叫んでいる。果たしてこれでいいのか。どうも納得がいかない。

 「頑張れ」ではなくて、頑張らなければならないのはこちらではないかと。被災者の皆さんはもとより、日本全体がその苦難を分かち合うべきだ。ただの言葉だけではなくて、それぞれが相当の辛抱を覚悟しなければならないであろう。

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