所用のため、8月21日に一旦帰京。8月27日から、私としては4回目の気仙沼ボランティアとなる。この27日からの1週間は、主にホテル一景閣での清掃作業、唐桑体育館での「思いでの写真」のスキャナ取り込み、気仙沼市災害ボランティアセンターからの大島でのボランティア活動であった。
以前も少し触れたが、一度大島のボランティアに挑戦した時、先着14人までであり、私は15番目で惜しくも行くことができず、このたび再挑戦した。前回よりも相当早めに出て、ほぼ一番乗りで気仙沼市災害ボランティアセンターに入った。
写真は、社会福祉協議会のゼッケンを全員がつけ、大島行きのフェリー乗り場で船を待っている皆さん。雲一つない晴天。海は目映いばかりにきれいだ。船に乗ると、早速に病院帰りのおばあちゃんが話しかけてきてくれた。
「ボランティアの皆さんだね。本当にありがとうね。東京から、それは、それは遠いところありがとうね」と何度も何度もお礼の言葉を頂く。50分ほどの時間の間、ほとんどお話しされ、おばあちゃんのお家のすぐ下の家が流されて、親しい方が行方不明になってしまった話や特に水の大切さを何度も口にされた。
大島は地震直後、流された大型のタンカーが、気仙沼市内から敷かれている水道管を壊してしまい、完全に断水。それも数ヶ月に及んだという。そこで、このおばあちゃんは何よりも水の大切さを痛感したそうだ。
おばあちゃんのご主人とお子様夫婦と孫2人の6人家族だそうで、一日たらい一杯の水をまずは顔から6人が洗い、そして体、頭、足とわずかな水でそれぞれ6人が順番に洗っていったこと。
救援やボランティアの順番がどうしても気仙沼市内の方からになり、大島は後回しにされ、地元の青年たちがボランティア組織を立ち上げて助け合った様子、米軍や自衛隊が来てくれて助かったなど、本当に苦しい生活を余儀なくされたにもかかわらず、終止笑顔で話してくれた。
大島では10人と4人のグループに分かれ、私たちは10人のグループで、田んぼの清掃作業、他の4人は民家の床下の清掃作業にあたった。車で5分程度の海から500メートルくらい中に入った田園。写真の右奥のお家は一階部分がなくて、約200メートルほど流された屋根とのこと。
田んぼにはそうしたお家から出された様々なものが散乱している。それを草をぬきながら丁寧に回収していく。水の多いところでは足が取られ、歩くにも難渋する。それも雲一つないお天気で、どこにも日陰がない。途中、スタッフの方が簡易のテントを立ててくれ、だいぶ助かった。
この田んぼは海水でやられており、復活するにはまだまだ相当の時間がかかるそう。こうした個人の田んぼの中に流された廃材の撤去は自衛隊の人では間に合わず、私たちボランティアの力が大切だが、この時点ではまだまだ人数が必要と感じた。(つづく)
先日はお邪魔しまして、お世話になりました。8日に無事に気仙沼から帰宅することができました。
コメントが見られるようになったこと、被災地の情報ということでコメントさせて頂きました。また拝見させて頂きます、ありがとうございました。
遠方、気仙沼ボランティア、誠にお疲れ様でした。先日は、私も上北沢教会の大祭で、あまり相手ができず失礼しました。
また、今度ゆっくり遊びに来て下さい。