2011年3月アーカイブ

タイの皆様に感謝

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 今朝のテレビニュースを見て、ジーンと胸が熱くなった。東北関東大震災の被災者を少しでも支援しようと、タイでは、各地で募金活動が行われているが、首都バンコクにある貧しい人たちが暮らす地域でも募金活動が始まったそうだ。  
   
  この募金は、およそ10万人が暮らすバンコク最大のスラム街で活動する支援団体が中心となって、20日に始まったもの。参加者が仏教の読経を行い、震災の犠牲者を悼んだあとスラムの中を回り、 震災の被災者への募金を呼びかけた。このスラム街の住民の多くは、一日の所得が日本円で数百円ほどしかない。

 映像では、小さな子どもを含む多くの人々が呼びかけに応じ、次々と募金箱の中にお金を入れていた。募金に応じた男性の一人は、「できることは僅かですが、被災した日本人のためにできるだけのことをしたい」。  
   
  また、募金を呼びかけた支援団体の代表は「これまでスラムの住民は、日本から多くの支援を受けてきた。今こそお返しをするときだ」と話していた。まさに、「お互いさま」の精神。このニュースでは日本円にして120万円以上も集まったとのこと。本当にありがたく、感謝の念で一杯である。

 所沢教会嶋田洋先生と常盤台教会三宅道人先生がそれぞれ2トントラックと軽トラに支援物資を満載にして昨日出発。仙台一泊後、今日は石巻教会と気仙沼教会に入る予定だそうです。

 どうぞ、無事安全、交通安全、万事にご都合、お繰り合わせを頂いて、先遣隊としての目的を達成されますよう切に願い、御祈念させていただいております。

 

津波

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 津波については当欄で何度か触れたことがある。南海大地震が襲った時、近い山に逃げた人は助かったが、遠い山に逃げた人々は津波にのみ込まれたと。これを聞いたのはわたしが小学校の頃。今にして思えば、もう少し具体的にどの山と聞いておけばよかったと思う。いや、その時は話してくれていたはずだが、さすがに覚えていない。

 その私も確か小学校5年生頃に、津波を経験したことがある。小学校は海には近いが、だいぶ高台の山の上にある。ちょうど学校に行っている時で、けたたましくサイレンが鳴った。地震の揺れがどの程度だったか全く覚えていない。ただ、誰かが「潮が引いているぞ、津波がくるぞ」と叫んでいた記憶がある。

 南北に建っている小学校の北の端まで行けば、少しだが海が見える。今までに見たこともない位置まで海底が見えた。しばらくすると遠くの沖合から、数十メートルもあろう高波がやってくるのを確かに見た。

 その後、全員教室に入るようにとの指示で、津波が襲ってくるところは見ることができなかった。その時は、小学校から海側にあたる船のドックなどある大勝浦地区だけが被害にあったと記憶している。

 さて、今回級の津波が来ると、三方が海であるわが家はひとたまりもないであろう。確かに勝浦ハザードマップでは南海大地震の時、津波がわが家の位置まで軽く到達しているのがわかる。となると逃げるしかない。

 そこで問題なのがどこに逃げるかである。いちばん遠い山に逃げるのは、結局津波に追いつかれるからダメ。一番近くは走って2、3分のところにある小山だ。母のお墓がある。この山は一時避難所になっており、一番上にはヘリコプターが降りれるよう一応整地されているが狭い。母のお墓の位置で普通の民家の二階程度。標高10メートルくらいか、15メートルはないかも。この山には多くの人が殺到するだろうし、果たしてこの高さで大丈夫かの問題がある。

  いちばん安全なのは、先ほどの小学校がある山。広いし、高い。何よりも体育館等があり避難場所になるところである。しかし、ここまで行くのに走って7、8分というところか。津波が地震後5、6分で来てしまうかどうかで生死を分ける。いずれにせよ、何はともあれ、いかに早く避難するかが今回の大きな教訓である。
 

東日本大震災支援物資募集要項

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 金光教首都圏フォーラムでは、下記の支援物資を募集しています。また、28日より先遣隊2名を気仙沼に派遣し、今後のボランティア体制を構築していく予定とのことであります。

 募集品目は随時更新されますので、下記の首都圏フォーラムHP、BBS、後掲のツイッターでご確認ください。

http://shutoken.konko.jp/index.html

 

 支援物資募集事項 

★募集品目【すべて新品に限る】チャッカマン、歯ブラシ、使い捨てカイロ、生理用品、ドライシャンプー、マスク(大人・子供用とも)、ウェットティッシュ、タオル、ビニール袋(レジ・ゴミとも)

★4月末日着まで受付。

★送付の仕方(厳守してください。)
1.ダンボールに梱包
2.中身(品名・個数・サイズ)をダンボールの上部・側面(2面)に明記(支援先で即座に被災者へ届きます)
3.ダンボールに混載することは可

支援物資募集送付先:〒113-0033東京都文京区本郷2丁目17番11号
金光教東京センタービル
(03)3818-6321
金光教首都圏フォーラム震災係
差出人名も明記してください。

支援先は、気仙沼・石巻、北関東を手始めに配布予定。
募集品目は、随時更新しますので、ホームページを確認して下さい。
配布状況は、ホームページ・ツイッターにて随時報告していきます。

http://twitter.com/konkokyo_forum

「流された 妻よ娘よ」

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 今日の朝日新聞31面「流された 妻よ娘よ」を読み、もう涙を抑えることができなかった。新聞記事を読んで胸が張り裂けそうになったことはかつてない。妻子を失った「佐々木政良(まさかず)さん」の心中を思うと言葉もない。
 
 「あとを追おう」とした正良さんを救ったのが母親の一言だった。
「あなたには三人を守る使命がある」、「仏になってもおなかもすくし、のども渇く。ほったらかしにできない・・・」。

 この言葉にわたしも御霊様を実感した。この記事を書いた坂本泰紀さんという記者の方も、恐らく泣きながら書いたと思う。目を背けたくなる辛い、辛い現実である。しかし、背けるわけにはいかない。地震で犠牲になられた御霊様たちの立ち行きと被災者の皆さまの一日も早い復興を祈るばかりである。

 昨日は金光教芝教会・金光教ボランティアチームのタイムリーな「東日本大震災被災者救援募金活動」に参加させていただいた。気仙沼教会ご信徒で、寮生のRちゃんの友達も参加。

 11時30分に新橋駅烏森口で待ち合わせ、久しぶりに再会した皆さんが笑顔で会話が弾んでいる。少しほっとする。なんとここに7人、現地に1人と計8人も来てくれるとのこと。また、寮からは国際センターに研修に来ているトロント教会のステファニー・レイテさんも参加。ありがたいことである。

 早速に芝教会に向かうと、教会長の宇都木あけみ先生やご主人、ご信徒の方々があたたかく迎え入れてくれた。午前中は資源回収をしていたとのことで、教会前には雑誌と新聞の山。資源回収をしながら募金の活動もされ、4万円以上の募金があったそうだ。

 12時、芝教会お広前で御祈念、説明を聞き、その後気仙沼の方たちの自己紹介をして下さった。なんと、その朝初めて親御さんと連絡がとれ、やっと安否がわかった方、あの火事で家を焼かれてしまった方、家族や家は無事だったが、知り合いや友人を亡くされた方、実家に帰りたくても帰れないこの子たちの心労を思うと胸が痛い。

 12時30分頃、銀座数寄屋橋まで約1キロの道を徒歩で向かう。救われるべきはみんな明るい。現場に到着、早速に配置につく。ただ、土曜日ということと福島原発や余震、計画停電の影響か、いつもよりはるかに人出が少ない。

IMG_007011111.jpg 何度か場所を変えながら賢明に呼びかける。高校生や小さなお子さんもマイクを持ち、訴え続ける。Rちゃんも声を振り絞って「助けて下さい」と呼びかける。途中から気仙沼の大学生たちにもマイクを持ってもらった。

IMG_007811111.jpg 「私たちは気仙沼から上京している大学生です。気仙沼の海は風光明媚で有名な海です。その海が一瞬にして凶器と変わりました。あっという間に津波にのみ込まれ、いまだに家族との連絡がとれない方も多数います。私たちも家を流されました。しかし、何とかここから立ち上がって行きたいと思います。それには皆さまの助けが必要です。どうぞ、救援募金にご協力をお願いします」。

 だいたいこのような内容。もうこれを聞いただけで涙が出そうになり、隣を見ると、あけみ先生のすぐ下の妹さんが、もうボロボロ涙を流して泣いている。その頃からは人通りも多くなり、募金して下る方が増えてきた。

IMG_007911111.jpg 宮城県出身の女性の方は、二箇所で行っている両方の箱に募金をしてくれ、その後遠いコンビニまで行ってペットボトルのお茶まで差し入れて下さった。わざわざ車をとめて、募金して下った方もいる。その真心の浄財が475,315円も集まった。芝教会内の募金も併せて50万円以上、毎日新聞東京社会事業団を通して現地へ送られる予定である。

 このたびの大震災の完全復興までには、もう何十年も覚悟しなければならない。今こそ助け合いの精神で、すべての人々ができる範囲で全力で支援ができていくよう願ってやまない。

金光教芝教会募金活動へ

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 本日1時から、金光教芝教会主催の銀座数寄屋橋交差点での募金活動に参加してきます。寮生で被災された気仙沼教会ご信徒の娘さんとそのお友達4名も参加します。皆さん、家を流されてしまった人ばかりです。「できることなら何でもしたい」と言っています。

 昨日は、長野県で農家をされている寮生のお父様が、大量のお米と野菜を持って来て下さいました。今日参加の方でお米に困っている人もいるとのことで、少しですが持って行きたいと思います。

 気仙沼にバスが通ったとの情報がありました。まもなくとりあえず持てるものは持って、先遣隊が出発すると思います。また現在、東北地方をはじめ北関東被災地に物資を運ぶ手立てを首都圏フォーラムの方々が必死で探してくれています。一日でも早く必要な物資が届きますよう、被災者の皆さまのためにお役に立てますよう願っています。

 

地震後について

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 書きたいことは山ほどあり、また、沖縄遺骨収集記も途中で中断。地震後の混乱、昨日初めて実施された計画停電への対応等で更新できず失礼。

 被災地の皆さまのことを思うと、この程度のことは大したことではないが、情報の混乱(計画停電東京電力HPでは小金井市貫井北町5丁目は第2G、実際は第3Gの時間帯に停電。市役所のHPでは、なんと「市役所に問い合わせてもわからない」と書いてある)や買い占め、福島原発の会見を見ていると憤慨しそうになる気持ちを抑えるのがやっとである。

 そのようなことで、昨日東京センターに地震後初めて出務。昨日はちょうど東京センターと首都圏フォーラムで、東北・関東大震災被災者支援のための会合があった。

 会合では阪神大震災、中越地震への支援の反省を踏まえ、東京センターと首都圏フォーラムの連携、ご本部との位置づけ、「今すぐにできること」、「近々にできること」、「中長期にわたってすべきこと」について意見を出し合い、そのための体制について話し合った。

 現在、現地情報収集、いろんな方法について実施可能かどうかの情報収集など、センターとフォーラムが手分けをして当たっている。22日にフォーラム会議が予定されており、その後にこの場でも詳細が報告できそうで、皆さまにもご協力のお願いをさせていただきたい。   

寮生ご家族も無事でした

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 東北出身の寮生は、気仙沼教会のご信徒です。先ほど気仙沼教会長の娘さんで東京にいるお嬢様から連絡が入り、気仙沼教会ご家族、寮生ご信徒ご家族も無事とのことでありました。

 一関教会の方が気仙沼に入り、無事を確認、一関教会に戻り連絡を下さったとのことです。全く連絡が途絶えていたので、ひとまずは安心しました。皆さまにはお祈り添えをいただき、また寮生の皆さまも集会室に集まり、御祈念、寄り添い、励ましいただき、誠にありがとうございました。

 ただ、いまだライフラインは復旧の見込みがつかず、被災者の皆さまは本当に大変なことと思います。引き続き、お祈り添え、ご支援をいただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

 とりあえず、ご報告まで。

 

寮生は無事

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 海外帰省等以外の方は、全員連絡がとれました。ただ、東北出身の寮生の家族との連絡がまだついてません。引き続き、無事を祈っています。

 遺骨収集終了日の夜は、林先生のご子息のお店である「ヘルシーダイニング キュアハート」で懇親会が開かれた。何と遺骨収集参加者100人の約半分の50人以上が参加。お店のテーブルを全て片付けての立食パーティ。

 那覇教会のご信徒が「ぜひ懇親会を開きたいと」と願いを立てられ、当日はそれぞれ司会や受付、接待等々の御用に当たられた。遺骨収集の準備、後片付けと大変な中でのおもてなしに頭がさがる。司会は島袋さん。沖縄弁の名調子で楽しい。

 と思ったら、一班の班長ということで、いきなりマイクを向けられた。そこで「今回は関東から寮生等学生が5人参加してくれた。ただ参加するだけでなく、映画『ひめゆりの塔』やNHKスペシャル『最後の県知事島田叡』や沖縄戦を描いた漫画なども見てもらって事前に学習してきた。初参加者でご遺骨の発見もあり、実際に現地の雰囲気に触れて、平和の尊さを実感できたと思う。大変ありがたい2日間であった」と挨拶した。

 その後、教外からの初参加者の方にも感想を述べていただき、それぞれ想像していた以上の体験をされたようで大変ありがたいことであった。こうして初参加者からベテランまで、アメリカのロンさん夫妻も挨拶された。そこで思わせていただいたのは、人と人とのつながりであった。

 もちろん遺骨収集の内容そのものに意義を感じての参加であるが、最初のきっかけや何回も何十年も参加されている方々にとっても、それぞれの人格に触れ、仲間意識が生まれ、「あの方が参加するなら私も」とか、「1年に一度はみんなに会いたい」といったつながりから、多くの参加を得ていることがよくわかった。 

 老若男女、皆さんいい方ばかりである。こういう人ばかりなら戦争は絶対におきないと本当に思う。泡盛もすすみ、時間も経つのも忘れて交流を楽しんだ。あっという間のひとときであったが、「また来年」との声を掛け合いながら、それぞれのホテルに帰っていった。

 次の月曜日は夜に那覇空港出発なので、一日時間がある。若手たちは沖縄に来る前は、「せっかく来たのだから、あちこち観光を」と考えていたようだが、結局、「ひめゆりの塔」、「轟の壕」、「嘉数高地激戦地跡(普天間基地を展望)」、「嘉手納基地」等、平和に関する場所だけを回ったとのことであった。

 こうして最終日もあっという間に過ぎ、午後10時頃無事羽田空港に到着、バスで12時前に国分寺到着、12時頃無事帰寮させていただいた。今回の体験をぜひまわりの寮生や友人たちにも話して聞かせてほしいとお願いしたら、数日後近藤君が早速に次回の月例祭でみんなの前で話させてほしいと申し出があり、大変嬉しく、先日寮生たちの前で話してもらった。(つづく)

沖縄遺骨収集 6 慰霊祭へ

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 寮生3人はまだまだ残りたい感じではあったが、誠に残念ではあるが時間も迫っているので帰路につくことにした。するとあの黒アゲハ蝶が一匹現れ、私たちの歩く横を並んで飛んでいく。

 私は後ろを歩いている息子に向かって、「御霊様が私たちを見送ってくれて、ありがとうとお礼を言っているかもね」と話しかけた。私の場合はこれまで4回とも一日に1回、それも一匹だけが現れる。比較的暖かい日は、普通なら複数で飛んでいても、また、何回も現れてもおかしくないのに、これも不思議の一つである。

 その黒アゲハ蝶がさっと前方に飛んでいった。しばらく歩くともうすでにどの班もいないと思っていたら、かなりの大人数がまだ作業をしている。2班と3班のようだ。何とまた黒アゲハ蝶が飛んでいった方向である。結構、最終日の作業終了ぎりぎりになって発見されることがよくあるのだ。ここでも大腿骨やあごの骨等が収集されたようだ。
                  
 今日は時間がないので、撤収の準備をしているとのこと。私たちは一旦霊園まで帰り、みんながすべて本部に帰るまで待つことにした。雨は相変わらずしとしとと降っている。しばらく待つと2班、3班が上がってきた。

 ふと霊園奥にあるトイレを見ると、誰かがホースで水を出している。あわてて近づくと現在北九州教務センター所長の安武光先生だった。私と学院が同期である。2班の機動班濱出先生にもお手伝いいただいて、トイレ掃除をさせていただいた。

 男子、女子トイレともべっとりと土がついているために、なかなかとれない。寮生らがよく頑張ってくれて、かなりきれいになった。すでに4時を回る。私と濱出さんは慰霊祭での玉串の奉奠がある。濱出さんが「まだ間に合う。この辺でいいでしょう」との声に、あわてず急いで本部テントに向かった。一番最後は3班の数人の方が梯子などの道具を洗って最終チェックをしていただいた。

 私たちは、林先生ご祭主のもとに仕えられていた慰霊祭の玉串奉奠に何とか間に合った。厳かに仕えられた後の林先生のご挨拶は、いつもとは少し違い、時々感極まって声が途切れ途切れになる。沖縄遺骨収集の願い、経過、ご活躍された今はなき先生方のこと等を詳しくお話になり、私も何度も涙がこぼれそうになり、厳粛な気持ちの中に本年の遺骨収集を終えさせていただいた。(つづく)

 二日目も午前8時50分、沖縄平和祈念公園内本部テントに集合。あいにくやや強い雨が断続的に降っている。御祈念、朝礼の後、早速に作業の準備に入った。大石を動かすためのロープ等を持つ。梃子になるバールは貴重で、他の班も使用している。3班班長の中村先生に拝み倒して1本貸してもらった。

 昨日は降り道のある霊園まで歩いたが、今日は車に分譲して向かった。雨で山道もだいぶぬかるんできているため、慎重にも慎重を期して降りていく。海岸線の大石も濡れていてよく滑る。けがのないようにと御祈念しながら進む。

 4、50分かかり、ようやく昨日の休憩場所まで到着。じっとしていると寒いが、動くとカッパの中が蒸れて暑い。少し休憩した後、約40歳以下のメンバーは、昨日大腿骨発見場所に移動。その他の方は引き続き周辺を捜索していただくことにした。

__ (7)111111.jpg __ (7)111111.jpg 写真は大石を動かしているところ。この真上の岩盤の上に数人上がってもらい、上と下でロープを持ってかけ声のもとに一気にあげる。最初はビクとも動かない直径50センチ以上の大石を何度も何度も挑戦する。割れた石が何重にも重なっているので、ただ持ち上げるだけでは無理。

 右に左に少しずつずらしてあげていく。昼食を挟んで数時間かけてようやく大小数々の岩石を取り除いたが、残念ながら新たなご遺骨は発見できなかった。その後、付近を探索していた吉永君が新たな自然壕を発見したと近藤君が戻ってきて報告してくれた。ただ、夕刻16時からは本部テントで慰霊祭が仕えられる。それに間に合うよう終了しなければらない。

 また、断崖の降り口にある霊園のトイレを貸していただいているが、そこが泥だらけになっているので掃除をする必要がある。私と寮生3人は全5班がすべて帰った後に掃除をして帰ることにし、その他1班の班員の皆さまには、慰霊祭に間に合うよう先に帰ってもらった。そして、先ほど吉永君が発見した自然壕を見ようと向かった。

 この壕は、自然の壕を恐らく軍隊が手を入れて整備していた壕と見られ、入り口付近は整然と石が積み上げられている。大きさはそれほどでもないが、狭い穴が奥にいくつも続いている。寮生3人らは奥に奥に入りたがったが、こうした整備された壕はすでに他団体が何度も入っていると思われ、昨年も若松教会隊が徹底的に調べ上げたと聞いていたので恐らくはここにはないことを告げ、一応見える範囲のところは確認して作業を終えた。(つづく)

沖縄遺骨収集 4 大腿骨発見

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 昼食後、寮から参加した吉永君が「自然壕はどこにありますか?」と尋ねてきた。「この辺りは探せばなんぼでもあるので、それぞれの正確な位置はわからない」と答えた。「じゃあ、三人で探しに行っていいですか」と言うので、「あまり遠くに行かないように。危ないところには入らないように」と念を押して、行ってもらった。
                          
 私は、黒アゲハ蝶が飛んでいたところを重点的に探したが見つからない。海岸線ぎりぎりのところを飛んでいたので難しいかなと思っていた。海岸から山に向かって這い上がっていくとまた黒アゲハ蝶が現れ、今度は右方向上部へと飛んでいった。その方向へ海側から行くのは危ないので、一旦ジャングルに入って進み、しばらく捜索した。

 予定していた休憩時間となったため、休憩場所に一旦戻った。何人かが休憩に戻ってきたところに、寮生三人も戻ってきた。どうも雰囲気が違う。吉永君が近づいてきて「寮監、出ました」という。そういえば右手に白布を持っている。

 開けると大きな大腿骨2本(写真)が出てきた。思わず「え、壕の中?」と聞いた。「ここから少し左に行ったところの岩の下にありました」と。私はその方向を見てびっくり仰天。先ほどの黒アゲハ蝶が飛んでいった方向なのだ。

__ (3)11111.jpg 私はこれまで7回参加したうち、黒アゲハ蝶が現れた4回のうち4回ともその飛んだ方向にご遺骨が収集された。4発4中である。休憩場所から海側を行くと、もう10メートルもない距離である。初参加のY君が本当によく見つけたと思う。大岩が割れ崩れ、その岩石の下にあったようだ。

 ご遺体が上から落ち込み、ご遺骨がバラバラになっている可能性がある。手の届く範囲で小石を取り除き、1日目の作業終了時間まで探したが、小さな骨片は少し出てくるものの、頭骨は見つからなかった。機動班の橋本さんとも相談し、明日の作業としてロープで大石をつり上げて捜索することにした。最後にご遺骨の前で「祖先賛詞」奉唱、御祈念をさせていただいて一日目を終えた。(つづく) 

沖縄遺骨収集 3 黒アゲハ蝶出現

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 沖縄平和祈念公園を横切り、平和祈念資料館を右手に見ながら畑地をさらに西に進む。いつも駐車場やおトイレを借りる霊園に到着。ここまで約徒歩30分。ここから先はトイレがなく、休憩。

 ここから各班一人ずつ断崖下へと降りていく。あいにく天気は小雨で地面はやや濡れている。ロープを張ってはいただいているが、急坂。ここから5班全員が降りるので渋滞する。各班一列に並び、順番を待つ。

P2130012.JPGのサムネール画像 P2200398.jpg 写真1は祈念公園一番奥から具志頭方面。実際の作業場は写真2からさらに西に進んだところ。

 急坂を下りてやや平地の道があるところで一服。ここから海岸まで石階段がついている。この下にあった水源へ降りるためだったらしい。水道を引っ張っていたと思われるすでに使用していないさびたパイプ管が残っている。石階段は自殺者が利用するということで戦後に途中まで壊されたそうだ。

 その階段下まで降りて海岸の岩盤上を少し歩いて行くと、小さい人工の堤防がある。そこで一番手前の2班が一番西に、その後わが班、続いて4班と団子状態になったので一時休憩。その後、2班を追い越して私たちの持ち場へと進む。

__ (5).JPG 写真は途中雨が少しきつくなったので、艦砲射撃で開いた穴に避難したところ。ここは雨に濡れないので、荷物を集め、休憩場所とした。作業を開始したが、ジャングルの中はお天気の影響で暗い。移動しながらのご遺骨探しは困難を極めた。

 私は途中身体が冷えたので、一人休憩場所に戻り、衣服を一旦脱いでいるとそこに札幌から参加のKさんが戻ってきた。するとそこから数メートル下の海岸側に例の黒アゲハが今年も飛んできたのだ。

 私は思わずKさんに、日本では蛍であるが、沖縄では黒アゲハに御霊が宿りこの世に戻ってくるといわれている。沖縄遺骨収集では何人もの方が黒アゲハが飛んだ周辺からご遺骨を発見していると話した。しかし、ご遺骨発見がなかなか困難になってきた今日、正直内心今回はどうかなと思っていた。(つづく)  

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