第40回沖縄遺骨収集奉仕に参加 4

 いよいよ遺骨収集一日目。見事な晴天。いつもながらのおかげをいただく。7時に朝食、7時30分ホテル出発、途中コンビニに寄り昼食弁当を購入する。これもゴーヤー弁当などなど沖縄しかないものがある。残念ながらこの日はゴーヤー弁当がなかった。残念。

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 沖縄県平和祈念公園の一角に設けられた本部テント前に集合する。懐かしい顔が続々と集まり、1年ぶりの再会に喜びの挨拶を交わす。何と今回は100人超えて、全国から104人もの方が集まった。

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 私はここのところ定着している1班の班長。今年の1班は、わがグループ8人と常連群馬県の土居先生兄弟、一般参加者の2名、そして機動班の大ベテランKさんの13名だ。班事に整列し、林先生先唱御祈念、ご挨拶をいただく。

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 その後班長が集められ、この時に初めて捜索場所が指定される。今回も昨年に引き続き摩文仁の丘の西端にある健児の塔から各班入るようだ。1班はその一番手前の「風部隊慰霊碑(中央航空路部隊〈風18918部隊〉、第五野戦航空修理廠第一分廠等)」から山になっているところに入る。一番上が断崖になっており、その向こう側を重点的にとの指示。

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 わが1班はいつも初参加者が多く、今年も5名いる。注意事項を聞いてもらい、みんなで記念写真。そして健児の塔付近まで歩いて移動、まずは、かつてお世話になっていたおみやげさん後のひろばで全員濱出先生から説明を聞く。その後5班までの各班が所定の位置へと移動する。

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 1班はそこからすぐのところ。早速にそれぞれ思い思いに山の中に分けはいる。この辺はもう何度も入っての場所なので、あまり動き回らず、一箇所場所を決めたら、丁寧に掘り起こして取り残しがないか探るのが重点的な作業となる。

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 程なくして、一般から初めての参加者の方が骨片を見つけられた。薄いさじのようなご遺骨でその方がその骨の名称を言われたのだが、今思い出せない。かなり医学的専門用語のような名前であったが、後から聞くとその方は何とお医者さんだそうで、なるほど詳しいはずだと感心した。

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 その後すぐにこれもまた初参加者の板東さんが細骨を数点収集された。昨年のわが娘や一昨年の吉永君もそうであったが、初参加者の方が結構すぐに発見する。午後近くなって、私の名前を呼ぶ声が聞こえる。よく聞くと全体機動班の中澤さんの声のようにも聞こえる。

 返事を返すのだが、声が小さいからか返答はない。10分ほど経て同班のもう1人の一般の参加者の方がやはり中澤さんが私を呼んでいると知らせてくれた。この方はもう何度か経験されていて、数日前から入って中澤さんと共に捜索して下さっている方である。

 ようよう下に降りていくと、どうも緊急事態のようである。確か大阪の高橋さんが私にパソコンを見せ、「このご遺骨は確か一昨年1班が収集したものですね」と聞いてこられた。確かにそれは一昨年寮生の吉永君が発見した立派な大腿骨二本だ。このご遺骨の収集場所を特定してほしいと県の職員の方と警察官2名が同行を求めているとのことであった。

 残念ながら吉永君は仕事で今年は参加していない。そこで私に行ってもらいたいとのこと。もちろん場所は覚えているが、断崖を降りて、その途中からはうる覚えでしかない。中澤さん、高橋さんも同行してくれるとのことで6人現場に向かうことになった。

 一昨年の捜索場所は、摩文仁から東の具志頭方向に結構離れた断崖の下。県の方の車で送ってもらう。その後に警察の車が着いてくる。公園墓地がある敷地内から断崖を降りていくが、2年経ているだけで木々は生い茂り、所々一昨年あった道はなくなっている。

 中澤さんが1番、私が2番、その後県の方、警察官2人、高橋さんの順で行くので、必死でついていく。自分のペースよりはかなり早いのだが手が抜けない。汗でだくだくになる。

 発見された場所は、下に降りきった海辺近くの大岩である。断崖を降りて今度は山道を歩いていく。そろそろ海岸に降りるのではと思うのだが違う。かなり記憶が曖昧だ。さすがに先頭の中澤さんは歴戦の勇士。ほとんど的確に覚えており誘導してくれた。

 パソコンの中にあった写真と全く同じ景色が現れた。すると年輩の警察官の方が「おうー」と叫んだ。何だ!と驚いたが、何と沖縄本島では絶滅したと言われる植物が海岸の岩に生息していたからだ。確か梅がつく名前だったが忘れてしまった。盆栽などに使われるそうだ。

 若い警察官の方が入念に現場写真を撮影し終わった。そして今度は帰りが大変。下ってきたところを今度は登る。元いた1班の作業現場に戻ると昼はとっくに過ぎた2時前であった。(つづく)

第40回沖縄遺骨収集奉仕に参加 3 

 対馬丸記念館見学の後、ホテルにチェックイン。昨年と同じホテル国際プラザであったが、前日にお電話をいただき、朝食は姉妹店である那覇グランドホテルになるので、毎回移動するか、グランドホテルの方も部屋があいてるとのことで、それでは最初から隣接する那覇グランドホテルにしてもらった。

 国際通りからはやや奥に入るが、その方が静かでいい。国際通りに面しているホテルでは部屋によっては夜中や早朝、結構外の声でうるさいのだ。駐車場もちょうどプラザホテルとの間にあって近い。部屋はそれほど広くないが十分である。地理的に申し分ない。

 夕食はネットで調べていたほとんど地元の人しか行かないという食堂花笠1号店。歩いて10分もかからないところにあるが、時間的にどうかなぁと行ってみたら、案の定シャッターが半分降りていて、ご主人と思われる年配の男性が立ってテレビを見ていた。入っていける雰囲気ではない。

 実はその先5分くらいのところに、食堂花笠2号店というのがあり、そっちに行ってみることにした。裏側から入ったのか、勝手口のようなところから入ろうとして間違い、表に回る。ここも終わりかけのようだったが、快く迎えてくれた。

 ご飯物はもうないとのことで、沖縄料理定番のゴーヤーチャンプルや麩チャンプル、沖縄そば、ソーキそば等々を注文する。飲み物はやはりオリオンビール。これがすこぶるうまい。そして麩チャンプルを一口、思わず唸った。よし、よしである。

 その姿に沖縄初体験のものも、一口食べてうなずいている。これで決まり、完全に沖縄にはまったと確信した。ゴーヤーチャンプルは、ゴーヤーの味がすぐるので、まあだいたいは美味しい。麩チャンプル、まずこの麩が沖縄独特の沖縄しかない麩なのでまずは驚く。そして味がよくしみこむので、その店、店、家庭、家庭で微妙に味が違うのだ。これがもう楽しみ。花笠2号店も最高に美味。しばらくして勢い当然泡盛となった。

 そして最後にアイスティーをサービスで頂いた。私もよく知らなかったがコンビニに「花笠食堂アイスティー」というのが売っている。それは牧志にある有名な「花笠食堂」のことらしい。その花笠食堂と、ここの食堂花笠1号店・2号店が関係あるのかないのかは定かではない。

 ごちそうさまの後、国際通りを帰宅中、そのコンビニに寄った。コンビニでの買い物もまた楽しい。東京にはない色んな沖縄特有のものが売っている。Vさんが「ここは俺のおごりだ」と宣言。みんなVさんのかごに好きなものを入れる。

 ホテルに帰り、Vさんの部屋に集合。まだ遺骨収集が始まる前というのに、みんな日頃の鬱憤をはき出し、ミミガーなどをつまみに何と夜中12時を越えて1時近くまで盛り上がってしまった。(つづく)

第40回 沖縄遺骨収集奉仕に参加 2

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 私は3回目になるが、入館してすぐに10分程度の映像を見せて頂き、その後受付にいた二十歳過ぎの女性が詳しく説明してくれた。淡々と説明はされるのではあるが、なぜこのような悲惨な事件が起き、それをなぜ次の世代に伝えようとしているのか、その思いがヒシヒシと伝わってきた。

 今回の最終日に初めて訪れた糸数壕でももう一度ふれたいが、戦争体験者の体験談をほとんど聞けない状況を林先生を始め様々な方が心配をされていたが、戦争を体験していなくても、伝えようとする熱意と過去に学ぼうとする熱意があれば十分に伝わっていくと思った。

 一緒に参加したK君が「盛んによかった、よかった」と言っていたので、「説明した女の子がかわいかったんだよね」と茶化したら「そうそう」とうなずいていたが、淡々とした中にも情感がこもり、ただの説明ではない私たちの肺腑を衝く内容で本当によかった。皆さんも是非。那覇中心部から那覇港方面に車ですぐである。

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 写真は当時の小学校の黒板を再現したもの。沖縄の言葉は正しくない間違った言葉だった時代。沖縄の言葉で話すと日本軍にスパイ扱いされたという。

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 学校の先生には到底見えない。服装も顔も全くあってない。(*^_^*)

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 館内を見学中、T先生が外の公園に慰霊碑があると言われ、行ってみた。今まで全く私は気がついていなかった。対馬丸記念館の裏手にある丘を登っていくと、韓国か中国風のお寺が前方に見え、その反対の記念館側の丘の中腹にある。

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 丘の上にある展望台に上ると那覇港の船が見える。対馬丸事件のことを知らずに対馬丸記念館と聞くと、横浜港に停泊している氷川丸みたいな船の博物館のように想像してしまうようだ。しかし、実際に来てみての事の重大さに、みな言葉を失う。

 この対馬丸を沈めた米潜水艦ボーフィン号は、ハワイ真珠湾のアリゾナ記念館に隣接する潜水艦博物館に「真珠湾攻撃の復讐者」としてその本物が展示されている。この対馬丸記念館では意識的にかそのことは展示の文章内で少し紹介されている。

 それはなぜか。次の対馬丸記念館のパンフレット冒頭にも掲載されている「いま『対馬丸』を語ること」を読めば理解できると思う。

いま「対馬丸」を語ること
(前略)

人々の「想い」、それは平和への強い「希望」です
戦争を語るとき、悲しみと憎しみが生まれます
悲しみの大きさを、「希望」にかえる努力をしないと 憎しみが報復の連鎖をよびます
しかし、報復の連鎖で悲しみは癒されるでしょうか?

いま「対馬丸」を語ること、それはなんでしょう?

いまも世界では報復の連鎖が 子どもたちから新たな夢と希望を奪っています
この報復の連鎖を断ち切る努力を一人ひとりがすること
これこそが、対馬丸の子どもたちから指し示された 私たちへの「課題」ではないでしょうか    
    (2004年8月22日 財団法人対馬丸記念館)

第40回 沖縄遺骨収集奉仕に参加 1

 先日、2月15日から18日までの三泊四日で、沖縄遺骨収集奉仕に参加した。今回も勉強会と説明会を開き、映画「ひめゆりの塔」の鑑賞や話し合いを持った。わがグループは総勢8名。男性6、女性2名、初参加者が4名。

 今年も名鉄観光のツアーで昨年とホテル等ほとんど同じ内容である。昨年と違うのは、今年は15日金曜日朝から行動を一緒にできるとのことで、できるだけ早い便で沖縄入りし、できるだけ遅い便がありがたく、羽田朝8時フライト、最終日沖縄19時20分発での日程となった。

 羽田8時となると小金井は5時頃に出なければならない。幸いこれまで国分寺からしかなかったバスが武蔵小金井からも出るようになった。ただ、それでも5時15分発のバスに乗る必要がある。毎年この一番最初が難関。案の定、1人が出遅れ、出発ギリギリにバスに乗り込みセーフ。毎年、まずは参加者の体調、健康、都合、天候、交通機関の万事のお繰り合わせを日々祈る。スムーズの旅立ちにホッとする。

 飛行機は予定通り沖縄到着。レンタカーを2台借り、金光教那覇教会に参拝。無事の到着をお届けし、ご無礼過ちなきようお願いする。林先生から遺骨収集のさわりのお話を聞く。その後は毎年、恒例の戦跡巡り、平和学習ツアーを予定している。まずは嘉手納基地や普天間基地を遠望できる嘉数高台公園に向かうため北上。

 その前に腹ごしらえ。ネットで調べてもらい、タコライスの有名店に食べに行く。ただ、私には量が多すぎて食べきれず、若者に食べてもらった。せっかくネットで評判のいいところを探してもらったが私にはちょっと大味だった。

 この頃になると小雨だった雨が強くなり、これでは基地に行っても何も見られないと判断し、北上は断念。那覇港近くにある「対馬丸記念館」に向かうことにした。

 昨年は時間の都合で立ち寄ることができず、今年の参加者はみんな初めてのこと。対馬丸についてはこれまで何度か触れて来ているが、沖縄から本土に向かう疎開船で、九州に疎開中、アメリカ潜水艦の標的となり、乗船者1800名のうち、学童775名を含む1418名(氏名判明者数)が一瞬のうちに帰らぬ人となった事件である。(つづく)

第40回沖縄遺骨収集参加へ

 今月も15日から18日の予定で、第40回沖縄遺骨収集奉仕に参加します。今回私たち一向は8名。その内半分の4名が初参加者ということもあり、今年も先月の25日に寮集会室で事前勉強会、説明会を行いました。今年も映画『ひめゆりの塔』を鑑賞し、また、これまでの体験談を聞いていただきました。

 そのこともあり、当ブログでもカテゴリー一覧のところに沖縄遺骨収集の欄を新設しました。2003年の第30回に初めて参加し、その間2回ほど寮の運営委員会と重なったため参加できませんでしたが、その他8回分の体験談と沖縄に関わるテーマについてここに集めました。

 降順に並んでいるので、連載になっているのは開催回数の先頭まで戻って、画面でいうと上へと戻る感じで読むようになります。また、最初の頃の写真の移動やリンクの再設定がまだなので、読みにくいところもありますがお読みいただけれ幸いです。

第39回 沖縄遺骨収集奉仕参加 完 2012年2月 



○最終日は恒例で平和学習見学。ただ、今年は沖縄自体が初めての子も多く、沖縄の芸能や文化も学ぶために、玉泉洞のある「おきなわワールド」にも立ち寄った。

○まず最初に那覇教会に参拝。お届け後、林雅信先生先唱のもとに御祈念、その後先生から、「1月に沖縄の宗教者や行政で行った摩文仁の丘の清掃日は、それまで2週間ほど雨か曇りかの天気が続いた中で、晴天のおかけを蒙り、またこのたびの遺骨収集も天候のおかけいただいた。いつも御霊様と共にあり、喜んでいただいていると思う。皆さまの身の上にも必ずおかげとなってくる。どうぞ、この貴重な経験を生かして、これからも元気で頑張ってほしい」とのお話を承った。

 

P2201936 (640x480).jpg○次に毎年必ず訪れる「ひめゆりの塔」、ここの資料館は何度来ても暗澹たる気持ちになる。下の写真は沖縄陸軍病院第三外科豪付近にある豪の入り口。映画で見た内容が実感として迫ってくる。

 

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P2201940 (640x480).jpg○続いて、ひめゆりの塔から東に車で20分ほどいったところにある玉泉洞。とてつもなく広く、大きい。

 
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P2201954 (640x480).jpg○そこからまた車で20分ほど内陸に入った南風原(はえばる)というところにある陸軍病院第20号豪入り口。首里城を放棄し、南下途中、艦砲射撃を避けるため、海岸から一番離れた中央の山間部に大規模な壕が掘られた。ガイドの方から説明を聞く。予約していくと説明を受けることができるので、皆さまも沖縄に行かれた際は、是非お立ち寄り下さい。

 

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○映画「ひめゆりの塔」に出てくる、女子学生が壕から出て、水場がある井戸へと向かう道。ここで多くの女子学生が死傷した。

 

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○私は、全く整備されていない時代から毎年訪れていたが、この沖縄陸軍病院南風原壕群から飯あげの道を通って歩いて行くと、反対側にある南風原文化センターに行けることを初めて知った。この南風原文化センターも平和学習の施設としては穴場であるが、内容も充実しており、是非訪れてほしい場所の一つだ。

 いつもなら、ここから空港へ向かう途中の豊見城(とみぐすく)にある「旧海軍司令部壕」に寄るのだが、今回は時間がなく、南風原文化センターにある昔のおもちゃなどで楽しく遊んで帰った。

 今年も万事にご都合お繰り合わせを頂き、20日深夜に無事に帰寮した。また来年も是非行きたいとの声に感謝。(おわり)

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第39回 沖縄遺骨収集奉仕参加 6 2012年2月

●最終日の夜は、林先生のご子息がされている「ヘルシーダイニング キュアハート」http://r.gnavi.co.jp/f124400/」での懇親会。

●中村先生に突然娘が連れて行かれ、毎年参加されているアメリカのR氏ご夫妻のところに連れて行かれる。そして才田氏、大庭氏の重鎮にも囲まれ、何事か話している。英語わかるのかな?


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P2191926 (640x480).jpg●那覇教会のご信徒H氏の司会で懇親会が始まる。毎年軽妙な語り口で楽しい。主だった方がご挨拶や感想を述べられる。司会から「辻井先生」と名前を呼ばれたので、席から腰をあけようとした瞬間、「ではなくて、今回初めて参加した娘さん」と何と娘が指名された。大丈夫かなとドキドキ聞いていたが、結構しっかりしゃべって、親ばかではあるが、よく話せたと嬉しかった。

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P2191930 (640x479).jpg●最後の方で私も結局指名された。「今回参加の寮生たちは、気仙沼でのボランティアに何度も参加し、また昨年秋のご本部参拝のおりに広島原爆資料館に行き、そしてこの沖縄遺骨収集にも参加させていただいた。

 そこで気仙沼教会長の奥原志郎先生、広島南教会の神田照家先生、そして那覇教会の林雅信先生に出会い、それぞれ薫陶を賜り、大きく成長させていただいた。

 今年も沖縄に来る前は映画「ひめゆりの塔」やNHKスペシャル「最期の県知事島田叡」を見て事前に勉強してきた。ただ、本当に大切なものをつかむためには机上ではなく現場に立つことが必要。その意味で今年の寮生は本当にいい経験をこの1年のうちに積むことができた。

 私は常々寮生たちに話している。それは、『地震や津波の災害や、原爆・地上戦の戦争とそれぞれ違いはあるが、不幸にも犠牲になられた御霊様は、少し前までは普通に親があり、子どもがあり、家族があり、友があり、恋人があり笑顔があった。それを一瞬のうちに奪われた御霊様たちは、絶対に何か言い残したかったに違いない。そして今も私たちに何かを伝えたいと思っているはず。

 その声なき声を聞かせていただくために、その現場に立ち、そしてそこから大切なものを学びとってほしい』と。そのことを願って、次世代の人に積極的に参加を呼びかけ、今年もこうして多くの若者が参加してくれてありがたい」とご挨拶申し上げた。最後に恒例となりつつある『故郷』をみんなで歌って終了した。(つづく)

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第39回 沖縄遺骨収集奉仕参加 5 2012年2月

●第2日も、第1日と同じ場所から西に向かって丹念に探索。下から上へ、上から下へと。時々2班の方の声が近くに聞こえるが姿は見えず。

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P2191910 (640x474).jpg●残念ながら、第2日目の収骨はなし。午後3時30には作業を終え、慰霊祭に参拝した。
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P2191924 (640x478).jpg●(つづく) 

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