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ご参考までに。

 本年度の寮講演会は、講師の関係でここでは紹介できないことお許しください。
 さて、来年はいよいよ憲法改正へと動きが加速してくると思われます。そうした中で社会学者の大澤真幸氏が、日本国民のほとんどは九条の理念は正しいと考えているにもかかわらず、他方で安心、安全もほしいので、自衛隊と日米安保を許してしまっているといったこれまでの護憲派の問題点を指摘しながら、九条をそのまま実行してもなお、われわれは安全で安心でいられるということを著書や講演で具体的に示してくださっています。以下は本のタイトルとある日の講演の概要です。
 どうぞ、ご参考にして頂くとともに、周囲にもお勧めください。皆様よいお年を!!

著書
『憲法9条とわれらが日本-未来世代に手渡す』(筑摩選書、2016年6月)
『日本人が70年間一度も考えなかったこと-戦争と正義』(左右社、2015年11月)
『憲法の条件-戦後70年から考える』(NHK出版新書、2015年1月)

講演「憲法九条を考える」大澤真幸氏
 改憲が現実味を帯び、対外的には北朝鮮の脅威がある。こういう状況下では、リアリズムに則った選択をいくら重ねていっても逆にひどい結果になるであろう。これは戦前の日本が、戦争へと常に現実的に小さな選択を積み重ねていき、ある日気がつけば最悪の選択をし、全く非現実的な行動をとってしまったという事実を顧みれば明らかである。こういう時は、一見空想的かと思われるような手を打たなければならない。それがどうして合理性があるかについてのお話をしたい。

1 短い憲法に託された無意識の欲望
 日本国憲法は字数が少なく非常に短い。英訳するとおよそ五千英単語になる。世界平均は二万一千である。短いから、長いから悪いというのではなく、短いという事実の中に隠れている日本人の無意識の欲求がある。日本国憲法が短い理由は極めて短期間で作ったことと、戦後70年間一字一句変化がなく、また追加がなかったためである。また、現存の非改正憲法では世界で一、二番の長寿の憲法である。
 その変えられなかったという事実に、改正への無意識の抵抗感がある。その核心にあるのが憲法九条だ。九条を変えられたくないために他も変えられなかったということだ。ただ、これは不思議なことである。例えば外国から見れば、すでに九条は解釈改憲が行われ自衛隊が存在し、世界一強い軍隊を持つ国の庇護の元にある。また日本の同盟関係国は九条の存在を望んでいない。普通に考えれば九条を変えた方がいい状況である。だからこそ改憲派は改憲すべきだと主張するがそうはならない。これほど九条改正に圧倒的に好都合になっているにもかかわらず、強い抵抗感がある。
 その理由の一つは、日本国民は九条に込められている理念、理想を道義的に正しいと思っているからだ。これは改憲派さえも同じだ。九条の理想が間違っているからということで改憲を主張する人はいない。理想は大事だが今はまだ早いという言い方である。もう一つは、日本はまだ敗戦の余韻の中にあり、敗戦による自尊心の崩壊に対して、九条が対抗の象徴であると考えている。戦後というピリオドが生きているのは日本だけで、もし九条がなかったら、日本人は敗戦から何を学んだのかということになる。もうそろそろ敗戦の否認や敗戦のトラウマから脱しなければならないが、そこから抜け出せるための唯一の手がかりが九条である。
 このように改正に好都合である状況にもかかわらず70年間護憲に執着してきた理由は、日本人の中に蓄積してきた無意識の願望があるからである。

2 ならばどうして改憲の動きが
 ではなぜ改憲の動きが強まっているのか。それは憲法に対して特に護憲派の欺瞞的、偽善的態度にある。護憲派が見てみないふりをしていることの一つに自衛隊の存在がある。集団的自衛権が議論された時に解釈改憲が問題となったが、自衛隊創設の段階ですでに解釈改憲が行われている。さらに重要なのは日米安保条約だ。九条とは明らかに矛盾している。九条の理念は大事だが、他方で安心、安全もほしいので、自衛隊と日米安保を許しているという中途半端な状態になってしまっている。
 ここで何が大事かというと、九条をそのまま実行してもなお、われわれは安全で安心でいられるということをいかに納得させることができるかということだ。そこで私たちの課題は、九条を実行してもなお、どうすれば安心で安全でいられるかを示すことである。これを積極的に表に出さなければ必ず改憲になるであろう。

3 絶対平和主義は無抵抗を意味しない
 九条は極めて単純でわかりやすい。つまり戦争はすべて悪であり、そして軍隊を持たないという絶対平和主義である。絶対平和主義について多くの人が誤解している点は、もし軍事的に侵略された場合に無抵抗のままだと思っていることである。これは違う。絶対平和主義は、武力を使わず徹底的に抵抗する非暴力抵抗という考え方である。絶対平和主義は軟弱な姿勢に思われるが、むしろ厳しい平和思想である。侵略者は日本人を殺したいから侵略するのではなく、日本を統治することによって政治的経済的利益を得ようとしているのである。もしそれを実現しようとすれば日本人が協力しなければ成功しない。徹底的に抵抗されれば侵略のコストが高くつくし、それ自体が失敗する。また侵略者はよほどの道義的正当性がないと国際社会から支持されない。
 それでも普通の人は、自衛隊のような軍隊がある方が安全ではないかと思う。その場合、軍隊を持っていいという人は、徴兵制を強いられてもよしとする覚悟がいる。もし徴兵制をとらないとすると、軍隊にはその国の中で一番恵まれてない人が行くようになる。これは平和ただ乗り論である。軍隊必要論者は、いざとなれば自分も軍隊に行くという気持ちでいるべきだ。逆に徴兵制に反対ならば、軍隊を持つべきではないと論陣を張らなければならないと思う。

4 積極的中立主義の提案
 九条の理念を前に進めるために、私は積極的中立主義を提唱している。普通中立主義は、定義上A国とB国のどちらにも与しないという態度をとることから消極的と思われている。これに対して積極的中立主義は、AもBもどちらにも援助をしようという思想である。どちらかの陣営につくとそれは集団的自衛権になる。
 A国とB国が戦争をしている場合、双方に死傷者が出、施設やインフラが破壊され、食料や物資も不足しているだろう。難民も多く出ているはずだ。こうした問題に対処すべく、双方の陣営に非軍事的に援助する。これを日本の外交方針にすべきである。どちらの陣営からも「敵」と見なされず、安全保障上も日本を安全にする。AとBのAだけに加担するとBを敵に回すリスクを負わなければならない。消極的中立主義は両方に嫌われるだけである。積極的中立主義が理想的に展開すれば、追随者、模倣者を生むはずだ。そうなれば世界は積極的な相互援助のネットワークとして描くことができる共同体となる。
 これは一種の国家レベルの良心的兵役拒否の考え方である。普通の良心的兵役拒否は平和主義を標榜し兵役を免除されるのであるが、その場合それと同等のボランティア活動などをしなければならない制度である。あるいは戦争に行っても丸腰で衛生兵として活動する場合もある。これはその日本国版の考え方である。
 集団的自衛権行使容認派は、いくつかの強い国が紛争を解決し、にらみを効かせているから世界の平和は保たれているのであって、日本はこの平和にただ乗りしているのだから、日本も多少なりともその行動に参加しなければならないという考え方である。それに対して積極的中立主義は、私たちの国は良心的兵役拒否をすると宣言し、軍隊は出さないけれどもそれに相応する負担はもちろん負っていくという考え方である。これが九条の理念を発揮しつつ、結果的には日本を世界で一番安全な国にする。
 
5 東アジア・ピクニック計画
 ここまでは一般論だが、北朝鮮問題に対してこの積極的中立主義の考え方を応用すればどうなるかを考えてみたい。この場合、典型的なAとBの紛争に対してCが積極的に中立主義に立つという構図ではないが、たとえ対立している国であっても、嫌な相手であっても必要な時には援助するという考え方は、応用例になるだろう。
 北朝鮮問題は、国防軍を創設し、核武装しても解決にはならない。この問題の最終解決は北朝鮮の民主化しかない。私たちは南北統一はかなり難しく民主化は奇跡のように考えているが、実は民主化していない方が不思議な状態にある。以前の東ヨーロッパには、今の北朝鮮のような国がたくさんあったにもかかわらず、1989年に奇跡が起き短期間に民主化し、国自体なくなった場合も多かった。
 なぜ北朝鮮だけ民主化しないのか。ある脱北者の学生が面白いことを言っている。世界で一番豊かな国であるはずの平壌で、浮浪者のような親子を見た時、北朝鮮公式イデオロギーが間違っていると突然気がつき衝撃を受け、孤独感が襲った。しかし、大学で公式イデオロギーを学ぶ講義を受けた時、隣の人たちを見ると自分と同じ無表情な顔をしており、みんなもすでに秘密を知っているのだと気がついた。北朝鮮の国民はみんなそのことを知っているのに、誰も真実を言っていないだけであって、そのことを知った学生は安心したということだ。
 本当は信じていない信者ばかりで非常に脆弱そうに見えるが、逆に言うと信仰はこういうふうに維持されるというところもある。例えば日本人の空気もそうだ。みんなわかっているが、空気の方が大事だという雰囲気がある。典型的な寓話が裸の王様である。北朝鮮はまさにその状態で、空気と一緒で以外に壊れない。しかし同時に脆弱な状態で保たれている。1989年以前の社会主義国は徒党を組んでおり、今の北朝鮮よりはるかに強固だった。本当は北朝鮮が長続きしている方がおかしいという状態である。
 では、どうして東ヨーロッパは民主化できたのに、北朝鮮はそうならないのか。結論的にいうと、当時のヨーロッパの西側の国々と、韓国、中国、日本という東アジアの北朝鮮の周辺国の態度の違いである。突然思わぬ形で東ヨーロッパの民主化が起きたのにはきっかけがある。1989年にヨーロッパ・ピクニック計画というのがあった。東ドイツから西ドイツに亡命させてあげようとする計画である。それはまず東ドイツから東側陣営のハンガリーに避暑を装ってピクニックに行き、そしてハンガリーと隣接する西側陣営のオーストリア国境を通り、オーストリア経由で西ドイツに入るという計画である。ハンガリーはすでに改革を推進しており、予めこの計画を知っていたが国境を通すことを許可していた。東ドイツは当然厳しく抗議したが、ハンガリー政府ははねのけた。こうして壁が開きはじめ、3ヶ月後にはベルリンの壁が壊れ、東ドイツが崩壊するに至ったのである。
 このように東ヨーロッパの民主化が成功したのは、ヨーロッパの国々の友情があった。北朝鮮は東アジアの国々の友情をもらっていない。私はヨーロッパ・ピクニック計画と同じように東アジア・ピクニック計画を行えばいいと考えている。北朝鮮の民主化を促すには、北朝鮮から千人、二千人規模の亡命者を引き受ければ、その引き金になるに違いない。日本の役割としては、中国を説得しつつ自ら積極的に亡命者を引き受けることを宣言することで、それによって韓国も引き受けざるを得なくなるだろう。そして南北統一へと向かう時に、日本は統一コリアンに対して経済的援助をすればよい。戦前、日本は朝鮮半島を占領し、分断の原因となった。これが最後の朝鮮半島に対する日本の責務としての負担であり、罪滅ぼしではないかと考えている。

6 国連改革のための提案  
 もう一つの具体的な取り組みとして、日本の安全と世界の平和、正義の実現のために国連改革を提案したい。国連機能の一番の問題点は安全保障理事会である。国際間の問題の解決に安全保障理事会があたっているが、現在のように紛争当事者のA国とB国の代表を直接呼ぶのではなく、それぞれの国に関係のない媒介者であるN国とM国が、それぞれA国、B国の言い分を聞いた後に当事者国に代わって理事会の場に出てもらうのがよいのではないか。となるとA国はN国に、B国はM国に、自分の立場を納得させなければならない。つまりA国とB国が直接やり合えばお互いの立場を主張するだけで絶対に解決にならないので、そこに媒介者を置くことによって、当事者国は媒介者国への説得のために自分の立場を一旦相対化しなければならないことになる。そのプロセスを経るのがねらいである。利害関係のない第三者であるN国とM国は、A国とB国の説得に納得しなければ代弁できない。当事者国はその説得の過程で、自分の主張だけが絶対に正しいのではなくて、様々な考え方もあることを自覚させられる。そして理事会がどのような結論を出そうとも、一旦相対化できているので、それを受け入れる準備はできているということである。
 ここで言いたいことは、日本は国連で常任理事国になりたいといったケチなことを言っている場合ではなく、国連の紛争解決能力に問題があるのだから、これに対して改革案を提出し、世界の中で自身の立ち所や立場を作っていくことが必要ではないかと考えている。

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