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東京学生寮8月月例祭・食事会

東京学生寮8月の月例祭が、田中美和子先生ご祭主のもとに仕えられ、後掲の教話を賜った。
その後、中国からの留学生3人の食事当番により、冷やし中華、ピーマンの肉詰め、手羽元のコーラ煮、キュウリの和え物、はまぐりと茄子のお吸い物等々盛りだくさんの料理を作って下さり、食事会を催した。超美味でした。感謝。

教話
金光教の信心に初めて触れるという方も何人かおられると思います。私が高校や大学の学生時代、教会に生まれ育っていながら、真剣に神様に向かうという姿勢はなかなかできていませんでした。神様はいつも身近かにおられて、守って下さっているということは感じていましたが、信心するという生活態度ではなかったです。友達の言動に納得できなかたり、自分の努力不足ではありますが、受験では思うような結果が出ず、第一志望の学校には合格できず残念な思いをしたりすることもありました。そういった自分の思いや望む事がうまくいかないとか、思うように事が進まないというような出来事を、信心で取り組むというようなことがその頃はできてなかったです。短大学生活を終えてしばらくした時にふと振り返ってみて、志望の短大にはいけなかったけれど、自宅近くの短大に通ったことで時間的な余裕もあり、アルバイトの経験もでき、友達にも恵まれた充実した二年間だったと思えるようになりました。

ここである中学生の作文を紹介させて頂きます。いつ頃のものかはわかりませんがたぶん5.60年以上前のものだと思います。原文を読むと長いので、私の言葉でまとめてお伝えしたいと思います。この主人公は中学3年生15歳の男の子で、高校受験をした時に、少年とその友人Aくんとの関係から学んだことを綴っています。担任の先生にすすめられて、Aくんと少年ははある私立の名門校を受験したんですね。先生から「君たちなら絶対に大丈夫だと思う」と太鼓判を押されて、両親も大変喜んでくれていたので、その期待を裏切ってはいけないと猛勉強をしたんです。ところがその入試でAくんは合格したけれども少年は落ちてしまったんですね。それまでの何回かの実力テストではいつも少年が一番でAくんがその次だったそうです。それなのに入試本番で自分が落ちてしまったんです。

その時に誰の顔も見たくない惨めな思いをして、部屋に閉じこもってしまったんです。両親は心配で、食事を部屋まで運んでくれたり優しい言葉をかけてくれるんですが、余計にそれがしゃくに障るんですね。布団の中にもぐっていると、母親が「いまA君が来て下さったよ」と言うんです。すると、「おかあさん、ぼくは誰の顔も見たくないんだ。特に世界中で一番見たくない顔があるんだ。だれか言わなくてもわかるだろう。帰ってもらってくれ」と言うんです。お母さんは「せっかく来て下さったのにお母さんにはそんなっことは言えないよ。あなた達の関係はちょっと間違えれば敵味方になってしまうような薄っぺらいものなの。いやなら話だけ聞いて、そっぽを向いていなさい」と言って部屋を出て行ったんです。二階に上がってくる足音が聞こえてきたんです。布団をかぶってる惨めな姿は見せたくないと思って、起き上がってみると、戸が開いてAくんが涙をいっぱいためてくしゃくしゃの顔で「ぼくだけ合格してしまってごめんね」とやっとそれだけ言うと、階段を駆け下りていったんです。

その時、少年は恥ずかしさで一杯になったんです。自分は思い上がっていたし、いつもAくんなんかに負けないぞとAくんを見下していたと気がついたんです。もし自分が合格してAくんが落ちたとしたら、Aくんのように「ぼくだけ合格してごめんね」と泣いて慰めにいっただろうか。自分ならざまあ見ろと余計に思い上がったに違いないし、自分なんか落ちるのが当然だとと気づくんです。もし合格していたらどんな恐ろしい独りよがりの思い上がった人間になってしまったことだろうと気がついて、自分は落ちるのが当然だった、落ちて良かったと思ったということです。本当の人間にするために、天がぼくを落としてくれたんだと思う。悲しいけどこの悲しみを大切にしよう。今まで思うようになることだけが幸せだと考えてきたけれど、Aくんのおかげで思うようにならないことのほうが人生にとって大事なことなんだと知った、という内容の作文です。15歳の少年の文章とは思えないです。これは金光教の信者さんではなくて、一般のかたの文章ですが、物事の受け取り方、考え方が金光教の教えによく似ていると思って紹介させて頂きました。

一般的に神社やお寺でお願いするというと、何事もなく健康で幸せに暮らせますようにとか、難を逃れたいということでお祓いをしてもらうとか、厄年になると厄除けを願うことをします。金光教では、厄年は一層お役に立つ年とらえて、人のお役に立てるようお願いをするんですね。信心していれば何事も問題は起きませんとは教えていないですね。生きていれば難儀にあうことはありますよとした上で、信心していれば神様が手伝って下さって、苦難を乗り越える力を神様が下さるんです。この少年は不合格の辛い経験から、自分の思い上がった生き方を改める事を教えてくれたと思いを転換することができたんです。金光教では思い分けと言いますが、それは簡単ではないです。少年は辛い事柄に出会ったけれど、そのマイナスの事柄を人生の上に生かすことができたんです。「思うようになることだけが幸せだと考えてきたが、思うようにならないことのほうが人生にとってもっと大事なことなんだと知った」という文章は金光教の信心に通じると感じます。困難に出会った時にどういう態度がとれるか、どういう心の持ち方ができるかを信心によって鍛えていくことが大切だと思います。

教祖様のみ教えに「難はみかげ」「わが心でわが身を救い助けよ」とあります。教祖様は度重なる苦難を乗り越えられ、その事柄を生きる力にして大勢の人を助けられました。教祖様が残されたたくさんのみ教えを普段の生活の中に生かしていくことが信心です。学校生活、健康、人間関係、今後の進路についてこれから乗り越えることがたくさんあると思います。問題に出遭った時に、これは神様からの課題だと思って、この問題を神様が一緒に乗り越えさせて下さると信じてくじけない生き方を心がけて頂きたいと思います。そのためには日頃から神様に心を向け、毎日お礼お願いをして、信心の稽古をして頂きたいと思います。

起きてくる問題や事柄を生かすということをお話しさせて頂きました。

 

 

 

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