「世界平和を祈るつどい」企画会議
昨日は、12月のご本部報徳祭時に修徳殿で毎年開催している「世界平和を祈るつどい」の企画会議が東京センターで開催された。このつどいは、金光教非戦平和ネットが中心に金光教平和活動センターの共催と10以上の団体の後援を得て開催している。
つどいの具体的な内容は、関東圏の非戦平和ネットのメンバーと、つどいの御用をして頂いている教信徒により決めている。昨日はテーマ、構成、アピールする内容などを検討した。
そのアピール内容について、ある後援団体から「是非原子力発電の問題を取り上げてほしい」旨のお願いがあった。非戦・平和ネットメンバーはいわゆる「脱原発」の考えではあるが、その根拠をどこにおくか、天地の道理など教義的に押さえるか、信心でとらえるか、あるいは一般常識的なところで押さえるか、侃々諤々と意見をたたかわせた。
ああ言えば、こう言う向きもあったが、金光教人らしいなあと改めて思ったのは、「私」や「我々」を高見におかず、相手の立場をなるだけ考えようとする姿勢である。
非戦・平和ネットは、ある望ましい価値を指向し、いわゆる政治的な問題を教内で恐らく一番扱っているように思う。そこには橋下維新の会ではないが、共通の価値観を持ったものが集まっているように思う。普通は一般では、例えば「脱原発」と言えば当然その方向性は決まり、どうそれを他の人に展開していくかを考える。
しかし、このグループはみんな金光教人である。その発想は、脱原発にも色々あるし、消極的容認派もいるし、推進派の人もいるから、そのみんなが助からなければならない、と考える。それ以前に、まずもってこれまで原発の電気のお世話になっておりながら、また、これまで全くといっていいほど無関心でありながら、急に原発反対はいかがなものかと。
ある若手の教師が「ここにいる人が全員が、はなから脱原発でいくなら私はここを退席する」と言い放った。正直、最初むっとして、思わずいらんことを言ってしまったが、内心「あっぱれ」と感心した。これでこそ真の平和のあり方であり、戦争にならないあり方だと。その場の雰囲気に流されて自分の意見を押し殺し、結果破滅に向かったのは先の戦争の教訓としなければならないところである。
この企画会議では、この原子力問題を脱原発、原発推進という対立構図としてとらえず、このたびの福島原発事故を受けて、まずはその現実をしっかりと直視する。そして、私たちの生き方に問題なかったか、反省する点、改めなければならない点はないかというところからアプローチしていき、金光大神様の信心を生きる金光教人として、まずはそのご無礼をおわび、生き方として改まっていこうということにした。
そこで次回の会議までに、ご無礼とお詫び、改まりについて具体的に文章化し、「脱原発」を掲げてのアピールではなくて、正直にこの企画会議で議論されたポイントをプリントして配布させて頂き、参集者の皆さまに一緒に考えてもらう方向はどうかということで終わった。
外部から見れば、一枚岩で当然のこととして、主張、行動しているように思われがちだが、毎回議論を重ねながら、正義の押しつけ、善意の押しつけにはならないよう十分に留意しつつ、しかし、主張すべきはできるだけ共感を得て頂く形で努力していると思う。
ただ、私は根が気が弱いもので、議論となると「弱い犬ほどよく吠える」というところのスピッツみたいにキャンキャン吠えているようになってしまい、相手をねじ伏せようとしてしまいがちになる。深く反省している。早急に改まっていかなければならないが、ついつい熱くなってしまうこと、他意はないのでご容赦願いたい。
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