「本然の生命そのものが承服する」

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 先師の高橋一郎先生は、『金光教の本質について』で「ほんとうの幸福」とは何か、「ほんとうの喜び」とは何かについて、それは「本然のいのちそのものが承服する」ということと表現をされている。一郎先生の論はかなり理屈ぽくて、ここでいう「ほんとうの幸福」、「ほんとうの喜び」とはどういう喜びかについてよくわからなかった。

 喜ぶということについては、その漢字だけでも「喜ぶ」「悦ぶ」「歓ぶ」「慶ぶ」と4つある。熟語になると「歓喜」「随喜」「狂喜」「満悦」「大悦」「感悦」「喜悦」「愉悦」「恐悦」「悦喜」と限りない。4字熟語となると「欣喜雀躍」がある。中日ドラゴンズか優勝したときの欣喜雀躍の喜びはよくわかるのだが。 

 これだけ違う表現があるのだから、それぞれの喜び方や意味合いがあるだろう。そのすべてがほんとうの喜びではあるが、さて、どの喜び方をもってほんとうの喜び、「本然のいのちが承服する」ことになるかというとどれも言い得てないようにも思う。

 自分自身を振り返ってみると、最近は自身のことで喜ぶということはあまりなく、たとえば息子が野球で大活躍してまわりの方からほめられた時、あるいは先日妻の誕生日に、娘が自分が初めてバイトしたお金で誕生日祝いを買ってきて渡したところを見た時や、何とその数時間後に今度は息子が誕生日祝いを持って帰ってきて、妻がもううるうると感動している姿を見た時などは無上の喜びを確かに感じた。

 そのようなことを考えていると、ふと「あ、そうか!」、神様も同じように氏子らが喜んでいる姿を見て、喜んでいるんだとここで改めて気がついた。そうかこの瞬間が、つまり神様も喜んでくださっていると感じ入ったときが本然のいのちが喜んでいることになり、「承服」していることではないかと思ったようなことである。

 なるほど一郎先生のいう「自分一人だけのことを考えず、つねに自他をこめての全体の立行き立栄えることのために生命をかけている人間、行為、生活の事実に接したときは、人という人みなが、心を打たれるのである」、「自分のために他を利用するのでもなく、他のために自分を犠牲にするのでもなく、自他もろともに、天地人生の全体が生きがいを感じて幸福でありうるような世界を、生命は心の底から願っている」ということ、そのことこそが神様の願いであるということをわからせていただいた。

 この「本然の生命が承服」する生き方を実践し、家族から友人、寮生、信奉者、町会の人々から世界人類に至るまでその全体を願う生き方をさせていただき、ほんとうの喜びを分かち合い、神様にも喜んでもらいたいと切に願っている今日この頃である。

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このページは、つっさんが2010年2月 3日 18:54に書いたブログ記事です。

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