第28回金光教東京平和集会 3

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 さて航空機からの爆弾攻撃によって戦争のあり方が決定的に変化した。それは、「戦闘員」と「非戦闘員」、「前線」と「銃後」の区別がなくなったことだ。実は戦争にもルールがあり、「戦時国際法」で最も長い歴史をもつといわれる条項は、「非戦闘員の殺傷禁止」。「戦争に一般の国民を巻き込むな」ということだ。
 
 しかし、第一次大戦頃から全ての国民を動員した「国家総力戦」という戦争になる。そこで「戦争を早く終わらせるための空爆は人道的である」という「戦略爆撃正当化論」というのが出てきた。

 それは第一次世界大戦の地上戦で膨大な犠牲者が出たことによって、唱えられ始めた。この「戦略爆撃正当化論」によって東京大空襲も原子爆弾投下も正当化された。しかし、どう考えても一般市民を巻き込む「無差別爆撃」であったことは火を見るより明らか。

 この戦争を早く終わらせるために民間の犠牲者は、やむを得ない犠牲、つまりネセサリーコストという言葉一つで片付けられてしまった。この言葉はイラクに攻め入った米軍の攻撃で、イラクの民間人が多数亡くなったことについてどう思うかと聞かれたときの米軍兵士の答えだ。

 このネセサリーコスト、やむを得ない犠牲という思想は、今も昔も変わっていないのだ。

「敵機は何を狙ってくるか-10万、20万の爆死にも驚くな」

 これは太平洋戦争時の総督府防衛総本部顧問陸軍中将菰田康一(こもだやすいち)という軍人の言葉だ。『国民総力』昭和19年710号という雑誌に掲載されたもので、「敵機は何を狙ってくるか-10万、20万の爆死にも驚くな」というタイトルの文章。これは東京大空襲のまだ前の昭和19年の段階だ。

 「都市爆撃について死ぬ人がたくさんできます。東京の爆撃をある1つの想定の下にしますと、約10万人の人が死ぬことになります。

 (中略)しかし、東京の人は、70万から80万であります。その中で10万人死んだところで、東京はつぶれもしないし、日本全体を考えると10万人死んだところで驚くに値しません。10万、20万死んだところで大丈夫なのであります」と。

 驚くなと言われても、驚きます。人の命を単に数字で見ていたに過ぎなかったという証言です。

 そしてこれは現在の日本も同じ。有事法制が整備され、国民保護法が議論されていたとき、当時防衛庁長官であった自民党代議士久間章生(きゅうまふみお)氏は、「国家安全のために個人のいのちを差し出せとはいわない。が、90人の国民を救うために、10人の国民の犠牲はやむを得ない」と言っている。

 この人は「原爆はやむを得なかった」と発言して、物議をかもした。この10人はつまりネセサリーコストとして片付けられる。

 この10人に入ったら悲惨。何を考えているか恐ろしい限りだ。(つづく)

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このページは、つっさんが2010年7月28日 14:19に書いたブログ記事です。

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