「運動」推進信徒集会が開催

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 昨日は、東京センターにおいて、「運動」推進信徒集会が開催された。講師は、育成部次長の藤原正幸先生。実は藤原先生は、私が布教部に入部したときの直属上司。手取り足取り一から教務を教わり、大変お世話になった先生。そこで忘れないうちにこちらを先にご報告したい。

 こんにち運動発足10年目を迎え、今後継続するのか、新たな運動を生み出すかは今のところ決まってないが、10年目の今としてこの運動とは何であったかを押さえ、次のステップへとしたいことが述べられた。

 運動の方向性については、○教会や家庭で取り組んでいる信心実践が、そのまま運動実践である。○運動は、自分が頂いてきたおかげを自覚し、「神が助かることになり」と神様が仰せになる信心を目指すものであり、神と人との関係を深めていくものである。○本部広前や教会に参拝して、お取次ぎを頂くことが、信奉者としてあるべき信心生活の基本であり、運動としてとりわけ大切な取り組みである、とされた。

 そして「あいよかけよの生活運動」とは、信奉者一人ひとりが「神様にお喜びいただける」信心生活になっていくことを目指す運動と押さえられた。

 さらに、運動実践の事例として「願い願われる関係」、「教会参拝の意義」、「神様の願いを分かる」との三つの事例が紹介された。その後班別懇談の後、全体懇談で質問や意見が出された。

 「講師が紹介された事例が運動実践から出てきたものか、通常の信心の範囲なのか」、「運動発足時教規が改正されたが、それは運動と連動しているのか」等の質問、「運動の文言が抽象的過ぎ、多くの解釈を生み出している。10年も続けているのなら、その都度整理しながら子供にも分かるような具体的な表現で説明してほしかった」等の意見が出された。

 私はこれはひとえに本教の「運動論」の問題として聞いた。普通運動とは、ある具体的な目標を掲げて、それを達成するための活動や実践をいう。その目標は具体的なほどその成果が見えやすい。

 しかし、本教の運動は目標が抽象的、理想的であり、また長期に継続するために成果として現れにくい。それは本部当局が本教信仰の特質でもある自由や多様性を重んじるためだ。具体的にわかりやすくすればするほど、信心を拘束、固定化してしまうと危惧しているからである。

 勢い、このたびの講師の押さえにもあったように、「教会や家庭で取り組んでいる信心実践が、そのまま運動実践である」という表現になってしまう。しかし、この運動に真剣に取り組む方々ほど、「それではこの運動を起こす意味があるのか、普段の信心と同じであれば、それでいいではないか」と。

 この議論は、実は私が布教部時代、前運動の時から続いている。私も確か森定内局の時に一度だけ運動に関わる会議のメンバーに選ばれたことがあるが、その時にこの「運動」は、一言で言えば「布教運動」なのか、「信仰実践」運動なのか、「信仰自覚」運動なのかと質問した覚えがある。つまり、性格を明確にしないとそれはいわゆる「運動」にならないのではないかと。

 この問題が今も続いているように思う。もちろん、このことについてはその都度議論されてきていることと思うが、一ついえることは自由と多様性を重んじ、具体的な取り組みをそれぞれ現場に任すのなら、任せ放しにせず、教会の取り組みは各センターが、各教区の取り組みは本部教庁が情報として収集し、それをまた各現場に還元していくことがいるのではないか。

 それこそが本当に自由と多様性が発揮できるのであり、今のままでは結局運動を展開しているのか、していないのか、成果はあがっているのか、あがっていないのか、よくわからないままにただ看板を掲げているだけということのなりかねない。そんなことを私自身思った集会であった。
 

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このページは、つっさんが2010年7月25日 10:38に書いたブログ記事です。

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