「白菜に花を咲かせた男」

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 ある古い書類の捜し物で段ボール箱をひっくり返していたら、1990(平成2)6月号『中近き』66号(金光教中近畿教務所発行)という冊子が出てきた。なぜ大事にとっていたのかはすぐに思い出した。

 「巻頭のことば」のタイトルが「白菜に花を咲かせた男」。その男が実は私。執筆者は「のび太」となっているが私の同輩。大阪出身で金光教学院は少し後になるが、ご本部布教部時代には男子独身寮で隣同士の部屋だった。彼は教学研究所で御用をしていた。

 その男子独身寮で、秋のご本部大祭のお下がりをいただき、みんなで鍋をしようとしたときからこの話は始まった。ご大祭のお供え物のお下がりは、本部職員等に配付される。その時のお下がりに大きな白菜が入っていたのでみんなを部屋に呼んだのだ。

 ところが、ある方が同じ白菜を持ってやってきた。結局、私のは1個丸ごと残ってしまい、狭い洗面所の足下に置きっぱなしになってしまった。誠にご無礼な話ではあるが、いつかいただこう、いただこうと思いながらそのままになってしまった。

 そして色は茶色くなり、だんだんに腐ってくる。しかし、ご本部大祭のお下がりであるから捨てるわけにはいかない。まだ中は大丈夫と思いながら、またまたそのままにしてしまった。ある時ふと気がつくと大きな白菜がソフトホール大くらいの大きさになった。

 ひと冬を越し、次にふと気がついたときは何とゴルフボール大になっている。そしてだんだんに暖かくなり、ふと見ると、何と何とそこから芽が出ているではないか。そしてその芽は少しずつ少しずつ伸び、何と春のご大祭を迎える頃には菜の花と同じような1㍍以上の長さに成長し、とうとう花を咲かせたのである。 

 全く日の当たらない、裸電球1個の薄暗い中で、養分はおそらく私が顔を洗った水のしずくのみ。黄色と紫色が混ざったそれはそれは妖艶な色の花であった。私は何ともかわいそうに思い、無礼をわびながら寮の畑に植えた。が、急に強い日差しの元へ出したためだろうそこから白菜はよみがえらなかった。

 「のび太」氏はこのエピソードを紹介しながら、白菜を教団にたとえて、教団の危機意識として文章を展開しているが、私は、自身のご無礼と恥を棚にあげて、根源のいのちの存在、いのちの働きについて、このエピソードを今でもよく話している。

 例えば、スーパーに陳列されている野菜や果物は、すでに収穫されたもので私たちはすでに死んだものと見ている。お肉やお魚はもちろんのことすでに死んでいるものと考えている。しかし、野菜たちはまさにまだ生きているし、肉や魚もそれ自体としては死んでいるが、腐る過程ではそこに細菌といういのちが生きている。

 物は当然いわゆる命として生きてはないが、例えば木は木として何千年も生きていると言われているし、加工品も元々生きている地球そのものの体の一部から成り立っている物である。物も根源のいのち働きからのものであり、お役に立つ働きとしてのいのちがあるのではないかと思うのだ。

 だからこそ、すべてのものを大切にしなければならないのであり、「すべてを大切にする」ということは、さらに「自分に役に立たないものであっても粗末にしてはいけない」という倫理規範に結びつく行動ではないかと思うのである。金光学園の合い言葉「自分を大切に、人を大切に、ものを大切に」を改めてしみじみと思い返している。

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このページは、つっさんが2010年9月24日 12:34に書いたブログ記事です。

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