勝浦教会大祭教話「有り難いから、ありがたいのです」

| コメント(0)

 先日の4月29日、勝浦教会天地金乃神大祭並びに東日本大震災復興祈願祭で「有り難いからありがたいのです」という講題で教話をさせていただいた。

 まずはじめに、有ることが難しい、有り難いことが起こるから「ありがたい」について、例えば宝くじに当たるなど、よいこと、表が出るとありがたいのは当たり前。もし、悪いこと、災難や苦難の場合はどうか。まさにこのたびの地震のように滅多にない、有り難いことが起きるとどうか。どうこれを受け止めていけばいいのか。

 結論から言って、普通に今、こうして生きていること、スイッチを入れれば電気がつき、蛇口をひねれば水が出て、衣食住足りて当たり前に生活しているが、しかし、実はこの当たり前のことが当たり前でなく有り難いことであり、当たり前にあることが実は大変ありがたいことであるということを私たちに教えてくれ、悟らせてくれ、真に豊かで充実した人生を送ることができるということではないかと思う。

 続いて、このたびの東日本大震災について、すでに当ブログでふれた地震当日の東京や小金井寮の様子、寮生や面接者の動向、気仙沼教会信徒で寮生のRさんの震災後のこと、私がボランティア運転手として気仙沼入りした時のことについてお話しした。 

 次に、石原都知事の天罰発言、被災直後の被災者の「神も仏もない」や一部マスコミの「神は人間を殺すのか」と言った論調の中で、震災を信仰的にどう考えるのかについて私なりの考えをお話しした。

 まず、金光大神様は、「天地金乃神のご神体は天地である」、「天地は生き通しである。天地が生きているから、人間もみな生きていられるのである」と教えられている。天地が生きているから動く。つまり地震もある。この地球が鉄の塊であったらそもそも人間も草花も何も生きることができない。

 それから「天と地の間に人間があります。人間はみな天地の恵みを受けて地上に生きているのである」と人間は天地の恵みによって生かされて生きると教えてくださっている。と同時に「地当たりをつける。大地震、二丈底から動かす。地ばかりでなし。空中まで動く。そこで昔から、地震がいればたつ鳥が落ちるということを言おうがな。氏子、天道、人を殺さずというておる。天、当たりをつける。大雨を見よ。人を殺してある。氏子、今日様はありがたいというておる。今日様もあたりをつけるとのこと、大ひやけを見よ。一度に命を取ってござる」と仰る。

 このように天地は生きているから地震も大雨も津波もある。天地とはそういうものである。それが天地の道理だと。だからこそ、神様は人と人とが助け合って生きてほしいと願っておられる。

 ところが、「今は人代と申し。わが力で何事もしている」、「人間は勝手なものである」とのご指摘の通り、私たちは神様の子ども同士で殺し合ってみたり、人間の再現のない欲のために自分でコントロールもできない原子力発電なるものを作って、自ら難儀を引き起こしている。

 私たち現代人は、天地自然に逆らう生活のために、たくさんの電気エネルギーを使ってきた。なぜコンビニが24時間あいていなければならないか。なぜ、ビニールハウスに暖房を入れてまで、お正月にいちごを食べる必要があるのか。

 私は、天罰とか神様の罰ではなくて、神様はそうした相変わらず身勝手な人間の姿を見て悲しまれているのではないか。嘆かれているのではないか。憂いているのではないか。ここまで一生懸命教えてきたつもりなのに、まだ気が付かないか。早く気が付いて助かってほしいと切に願われているのではないかと思う。

 また、「地震いり、天地乃神気ざわり、世の狂いに相成り候」とのお知らせがある。これを神様の怒りと解釈する向きもあるが、私は気ざわりとは「気になっていること」で、身勝手な人間の姿を見て、「まだわからないか」「まだ気が付かないか」とお嘆きになり、憂いているのではないかと思う。 

 「人間が助からないと神も助からない」、「天地金乃神を助けてくれい」とまで仰ってくださる神様、「天地金乃神は人間の親神である。かわいい子を、どうして難儀に遭わせなさるであろうか。わが子をもって納得するがよい」と仰ってくださる神様である。

 嘆き、悲しまれ、だからこそ助かってほしいと思う神様の御心、神心は、このたび不幸にも地震と津波で犠牲となられた御霊様がどのように思われているか、あるいは生き残られた方がどう思っているか、に思いを馳せればよく理解できる思う。

 朝日新聞に特集記事が連日掲載されているが、本当に記事を読むだけでも涙が出てくる。その中で、あの何もなくなったがれきの中で、女の子が一人泣いている写真があった。このお子さんを一人残して家族はすべて波にさらわれたという。このお子さんを一人残してなくなってしまった親御さんの気持ちは、「ひとりぼっちにしてしまい、本当にごめん。でもどうかここから何とか元気で生きていってほしい。絶対に幸せになってほしい」とそれこそ必死で思い、願っているに違いない。

 そしてさらに平安時代の貞観の大地震、あるいは明治の大地震、そして昭和の大地震で亡くなられた御霊様の気持ちを思うと、もう三回も経験し、天地の道理を教えてもらっているのに、時間がたてばそれを忘れて、また同じ悲しみを味わっている子孫を見て嘆かれているのではないか。まさにこうした思いが、天地金乃神様のと同じ思いではないか。

 それから今度は生き残った方に思いを馳せたいが、あるお母さんは津波に襲われぎりぎりまでお子さんの手を握っていたけれども、完全に飲み込まれて気が付いたときは手を離してしまっていた。そのわが子を亡くされたお母さんは、なぜ私でなくて子どもが死んでしまったのか、もうわが子を死に至らしめてしまった罪悪感で苦しんでいる。なぜ私じゃなくて息子なのか。できれば私が代わってあげたかったという心情、この親心がまさに神心だと思う。

 さて、講題の「有り難いから、ありがたいのです」について、このたびの多くの犠牲者の方は、例えば先ほどの手が離れたお子さんは、もしかしたら逆にお母さんだったかもしれないし、もっと大きな視点から見ると他の誰かかもしれないし、私だったかもしれないし、皆様だったかもしれない。その亡くなられた方に亡くなった必然性はない。そう考えると犠牲になられた方々は私たちの代わりに、つまりは身代わりになって亡くなられたのではないかととらえることもできる。

 逆にあの宮城県南三陸町で、津波到達の直前まで防災放送で町民に高台への避難を呼び掛け続け、お亡くなりになられた同町職員の遠藤未希さんのおかけで、恐らく何百、何千の人が助かったと思う。まさにこの方の死は助かった多くの皆さまの身代わりとなって、まさに犠牲となって亡くなってしまった。

 ここで大事なことはそう受け取ることによって、私たちがここからどう思い、どう生きていけばいいかということだと思う。このような現実に思いをいたす時、私たちは、今こうして普通に当たり前に生きているということはそうした無数の犠牲の上にたってはじめて生きることができている、普通の生活がほとんど奇蹟といっていいことなんだというような謙虚な気持ちにならさせていただくことができる。そこに思いをいたし、改まることができる。これがありがたいことではないか。 

 当たり前は当たり前ではなく、こうして普通に生きていることが有り難いことであり、有り難いからありがたいということをこうした災難や苦難が教えてくださっているではと思う。有り難いを漢文読みすると「難が有る」からありがたいとも読める。

 こうした教えに生きる私たち金光教信奉者は、あだやおろそかには生きることができない。天地の道理を知り、神様や御霊様の思いを知って、自分勝手な生き方を改め、今あることが誠にありがたいことであり、そこに深く感謝申し上げるとともに、「人が人を助けるのが人間である・・・人の難儀を助けるのが人間である」との神様の願い、教祖金光大神様の願いを今こそ実践するべき時だと思う。

(当日の話に若干たらないところを加筆しております)

コメントする

2012年4月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

このブログ記事について

このページは、つっさんが2011年5月 7日 18:00に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「無事に帰寮しております。」です。

次のブログ記事は「5月の月例祭執行」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

カウンター

累計:
本日:
昨日: