改めて、「平和は平和からしか生まれない」
(前回の分より短くし、少し変えています)
長い冷戦が終結し、二十一世紀は、平和への希望とともに始まりました。人類はようやく戦争の時代を終え、対話と協調の世紀を迎えることができるのではないか。そんな期待がありました。
しかし、その希望とは裏腹に、二十一世紀が始まった2001年、アメリカ同時多発テロ事件が起こりました。その後、アフガニスタンへの軍事攻撃、イラク戦争へと続き、世界は再び戦争と暴力の渦へと巻き込まれていきました。
そして今、ロシアがウクライナに侵攻し、イスラエルとガザ地区では戦闘が続き、さらにアメリカもイランを攻撃するという事態になっています。「平和の世紀」になるはずだった二十一世紀が、戦争と暴力の世紀になってしまいました。
同じ天地の中に生きる人間同士が、兄弟同士が殺し合う。その姿を、親である神様は、どれほど嘆き、悲しんでおられることでしょうか。一刻も早く、戦争をやめてほしい。
そして日本でも、「安全保障環境が変わった」「戦争を抑止するために」という理由から、防衛費が増額され、軍備の増強が進められています。物価高に苦しみ、生活に不安を抱えている人が少なくない中で、これで本当にいいのでしょうか。
武力によらない平和を掲げる憲法9条も、今、大きな岐路に立っています。ある方は、「9条の旗はボロボロです。しかし、旗竿だけは、かろうじて手放さずにいる」と言います。本当に私たちは、この9条の旗を手放してよいのでしょうか。
憲法9条は、数々の悲劇的な戦争を経て、国際社会がむき出しの暴力に傾かぬよう、人類が悩み、苦しみ、努力を重ねながら地道に築いてきた、極めて貴重な財産であります。芥川賞作家であり、本教信奉者でもある小川洋子さんは、憲法9条について、北斗七星のような存在だとお話しされています。「北斗七星は、いつもそこにあります」。そのように、憲法9条が動かしがたい理想として存在していれば、「戦争をしてはいけない」と、私たちは何度でも立ち返ることができるのです。だからこそ、9条が示している平和への方向性を、決して失ってはいけないと思います。
現在の日本社会について、1930年代、昭和10年代の日中戦争勃発前の社会との類似を指摘する声があります。物価高、軍備の増強、外国人への偏見、強い指導者への期待、情報統制や自主規制、そしてメディアによって不安や敵意が煽られる風潮が現在とそっくりです。
1937年、昭和12年7月7日、盧溝橋事件をきっかけとして日中の軍事衝突が拡大し、やがて日中全面戦争へと発展していきました。小さな軍事衝突が、大きな戦争に繋がりました。そして、戦争は始めるときよりも、終わらせるときの方がはるかに難しい。だからこそ、戦争に至る前の社会の空気に、私たちは敏感でなければならないと思います。
私が金光教東京学生寮の寮監として御用していた時のことです。ロシアによるウクライナ侵攻が始まる直前、当時寮にいた男子学生7人に、私は一人ひとり、「もし日本でも戦争が起きたら、あなたは戦争に行くか」と尋ねました。
すると、何と7人全員が「戦争に行く」と答えました。私は本当に驚きました。私たち大人が、戦争とは一体どういうものなのかを、若い人たちに十分伝えてきただろうかと考えさせられました。
戦争とは、勇ましいものでも、英雄的なものでもありません。殺し、殺される。焼き、焼かれる。痛くて、臭くて、腹が減り、心細く、そして想像を絶するほど恐ろしいものです。先の大戦で亡くなった日本の軍人・軍属は約230万人に上ります。その中には、餓えや栄養失調によって命を失った人も数多くいました。
戦争で亡くなった人は、特別な人たちではありません。昨日まで普通に暮らしていた、私たちの身近な「おじさん」や「お兄さん」が戦場に送られ、鬼と化します。そして傷つき、飢え、命を失っていったのです。戦争が終わっても、その傷は終わりません。
金光教では毎日の御祈念で、「世界真の平和」を祈っています。なぜ、わざわざ「真の平和」と言うのでしょうか。私は、そこには深い意味があると思っています。戦争をして平和をつくる。軍備を増強して平和を守る。一見すると「平和のため」と言いながら、その手段は暴力であり、そこには、大きな矛盾があります。
金光教学院長も務められた出川真澄先生は、「平和は、平和以外のものから、生まれてきようがない」「戦争から、平和は出てこん」と仰いました。やはり、「平和は、平和からしか生まれない」のです。
そして、金光教が願う平和とは、一部の人だけが安全であるという平和ではありません。金光大神様が「総氏子身上安全」と願われた、その「総」が大事です。
ロシアの人々も、ウクライナの人々も。イスラエルの人々も、ガザ地区の人々も。中国の人々も、台湾の人々も。そして、日本の人々も。
すべての一人ひとりが助かる平和です。
私は東京学生寮で学生たちと関わり、また東京センターで平和について取り組む中で、一つのことに気づきました。小さく言えば「親と子」。大きく言えば「国と国」。その争いの根本原因は、「間違っているあなたのためを思って、私が正してあげる」という思いです。
「自分は正しい。だから相手を正さなければならない」。そこから、「正義のために命を懸けて戦うことは崇高な使命である」という考え方につながり、戦争を正当化します。
だからこそ、相手を変えようとする前に、自分自身の中にある暴力性や、常に自分を正当化しようとする心を見つめなければならない。相手の痛みを、自分の痛みとして感じる。そして、対話と協調の道を選ぶ。そこに、平和への第一歩があるのではないでしょうか。
現実は厳しい、と言われます。確かに、その通りです。しかし、世界を見渡せば、ロシアにも、イスラエルにも、ウクライナにも、ガザ地区にも、「報復ではなく対話を」「分断ではなく協調を」「戦争ではなく平和を」と願っている人たちがいます。
そうした世界の人々とつながっていき、宗教や国境を越えて、対話と協調の輪を広げ、そして、世界真の平和へ向かって、一歩ずつ歩んでいきたいと思います。
平和は、平和からしか生まれません。






